第二章 楊柳島の幽鬼②

 月季が革袋からとりだしたにしきの布包みを枕元に置くと、肩にのっていた烏衣がそこへ飛び移り、羽繕いをはじめる。どうやら烏衣の寝床らしい。

「そのつばめ、餌はやらなくていいのか?」

 船中でなにか食べさせていた覚えがないのでくと、

「ときどき、どこかへ飛んでゆくでしょう。虫をとりに行っているのよ。水は用意するけど」

 と言い、器に水差しから水をそそいで、寝台脇のづくえに置く。次いで月季は「はすの実、食べる?」と漆塗りの合子のふたをとり、霊耀にさしだした。なかには薄黄色の丸い実が入っている。船でももらったものだ。しかしいまの流れでさしだされると、餌を与えられているような気になった。それでもひとつつまんで口に入れると、まわりをくるむ糖は甘く、蓮の実はほっくりとして、ついついもうひとつと手が出る。これは月季の祖母が作って持たせたもので、昔から霊耀の好物でもあった。

「持ってきてよかったわ」

 黙々と食べる霊耀を、月季はにこやかな顔で眺めている。

「いまね、お様にこれの作りかたを教わっているのよ。そのうち、あなたに出せるものを作れるようになるわ」

「へえ」

 月季は器用で、やればなんでもできてしまう。菓子でも、すぐに上手に作れるようになるのだろう。

「うれしい?」

「俺が? なぜ」

「わたしが嫁いだら、いつでも食べられるようになるでしょう」

「そうか」

 上の空でこたえる。考えてみれば、月季は嫁いでもおかしくない年齢である。しかし婚儀の時期については、まだはっきりと決まっていない。そのうち両家の当主が話し合って決めるのだろう、と霊耀は他人ひとごとのようにとらえている。

 唐突に、月季は合子の蓋を閉めて、袋のなかにしまい込んだ。

「もうあげない」

「え?」

 見れば、不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。無意識のうちに食べ過ぎてしまっただろうか、と霊耀は己の手を見つめた。

「悪い。俺ばかり食べ過ぎたか?」

 そう言うと、月季はあきれたように霊耀を見た。

「あなたってひとは……」

「なんだ」

「困ったひとね」

 なんだそれは──と思ったが、口にするよりさきに、

「着替えるから、出てってちょうだい」

 と、とばりの外に追い出された。言い返そうとふり返るも、薄絹の帳はうっすらと姿が透けて見えたので、霊耀はあわててついたてを一枚、そこに移動させなくてはならなかった。

 ──月季の言動は、ときどき意味がわからない。

 はたして明日からちゃんと意思の疎通がはかれるのだろうか、と霊耀は一抹の不安を胸に、でんの衝立を眺めた。


 はじめての船旅で疲れていたのか、その晩はぐっすりと眠った。翌朝、霊耀が起きると、月季はすでに身支度をすませているようだった。『清芳楼』の使用人が水を運んできたので、急いでうがいをして顔を洗う。

「お支度、手伝いましょうか?」

 衝立の向こうから声がして、「いらん」と言下に断った。言ってから、「いや、すまん。起きるのが遅れた」とばつの悪い思いでつけ加えた。

「あら」笑みを含んだ声が聞こえる。「いいえ、じゅうぶんお早いわ。わたしが早くに目が覚めてしまっただけ」

「あまり眠れなかったのか」

「そうでもないわ。よく眠れないのはいつものことだから」

 霊耀は着替えの手をとめる。

「眠れないのは、体によくないだろう。董老公に頼んで、よい薬湯でも教えてもらえばいいだろうに」

 月季の祖父は病弱だったとかで、体にいいものには詳しい。

「おやさしいのね」と月季は笑う。

「茶化すな。真面目に言っている」

「……そうね。ごめんなさい。どうもありがとう」

 月季にしてはめずらしく、至極素直に返してきたので、霊耀はいささか驚いた。

「いや……」言葉に困り、着替えを急ぐことで誤魔化した。

 身支度を整えて月季と顔を合わせると、彼女は寝不足など感じさせることのない、ふだんどおりの美しい顔をしていた。むしろ肩にのった烏衣のほうが、眠たげにつぶらな目をしばたたいている。

 ふたりは食堂へ赴き、かゆで朝食をすませることにする。昨夜と違って、朝の食堂は閑散として静かだ。粥は塩気がちょうどよく、った松の実とどりが入っていた。

「これから東鼓家に向かうのか?」

「そうね。そのまえにまず、鼓方さんにあいさつだけしておきましょう」

 食事を終えて鼓方洪のもとへ向かうと、彼は体調がすぐれないとのことで寝室にいた。寝台の上に起きあがった洪は、目の下に黒いくまを作り、やつれて見えた。霊耀はちらと部屋の隅に目を向ける。れた女の幽鬼が、いる。昨夜と変わらない。

「これから東鼓家へ向かいます」と告げる月季に、洪は弱々しくうなずいて、「道案内に、うちの者をおつけしましょう」と言った。

「東鼓家は、その名のとおり、島の東に屋敷があります。ここからそう遠くはありません。ほかに分家はほくがあります。一代で終わった分家も入れたらもっと多いのですが、いま現在までつづいている分家はそれだけです。鼓方の本家と分家は仲がいいとは言えませんが、私自身は、商売のこともあって、それぞれの分家と相応のつきあいをしております。東鼓家の主人は酒問屋でして、うちにも酒を卸してもらってます」

 なるほど──とうなずきかけた月季が、つと視線をそらす。部屋の隅を見ている。あの幽鬼だ。つられて霊耀もそちらを見た。

 幽鬼はうなだれたまま、片腕を持ちあげていた。濡れそぼったそでが腕に貼りつき、藻が模様のように絡みついている。水を含んで膨れた真っ白な手が、洪に向けられていた。ひとさし指で、洪をさしている。

 長いあいだ、沈黙がつづいたように思えた。実際には、一瞬だったかもしれない。

「や……やめろ! 私はなにもしてない、私をさすな!」

 洪が青ざめた顔で、ろうばいした声を張りあげた。

「鼓方さん、落ち着いて」

「なんで私を指さすんだ! なんでここに、なんで私なんだ──」

 月季の声も耳に入らぬ様子で、洪は頭を抱え、寝台に突っ伏した。

「消えてくれ。頼むから消えてくれ。消えてくれ……」

 わめく洪の声に、使用人たちがばたばたと驚いた様子で入ってくる。霊耀は月季に促され、部屋の外へと出た。

「ずいぶん参ってるな」

「急ぎましょうか」

 ふたりは道案内に使用人を借り出し、東鼓家へと向かった。


「どうして、幽鬼は鼓方洪を指さしたんだ?」

 道すがら、霊耀は月季に問う。彼女もわからないようで、さあ、と首をかしげた。

「洪はなにか隠してるんじゃないか。あの幽鬼……東鼓寄娘とは数えるほどしか会ったことがない、それも顔を合わせた程度──と言っていたのだったな。しかし、さきほどは相応のつきあいをしていると言っていたぞ。それに東鼓家とは酒の取引がある。それなら、いますこしかかわりがあってもいいのではないか」

「でも、嫁入り前のお嬢さんなら、しんせきだからといって親しくすることはないんじゃないかしら」

「それはそうだが。じゃあ、おまえは彼のもとにあの幽鬼が現れて、指さす理由をなんだと考えているんだ?」

「わからないわ。だって、彼女はなにも言わないんだもの」

 だから、いまから調べに行くんじゃない──と言う。もっともである。

 東鼓家の屋敷は島の東に位置していた。細長い島は西側に山が多く、東側は広く開拓されて、小高い丘から平地にかけて、花街を中心とした商業地となっている。西側も開拓の難しいしゆんげんな山々というわけではないのだが、古くから鼓方一族のびようがあり、神聖な土地としてそのままになっているそうだ。おおよそそんな話を、案内役の使用人が語ってくれた。

 東に向かうにつれて、土地はゆるやかに傾斜してゆく。島内は京師の城内のように居住区と商業区をわけてはおらず、住居や商家が雑多に混ざっていた。おなじ商売で固まっているということもない。市は開かれているが、そこ以外でも商売をしている。地方はこんな様子なのか、と霊耀は驚く思いであたりを眺めていた。狭い島だから、細々とわけていては土地が足りない、ということなのかもしれない。

 東鼓家は通りに面しておおだなを構えていた。青いのぼりは酒を扱う商いの印である。『だいえいしゆ』と書いた大きな額がかかっていた。酒問屋であると同時に、店頭で売ってもいるらしいが、店は閉まっている。喪中だからだろうか。ふだんはおそらくにぎわっているだろう店の前は閑散としていた。

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