第一章 月季の憂鬱⑤

 その日はもう日暮れ前だったので、霊耀は翌日、祀学堂での講義が終わったあと、月季のもとを訪れた。渓も一緒である。

「お嬢様は、お出かけになりましたよ」

 かおみになっている取り次ぎの小間使いは、申し訳なさそうに告げた。

「巫術師の仕事か?」と問えば、そうだという。

「どこへ行ったかわかるか?」

「いえ、そこまでは。『ちょっと出かけてくるから』と、いつものあの装束でお出になられて」

 霊耀は董家の門を出た。

「どうするんだ? 帰るか?」

 渓の問いに、

「いや、市のほうへ行ってみよう」

 と、霊耀は歩きだした。

「市に? 月季はそこにいるのか?」

「あいつは仕事の依頼を大体『錦華楼』という茶館で受けている。そこにいるかもしれん」

「ああ、それでこないだも市で出くわしたのか」

 すっとつなげて理解するあたり、渓は頭がいい。

 市へ向かい、錦華楼に入ると、おかみが近づいてきた。

「これは封家の若様、おひさしぶりじゃありませんか」

「月季は来ているか?」

 あいさつもそこそこに尋ねると、「ええ、ちょうど来てますよ」と案内してくれる。奥にある一室が、月季の仕事用の部屋だった。いまは依頼人がいるわけではないとおかみは言う。

「難しい顔をして、なにやら考え込んでいますよ」

 仕事で難題を抱えているのだろうか。そのさなかに相談を持ちかけるのも気が引けたが、ともかく霊耀は部屋に入った。

 月季はおかみの言ったとおり、ややまゆをひそめた厳しい顔つきで座っていた。窓辺に烏衣がいて、羽繕いをしている。

「あら、霊耀。それに渓も」

 月季は驚いたように目をしばたたいた。

「どうかしたの?」

 円形の卓には椅子が四脚用意されている。霊耀は月季の向かいに座り、渓はその隣に腰をおろした。

「お茶を飲みに来た……というわけでもないんでしょう?」

「董家へ行ったら、おまえは出かけたというから、ここじゃないかと思ってやってきた」

「わたしに用事?」

「少々相談がある」

 月季は目をみはり、まじまじと霊耀を見つめた。

「なんだ」

「あなたがよりによって、わたしに相談なんて。どうしたの? よほど困り事?」

「俺とて、事と次第によってはおまえに相談くらいする」

 霊耀は眉をよせた。意地を張って月季には相談もしないと思われていたなら、心外である。

 月季は笑った。軽やかな笑みで、さきほどまでの深刻そうな雰囲気は消えている。

「そうなのね。どうもありがとう。それで、相談って?」

「ああ──」

 言いかけたとき、ちょうどおかみが茶と菓子を運んできた。菓子は甘いはすの実のあんをくるんだ、小振りのまんじゆうである。

「若様、月季とはいつ祝言をあげるんです?」

 やわらかな香りをただよわせる茶を注ぎながら、おかみが問うてくる。饅頭を手にしたところだった霊耀は、落ち着かない気分で「さあ、それは両家の当主が決めることだから」とだけ答えた。饅頭を半分に割って口に入れると、皮がふんわり、かつ、もっちりとして、おいしい。

「霊耀はわたしに相談があるのですって。いいからもう、さがってちょうだいよ」

「相談? 仕事の話かい? 色気がないねえ」部屋を出て行きかけて、戸口でおかみはふり返る。「でも、ほどほどにしとくんだよ、月季。あんたいま、徐さんの件で悩んでるんだろ?」

 月季はなんとも答えず、おかみは「やれやれ」と言いたげな顔で去っていった。

「徐さんの件?」

 霊耀は聞きとがめる。

「いいのよ、それは。考えてもしかたないでしょうから。それより、霊耀の──」

「徐って、茶商の徐か?」

 口を挟んだのは、渓である。すでにひとつ饅頭を平らげ、もうひとつ手にとっている。

 月季はけげんそうな顔をした。

「そうだけど、どうして──」

「奥さんは上官氏、夫の香炉のことで依頼してきたとか?」

 渓の言葉に、月季は霊耀のほうに顔を向けた。

「もしかして、相談って、そのこと?」

「祀学堂の同輩に、上官という男がいる。そのしんせきの娘が徐に嫁いでいるんだ。それで相談があった」

「ああ……」

 月季は天井を仰いだ。

「なんだか、いやねえ。どうしても、わたしがなんとかしないといけないみたい」

「上官氏から依頼があったのか」

「そうなのよ。奥さんは香炉を持ってきていたのだけれど、徐さんが乱入してきてね。香炉を抱えて帰ってしまったわ。今日も徐さんのお宅へ行ってみたのだけど、徐さんは香炉とともに部屋に閉じこもってしまって、誰もよせつけないそうよ。もちろん、わたしも近づけない。どうしたらいいか、考えあぐねているところなのよ」

「その香炉は、ほんとうに持ち主を取り殺すのか?」

「幽鬼がいているのはたしかだし、徐さんがやつれ果てて尋常ではないのも間違いないわ。幽鬼は女。堅気のようには見えないけれど、ろうじよというふうでもない。こちらの呼びかけには答えない。難題でしょ」

 霊耀はうなって腕を組んだ。そのうえ、とうの徐がじゆつを近づけないとなると──。

「部屋の窓なり扉なりぶち破って、その徐ってやつを引きずり出すか、部屋に踏み込むかすればいいんじゃないか」

 なんでもないように渓が言う。うまそうに茶を飲んでいる。

「で、香炉の幽鬼をはらえばいい」

「乱暴ね」

 月季の言葉に、

「命には代えられないだろ」

 渓はわりあい、まっとうなことを言った。それはそうである。

「あのね、依頼って、そう単純には運ばないのよ。人間が絡むんだもの。幽鬼を祓いさえすれば万々歳ってふうにはならないの」

「そんなものかねえ」

 渓はピンとこない顔をしている。

「奥さんはね、幽鬼を祓うためなら徐さんに乱暴を働いてもいいとは考えてないの。そんなことをして、すべてすんだあと、離縁されたらどうするの? 徐さんはいま、ただでさえ勝手なことをした奥さんに怒っているのよ。奥さんも、徐さんが心配だけど嫌われたくはないし、離縁されたくもないの。複雑なのよ」

「だったら、ほうっておけばいいさ」

 はあ、と月季はため息をついた。

「それをしてしまったら、巫術師は背負った責務を放棄することになる。それはしてはいけないことよ」

「面倒くさいんだな」

「祀学堂でそういうことも習うでしょう。あなた、なにを学んでいるのよ」

「俺は物覚えが悪いんだよ」とうそぶき、渓は退屈そうに両手を頭のうしろで組んで、椅子の背によりかかった。横目に霊耀を見やる。

「月季はもう依頼を受けていたんだし、俺たちの用事はなくなったんじゃないか?」

「まあ、そうだが……」

 霊耀は月季の顔を眺めた。

「打つ手はあるのか?」

「そうねえ……」

 月季はちやわんに目を落とす。赤絵の美しい茶碗のなかで、薄緑の茶が揺れている。

「結局、どうにかして部屋に入って、香炉の幽鬼を祓うほかないんでしょうけれど……」

 月季が迷うのは、幽鬼を無理に祓いたくないからだろう。無理に祓うというのは、幽鬼を葬り去るのとおなじだ。二度死ぬようなものだ。月季はそれをしたがらない。なるべく無事に楽土へ送ってやりたいと願う。霊耀はそれを知っている。

「その香炉に憑いている幽鬼が何者なのかは、わかっていないんだな?」

 霊耀の問いに、月季はうなずく。

「ええ。わたしの問いかけには答えないし、古物商も『香炉の持ち主がつぎつぎ死ぬ』という噂を知っているだけみたいで」

「香炉の由緒来歴は、どこまでわかっているんだ?」

「さあ……」

「古物商も以前の持ち主から買い取ったわけだろう。その持ち主は誰だ? やはり死んでいるのか? その辺から辿たどっていったら、幽鬼の正体に辿り着くかもしれない」

 月季は霊耀をまじまじと見た。

「そうかもしれないけど……辿り着くかしら」

 幽鬼が誰か、その名前がわかれば、祓える場合もある。名前はこんぱくを縛るものだから、それを知り、相手に告げることで言葉を交わし、楽土へと導くのだ。向こうに楽土へ渡る気があればの話なのだが。

「調べてみなければわからない。すくなくとも、ここで漫然と頭を悩ませているよりはいいだろう」

「そうね……そうかもしれないわね」

 月季は茶碗を置いた。表情から悩みの影が去り、ひとみが生きいきとして見える。

「やってみるわ。じゃあ、よろしくね」

「え?」

 月季はにっこり笑う。

「手伝ってくれるでしょ? あなたが言いだしたんだもの」

 霊耀はしばしぜんとして、言葉もなかった。渓はほおづえをつき、含み笑いをしている。どういう意味合いの笑みか、わからなかった。

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