第一章 月季の憂鬱③

 翌日のことである。

 董家は皇城の近くに邸宅を構えている。建物もなかの調度類もぜいを尽くしたものではなく、名門の屋敷にしては質素だろう。しかし邸内はつねにきれいに掃き清められ、すがすがしさに満ちている。庭木の落ち葉がそのままになっていることもない。中庭に敷き詰められた石畳には水が打たれており、いっそう清潔さをたたえていた。

 月季は渡り廊下の柱にもたれかかり、ぼんやりと庭の梅の木を眺めていた。今日は巫術師の仕事もないので、普段着のじゆくんを身にまとっている。頭に思い浮かんでいるのは、昨日祓った幽鬼の姿だった。彼女は無事に楽土へと渡れたであろうか。

「月季」

 柔和な声に、月季はふり返る。

「お祖父じい様」

 月季の祖父、せんがそこにいた。祖父といっても血はつながっていない。月季は養女だからだ。

「梅の実のふくらみ具合はどうかな」

 千里は月季の隣に立ち、おなじように梅の木を眺める。梅の木はこうした庭にはめずらしくおうせいに葉を茂らせ、ぷっくりとした丸い実がすずりになっていた。祖父は自然に任せて茂らせるのが好きなのだ。虫も多いので母はいやがっている。

「まだ収穫には早いわ、お祖父様」

「あと半月ほどだろうね。今年もいい梅酒ができそうだ」

 収穫した実は祖母が酒に漬ける。毎年恒例のことだった。くりやの奥には祖母特製の梅酒がずらりと保管されている。

「お祖父様、わたしになにか御用? 呼んでくれたら、お部屋まで行ったのに」

 平素は部屋で書物を読むか、書き物をしてばかりの祖父である。祖父はいたって壮健だが、とはいえ老齢には違いなく、立ち歩くのは大儀だろう。現にいまつえをついている。わざわざ、さがしに来てくれたのだろうか、と月季は思った。

「いや、いいんだ。こうして折々歩かねば、体がえてしまうからね」

 千里はやさしいまなざしで、月季をじっと見つめた。おそらく昨日から月季の元気がないのを気にして、様子を見に来たのだろう。祖父はいつもあからさまには口にせず、強いて問いただすこともなく、月季を気遣っている。口に出して問えばそのぶん、月季が気を回して元気なふりをするとわかっているからだろう。

「……お祖父様、じゆつって、なんなのかしら」

 千里は、絶える寸前だった巫術師の再興に尽力したひとりである。その千里にこんな問いかけをするのも、どうかと思うが。

「幽鬼が哀れでしかたないの。どうかすると依頼してきたひとより、幽鬼の願いをかなえてあげたくなる……」

 月季はうつむく。渡り廊下に敷かれた石は模様のない灰色のせんで、つややかで美しいが、冷たく映る。

 千里の手が、月季の頭にのせられる。千里はやさしく月季の頭をでた。

「私は巫術師ではないから、的を射た答えを与えてあげられない。だが、早急に答えを出そうとしないことだ。急いで出した答えに飛びつくと、間違えかねないからね」

 月季は祖父を見あげた。千里は柔和な笑みを月季に向けている。頭上に祖父のやさしいぬくもりを感じながら、月季は胸に手をあてる。月季が惑うのは、自分自身に恐れを抱いているからだった。

 ──わたしには、化け物がいているのかもしれない。

 そういう恐れが、ずっとある。子供のころから。ままははが黒い化け物に殺されたときから。

 最近、改めて自覚した。子供のころに聞いた恐ろしい声が、また聞こえたからだ。

『殺してやろうか』とささやく声──。

 霊耀は、千里に相談しろと言う。だが、月季はいまだ祖父に言いかねていた。董家に引き取られてからいままで言えずにいるのは、怖いからだ。追い出されるのが。祖父の顔が曇るのが。そんなことはないはずだとは思っても、祖父の顔が恐れと嫌悪に曇ったら──そう想像するだけで苦しい。

「月季」

 千里がまた呼びかける。

「胸につかえていることがあるなら、なんでも言ってごらん。私に言えないなら、ほかの者にでもいいから」

 やさしい声音が、胸に染み込む。思えば引き取られたころから、千里は幾度となく月季にそう声をかけてくれていて、怖い夢を見て眠れぬときなどは、一緒に寝てくれたものだった。月季はいまも悪夢にうなされるときがあるが、さすがにこの歳になって祖父に添い寝してもらうわけにもいかないので、ひとりで寝ている。霊耀に打ち明けたからか、悪夢を見る頻度も減っていた。

「相談したいことは……あるの。そのうち、自分のなかで言葉がまとまったら、聞いてほしい」

 月季はどうにかそう言った。祖父にかねばならないとは、わかっている。

 千里は笑みを浮かべたまま、黙ってうなずいた。

「お嬢様」

 小間使いが廊下を走ってくる。

「錦華楼のおかみから、使いが来ています」

「依頼かしら」

「はい。かごを用意してあるそうで、門の前で待っていると」

「急ぎなのね」

 ふう、と月季はため息をつく。

「わかったわ。すぐに支度をするから、そのまま待たせてちょうだい」

 月季は千里に向き直り、

「それじゃ、お祖父様。いってきます」

 あいさつをして、着替えのために部屋へ向かう。千里は月季のうしろ姿を眺め、憂いを帯びた表情を浮かべていた。


 巫術師の装束は黒衣と決まっている。なかでも高位の巫術師は絹地に文様を織り出した黒衣をまとう。白い腰帯の上に革帯を締めるのは祀学堂の制服とおなじだ。腰には細身の剣をく。

 支度を整えた月季は轎に揺られて錦華楼に向かっていた。どこからともなく一羽のつばめがやってきて、月季のそばを飛ぶ。だ。いつからか月季のそばにいる燕だった。烏衣というのは燕の別名なので、霊耀などは「もっとちゃんとした名を考えてやれ」などと言う。烏衣はまた、巫術師の俗称でもあった。巫術師の装束が燕のようだからだ。

 月季の乗る轎からつかず離れず烏衣は飛び、錦華楼に着くとそのがわらの上で翼を休める。いつもの部屋に入ると、それを見計らったように窓から烏衣が飛び込んできて、窓辺にとまった。窓の格子はきれいな花模様になっており、月季の座る椅子も卓もやはり花模様の浮き彫りがある。隅にある棚には染付のつぼが飾られ、壁にはにしきの布がかけられていた。いずれも派手すぎず、地味すぎず、いいあんばいの調度品だ。おかみが言うには、きらびやかすぎても、陰気すぎても「うさんくさい」そうで、文人の隠居屋敷くらいのしつらえが巫術師の商いにはちょうどよかろうとのことだった。月季にはよくわからない。

「急に呼び出して、すまないねえ」

 おかみが部屋に入ってくる。背後に婦人をひとり伴っていた。二十五、六だろうか、裕福な商家の夫人といった身なりで、整った顔立ちをしているが、やつれて顔色も悪い。両手で布包みを抱えていた。

「このひとがどうしてもって、店先で騒ぐもんだからさ」

 おかみはうしろの婦人をふり返る。青い顔をした彼女は、ふらりと部屋に入ってきたかと思うと、倒れ込むように月季のそばにひざまずいた。

「董こう、どうか……どうかお願いします。助けてください」

 涙声でそう訴える。

「わたしは茶商のじよせいしゆうの妻、じようかんさんじようと申します。どうかお助けくださいませ。このままでは、夫は死んでしまいます」

 穏やかでない訴えである。ともかく月季はおかみの手を借りて三娘を立たせて、向かいの椅子に座らせた。三娘は抱えていた布包みを卓上に置く。ごとりと音がした。

「夫は、このままでは死んでしまいます……この香炉に取り憑かれて」

 三娘は布包みを開いた。そこにあったのは、白磁の香炉だった。

「こりゃ、見事な香炉だねえ」

 うしろからのぞき込んだおかみが感嘆する。たしかに、美しい香炉だった。丸い香炉の表面には陰刻ですいれんが一面描かれており、ゆうやくがそこにたまって、ほのかな青色をしている。白い面に淡い青の睡蓮が浮かびあがっているのだ。くっきりとした青ではなく、いまにも消えそうなはかない水色であるのがいい。白磁はつるりと美しく気品があり、値の張るものだろうと思えた。

「この香炉は、呪いの香炉なんです」

 暗い声で、三娘は言った。うつろな目をしている。

「持ち主をつぎつぎに死なせているんです。ひとを殺す香炉です。しかしこのとおり美しい香炉ですから、古物商からそんな話を聞かされても、夫はひと目で気に入って買ってしまったんです。それからというもの、日に日に夫はせていって、代わりに目はらんらんと光って……」

 三娘はしくしくと泣きだした。おかみは「じゃあ、あとは任せたよ」と言って部屋を出ていった。

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