佐砂井の郷

佐藤宇佳子

佐砂井の郷

 憑かれたような目をして、あなたは佐砂井ささごいの郷に向かう準備をしている。


 立夏のひとつ前の十六夜いざよいの夜、月の出から日が昇るまでのあいだ、翡翠ひすい川上流の佐砂井ささごいの郷で、二度と会えない人にもう一度会える。あのひとから寝物語に聞いたその伝承をあなたは決して忘れなかった。


 佐砂井ささごいの郷など、あなたは耳にしたこともなかった。ネットで翡翠ひすい川上流域の地図を開き、つぶさに見てみたが、そんな地名は見当たらない。あなたはむきになってさらに検索を続け、それが今から五十年以上も前に廃村となった山あいの集落であることを突き止めた。


 まもなく四月。立夏の直前の十六夜いざよいは四月末。あとひと月で、あの人にもう一度会えるかもしれない。あなたの心が震える。


 あなたの仕事は認可外保育園の保育士だ。子供の世話にひとときも気が抜けず、保護者との関係に気苦労の絶えない仕事ではあったが、勤務スケジュールだけは比較的融通が利いた。四月の十六夜いざよいとその翌日の二日間、休暇を取りたいと相談すると、主任はあからさまに嫌な顔をしたが、あなたが一歩も引かないと見て取ると、しぶしぶ聞き入れてくれた。


 翡翠ひすい川は、山地の奥部にそびえる、標高八百メートルほどの不如帰ふじょき山に源を発する清流だ。古くは峰入みねいりが盛んな修験の山であったが、今ではその慣習も廃れ、山中に点在する寺も無人となって久しい。不如帰ふじょき山を擁するK市の郷土史によると、佐砂井ささごいの郷は、標高六百メートルあたりにある、開基九百年の歴史を持つと伝えられる雁金寺かりがねじ跡のほど近くにあったらしい。


 あなたには満足な登山の経験はない。せいぜいが小学生のころに学校キャンプで登った久住くじゅう山くらいだ。失敗は許されない。月の出を迎える二十時までには、何が何でも、佐砂井ささごいの郷に着いておかねばならない。いや、日の暮れた道なき山は歩けたものではない、日没前にはたどり着いておくべきだとあなたは思い直す。水、携行食、防寒具、軍手、雨具、ライト、思いつくものをそろえ、あなたは祈るようにザックに詰め込んでいく。


 立夏直前の十六夜いざよいの朝、煙るような雨が降っていた。月が出ていなくとも会えるのだろうか、あなたは不安にかられながら、ザックをかつぎ、バスを乗り継ぐ。最後に乗り換えたコミュニティーバスで、二人連れのハイカーと三人連れの登山客と一緒になり、真っ白な頭の運転士が登山客の大荷物をちらりと見た。


 午後二時、山の端に向かってゆっくりと傾いていく黄色い太陽を見ながら、あなたは登山客とハイカーの後ろについて、不如帰ふじょき山の登山口へと真っすぐに伸びる草原の道を歩いていく。


 山麓にぽかりと口を開けた登山口に入る。道は、入口こそ木漏れ日に照らし出されていたものの、すぐに鬱蒼と生い茂る木々で薄暗くなり、同時にあなたの歩速度が落ちる。登山道とは名ばかり、大量の落ち葉で道らしき道は見えない。足元を確かめつつ十五分ほど歩くと、道が二手に分かれた。真新しい木の標識は、右が登山道、左は翡翠ひすい川と告げる。先を行くハイカーと登山客は右の道を登っていった。あなたはためらうことなく左の細いけものみちに分け入る。


 今や歩く人のいない道は木の根が張り、枯れ枝が折り重なり、まっすぐに進むことはできない。一歩足を踏み出すのにも苦労しながら、さらに二十分ほど進むと、水の流れる音が聞こえた。ぷん、と水のかおりもする。目を凝らすと照葉樹の枝と下草の隙間から、黒く濡れた沢が見えた。


 翡翠ひすい川はここでは幅二メートルほどの渓流となり、軽やかな音を立てて山から流れ出していた。折り重なる樹冠からかろうじて差し込む午後の光を受けて、川面がきらきらと輝く。


 あなたは右手首を見る。午後三時。山の日暮れは何時だろう? 急がねば。川を左手に見ながら山を登り始める。足が次第に上がらなくなり、軍手をはめた両手で立ちはだかる木の枝をつかんでは体を引き寄せ、何とか前進していく。川はからかうような水音で常にあなたの左手を流れている。


 午後四時を過ぎると、空から降り注ぐ光は急速に力強さを失った。ぞっとするような闇の気配が前から後ろからあなたを追い立てる。はやる心をなだめすかし、あなたは立ち止まる。水筒の水を飲み、飴をなめた。ヘッドランプを取り出して点灯させ、胸にもランプを下げて、再び歩み始める。ずっと動き回っているにもかかわらず、体が冷えていくのが分かる。あなたはザックからタオルを取り出し、ウインドブレーカーの首筋にぎゅっと詰め込む。


 ヘッドライトの明かりを頼りに、すっかり薄暗くなった山中をあなたは熱に浮かされたように進む。さらさらと流れるせせらぎが高くなり、低くなり、羽虫のようにまとわりついて離れない。あなたのぜいぜいと喘ぐ音が川の音に絡みあう。


 翡翠ひすい川が大きく右に曲がる。突然、山が開け、清流のカーブに囲まれた台地が現れた。頭上を幾重にも覆っていた樹冠がまばらになると、空はまだ淡い水色をたたえていた。木々の幹のあいだから、台地の上に木造の廃屋らしき影がのぞく。あなたは最後の力をふりしぼり、重たい足を引き上げて川筋の藪から台地へと這い上がる。家々を結ぶ未舗装路にたどり着いたときには、もう一歩も進めないくらい疲労していた。


 ここが佐砂井ささごいなのだろう。あなたは草むらと道を隔てるように置かれた石に力なく腰を下ろし、しばらく肩で息をした。体が重力に屈してぐずぐずと崩れ、地面に染み込みそうに思えた。


 何分間そうやって放心していたのだろうか。どこからか、ひい、ひい、ひい、と細い笛の音が聞こえた。ひい、ひい。あなたには分かる。これはトラツグミの鳴き声だ。ひい、ひい、ひい。


 あなたは、ふと気づく。次第に艶を増す暗闇の中で、廃屋がぼんやりと淡い光を放ちはじめている。あなたは瞬き、目をこする。じっと見つめる。粗末な家屋の板壁が、板葺きの屋根が、ルミノールのように青白く光っている。石だらけの小道もうっすらと発光している。淡い光を頼りに、目に見える範囲にある廃屋は十三軒だと数えられた。あなたは時計を見る。六時半。月の出まで、まだ二時間もある。それじゃあ、この光はいったい何なのだろう。


 あなたは立ち上がる。そのとたん、ふくらはぎが鋭く痛み、顔をしかめる。腰も背中も痛い。足を引きずりながら、のろのろと一番そばにある平屋に近づく。青白い壁にあなたは手をかざす。あなたの長い指が青白く照らし出される。人差し指で壁をこすり、指の腹を見る。指先がぼうと青白く発光している。夜光虫のように発光する生物が付着しているのだろうか、あなたは考える。


 痛む腰を庇いながら、光る道をさらに歩もうとすると、正面に別の淡い光の塊が現れた。それはあなたの方へと向かってくる。光の中にいるのはセーラー服を着た小柄な少女だ。透き通っている。背後に長く光の尾を引きながら、少女はあなたの右を通り過ぎる。通りしな、あなたに向かってわずかに笑みを寄こしたように見えた。気づくと、後ろからはぶかぶかの学生服を着た男の子が、左からは三輪車に乗った幼子が、淡いもやに包まれ透き通った姿で通り過ぎる。みな、穏やかにほほえみ、静かに行き交う。


 右手にある、少し傾いだ二階建ての家の玄関が開き、青白い光に包まれて、四十がらみの男女と二十前後の若い男女が出てきた。若い女はしっかりと赤ちゃんを抱いている。白いおくるみに包まれ、すやすやと眠る赤ちゃんは、家族の誰よりも白く鮮やかな光を放っている。若夫婦は幾度も振り返っては手を振りつつ、道の奥へと消えていった。


 あなたは悪い酒に酔ったようによろめきながら歩く。気持ちがざわつく。ついに郷の端まで出た。道はそこで左右に分かれている。左手の闇の中からは翡翠ひすい川のせせらぎの音が聞こえる。右手に目を凝らすと、ほの白い道が真っすぐに続き、百メートルほど先の闇の中に、家屋よりも大きな建物が沈んでいるようだ。淡く光る道に導かれ、あなたは足を引きずって歩いていく。休み休み歩いて、ようやくたどり着いたそこは、お堂と鐘楼しょうろうのある寺だった。


 雁金寺かりがねじなのだろうとあなたは思う。寺は家々よりも青みの深い光で鈍く光っている。よく見ると、境内にはぼんやりとかすむように光る数名の男女の姿がある。ゆらりと光の影を引きながら、手を合わせたり、散策したりしている。小さな白いもやがつむじ風のように吹き寄せ、あなたの前で止まる。光の中からあなたを見上げているのは、おかっぱ頭の透き通った幼児だ。不思議そうにあなたの顔を見上げて、こくんと首をかしげる。その愛らしさに、あなたは思わず右手を出して、頭を撫でようとした。


「だめ」


 背後からの叱責に、あなたの心臓が跳ねあがる。体がこわばり、差し出した右手を引くこともできない。


「触れてはだめ。彼らは別世界の存在なんだから」


 懐かしい声にもあなたの体は動かない。何かがそっとあなたの肩に触れた。ぬくもりを感じたその瞬間、肩から、凍てついた体が溶けていく。あなたは振り向く。そこには愛しくてたまらないあの人がいた。カオル!


 あなたはカオルにすがりつく。夢中で幾度も口づけする。抱きしめた体も、頬も、唇も、冷え切ったあなたの体よりも温かい。二度と離すまいと隙間なく合わせたふたつの体のどこかで、どくどくと狂おしく飛び跳ねる鼓動をあなたは感じている。その鼓動がひとつだけだと気づいてしまったら――あなたははじかれたように身を離す。


 カオルはもやをまとっていない。透き通ってもいない。それでもその体は暗闇の中でほのかに青白く輝いている。あなたは戸惑いながらその頬を両手で挟む。カオルは端正な顔を上気させ、東の空を指さす。折しも十六夜いざよいの月が上ったところだった。


 月の光を浴びながらカオルがささやく。


「お堂に行こう。十六夜いざよいの月が出て、郷人たちは家に帰っていったから」


 あなたはカオルに誘われ、お堂に上がる。扉を押し広げるのももどかしく、もつれあいながら転がり込み、カオルがあなたに口づけする。あなたはためらうように見上げる。カオルが優しい目で見つめる。


「大丈夫。ここは恋人たちの逢瀬の場だから」


 月明かりをまというっすらと光るカオルは、あなたの頭をなで、あなたの衣服を脱がせる。肌を重ね、求めあい、いくども喜悦の声を漏らし、気づいたときには開け放ったままの扉から、中空なかぞらで輝く月の光が差し込んでいた。


 あなたは隣に横たわるカオルの頬をなでる。カオルがその手に自分の手を重ねる。カオルの手は暖かい。あなたの手は冷たい。カオルがいなくなったあの日から、あなたの体が温もりを発することはなくなった。


「ごめん、ごめんね」


 何度もそう繰り返すカオルに、あなたの目から涙が流れ落ちる。カオルはあなたの目尻に口を寄せて涙を吸うと、再びあなたを抱きしめ、唇を重ね、いたるところに口づけする。


 幾度体を重ねただろうか。ぐったりとカオルに身を寄せたあなたは、まだ暗い空の下、お堂や地面のほのかな光が薄らいできたのに気づく。月は西の空に傾きかけていた。どこかでホトトギスが鳴く。


 青ざめた顔のカオルがあなたを見つめ苦し気に言う。


「もう、時間だね。さあ、日が昇る前に、この滅んだ世界から出ていかなきゃ」


 あなたは絶望的な表情を浮かべ、カオルを見る。いくら見つめても、カオルの暗い表情は変わらない。あなたはうつむき衣服を着た。最後にもう一度抱擁し、長い口づけをかわすと、振り返らずに翡翠ひすい川へと向かう。白み始めた空があなたの背中を浮かび上がらせる。


――シノブ!


 私は走っていってその背中にむしゃぶりつきたい激情を必死に抑える。あなたの姿は翡翠翡翠川へと向かう三叉路の手前で透き通り、風に揺らぐかげろうのように消えていった。


 草原に散らばった衣服をかき集めて身に着ける。ほてった体にはシノブとむつみあった名残がありありと残っており、私は「許して」と繰り返しながら涙を流した。白んだ空の下、跡形もなく消え去った佐砂井ささごいの郷を埋め尽くす空木うつぎの林から、今まさに満開の白い花びらがさらさらと縦横に舞い落ちる。あたりに馥郁たる芳香がたちこめる。


 翡翠ひすい川を背にする林道をたどり、私は重い足取りで恋人の待つ町へと戻っていった。

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