第一章 月季の憂鬱②
「あなたは──恨みを晴らしたいの?」
その言葉は、来児に向けられたものだった。月季が幽鬼に向ける声は、つねにやさしい。
老婆がびくりと体を震わせる。来児は、ゆるくかぶりをふった。重たげな鬟に、細い首が折れてしまいそうだった。
「あたし……もう苦しみたくない。楽になりたいの。でも、その方法がわからない……」
途方に暮れた迷子のような言葉に、月季は
恨みを抱くほどの気力もない、ただ楽土への行きかたがわからず、さまよっているだけのか弱き幽鬼。
「わたしが楽土へ案内してあげましょう。大丈夫。目を閉じて、王来児」
来児は言われたとおりに、目を閉じた。月季は顔の前に両手を持ってくる。白くほっそりとしたその指のあいだに、ふう、と息を吹きかけた。黒い羽根が散る。それらが来児の体を包み、ゆらゆらと姿を変える。
しばらくすると、羽根と来児は一体となって、小さな白い鳥になっていた。小鳥は薄い翼を懸命に羽ばたかせて、つい、と窓から外へと出てゆく。
月季は立ちあがり、窓辺へと歩みよった。空に小鳥の姿が見える。それはあっというまに遠のき、小さくなっていった。
──無事に楽土へと渡れますように。
月季はそう祈り、くるりとふり返る。老婆がぽかんとした顔で月季を見ていた。
「彼女は楽土へ向かいました。もうあなたのもとへ現れることはないでしょう」
老婆の顔に
「泣き声がしたり、うしろ姿が見えたりで客が
「ええ」
月季は微笑して、つけ加えた。
「ほかにもあなたが死なせた妓女がいなければ、の話だけれど」
老婆の顔にさっと朱が走った。
「なんだい、人聞きの悪い。あたしは誰も死なせてなんかいないよ。向こうが勝手に押っ
怒鳴り声を聞きつけてか、部屋の扉が開く。
「どうしたんです」
顔を
「どうしたもこうしたも、この
「いいんですか?」
月季は笑みを浮かべたまま、静かに
「またおなじようなことが起こるかもしれないのに。もちろん、二度とないのがいちばんですけれど」
老婆の頰が引きつった。身に覚えがあるのだろう。
急におとなしくなった老婆は、報酬の銭を卓に置くと、そそくさと部屋を出ていった。
ふう、と月季は息を吐く。ひどく疲れていた。
「めずらしいじゃないか、あんたが依頼人を怒らせるなんてさ」
おかみは卓に置かれた銭から仲介料を引くと、残りを月季の手に握らせた。月季は手のひらが汚れた気がしていやになる。そもそも銅銭は独特のにおいが手に残っていやなのだ。ふところから財布をとりだし、そこに入れて早々にしまい込んだ。
「おかみさん、ああいう依頼人を連れてこないでちょうだいよ。どう見てもたたけば
おかみは鼻で笑った。
「幽鬼に
月季は黙り込む。おかみは
「まあ、まあ。あの婆さんの
「そうだといいけれど……」
「自分じゃどうにもできないことで悩むのはおよしよ。さあ、お茶でも飲んでおいき」
うつむく月季の肩を、おかみはさきほどよりもやさしくたたく。このおかみは元来、気のいいひとである。五十がらみのもと妓女で、女手ひとつでこの茶館『
茶館で茶菓子をご
──巫術師は、幽鬼に脅かされるひとを助けるものだと思っていた。
実際のところ、脅かされていたのは幽鬼となった者のことが多い。折檻で死んだ
はあ、とため息をついて顔をあげると、人混みに見知った顔を見つけて、月季は足をとめた。向こうでも月季に気づき、立ち止まる。
「
月季は軽く手をあげ、彼のもとへと駆けよった。薄墨の
「あら、
青年は
「渓に市を案内がてら、必要なものを買いに来たんだ」
霊耀が答え、「おまえは──」と月季の顔を眺めた。
「ひと仕事終えたあとか?」
「そうよ。よくおわかりね」
「疲れた顔をしている」
淡々と霊耀は言う。
──そんなに疲れた顔をしているかしら。
月季は頰をさすった。
「働きすぎじゃないのか。すこしは休んだらどうだ」
「わたし以外にまともな巫術師がもっといればね。
祀学堂は巫術の
「あなたは、ちゃんと真面目に学んでいるのでしょうね?」
月季は渓のほうを見あげる。渓は
「渓は座学はからきしだが、実技の筋はいい。父もそう言っている」
霊耀が端的に評する。彼の父は封家の祀学堂の学長である。封家は月季の董家と並ぶ巫術師の名門だ。
「霊耀を困らせないようにね」
月季が言うと、渓はなにを思ったのか、おかしそうに笑った。月季はこの男が、すこしばかり苦手である。すべてをわかったような顔で笑うからだ。
「俺はべつに困ってない」
霊耀は相変わらずの無表情で言い、「それより」とかたわらに抱えた包みからひとつをとって、月季にさしだした。油紙に包まれており、受けとるとほんのりあたたかい。食べ物だろう。
「渓が腹が減ったとうるさいから
「……くれるの? わたしに?」
「そうだが」
月季の反応に、霊耀はけげんそうにする。
「疲れたときは、食事をしっかりとれ。それからよく眠れ」
「はあ」
どうやら心配してくれているらしい。霊耀の隣で渓が含み笑いしているのが気に食わないが、月季は餅の包みを両手で大事に抱え直した。
「ありがとう」
お礼の言葉に霊耀は軽くうなずいただけで、その場から立ち去ろうとする。それを制したのは渓である。
「いや、家まで送ってやれよ。これでもうら若い娘だぜ」
『これでも』とはなんだ──と渓をにらみつつ、
「大丈夫よ。いつも仕事のときはひとりだもの。じゃあね」
月季はそう言うと、ふたりから離れた。抱えた包みがあたたかい。さきほどまでよりも、足どりは軽くなっていた。
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