お題 「色」−②

 二人で過ごす日常は温かい陽だまりのような時間だった。少し珍しい外観だが、花が長持ちし、何より他の庭より色鮮やかに美しく咲くということで庭師としての依頼も少しずつ増えていく。

 時折以前関係を持った女達がヴィクターを誘い出しに来たが、庭の世話を理由にすべて断った。何人かはヴィクターの恋人だと思ってラエラに敵意を向けることもあったが、そのたびにラエラが愛想よく出迎えるので毒気が抜かれたように帰っていく。

 ヴィクターはもう安易な繋がりを求めなかった。ラエラが大きな、大地に根付くような確かな愛情をヴィクターに向けてくれるから、それだけで孤独なスラムの少年は救われたのだった。





 だがそんな日常に少しの陰りが差したのは、季節がまたひとつ廻った時だった。


 庭の手入れの依頼を受けた帰り道、ヴィクターはぶらぶらと町中を歩きながら帰路についていた。時刻は夕暮れ。ほんのりと朱に染まった空が、少しずつ闇をまとい始めている。

 どこかで食事をして帰ろうかと思ったが、あまり遅くなるとラエラが心配するだろう。家までの道を真っすぐに歩いていると、背後で土を踏む音が聞こえた。


「ヴィクター、久しぶりね」


 愛らしい声が聞こえ、ヴィクターは振り向いた。群青色の瞳に、見慣れた栗色の髪と勝ち気な顔が映る。

 そこには屋敷で別れた頃と変わらず美しいお嬢様が立っていた。だが彼女はどことなく後ろめたいような、憂えた顔をしている。

 驚いたヴィクターは、彼女の手を引き、慌てて物陰に連れて行った。


「お嬢様、どうしたんですか。もう俺はあなたとは関係のない人間です。前の使用人とこうやって会っているところを人に見られるとややこしいことになりますよ」

「ヴィクター。私、どうしてもあなたにお願いしたいことがあって来たの。少しだけ私の話を聞いて頂戴」

「……わかりました。要件はなんですか」


 ヴィクターが戸惑いながらもうなずくと、お嬢様がその赤い瞳を真っすぐに向ける。


「私、いよいよ結婚することになったの。この次の春に屋敷を出るわ」

「それはおめでとうございます。お願いというのは、結婚式の花でも見繕ってほしいということですか」

「あなたを住み込みの庭師として雇いたいの。前みたいに私のそばにずっといて頂戴」


 お嬢様の言い分にヴィクターはまゆをひそめた。


「お嬢様がそれほどまでに情熱的だったとは知りませんでしたが」

「もちろん変な意味ではないわ。昔のように側にいてくれるだけでいいの。私の目の届くところにいてくれれば満足よ」

「あなたの旦那様はこのことをご承知なのですか」

「……いいえ。でもこれから話すわ」


 絞り出すように言うと、お嬢様は後ろめたそうに視線をそらした。彼女が一時の感情で行動をしているのは間違いない。だからヴィクターは一つため息をつくと、くるりと後ろを向いた。


「それでは今ここでお話することはありません。俺はもうこれで失礼させてもらいますよ」

「あ、待って! 行かないで!」


 ぐっとシャツの裾を引かれたかと思うと、お嬢様がヴィクターの腕の中に飛び込んできた。思わず抱きとめると同時にふわりと甘い香水の匂いが漂う。

 幼い頃と違い、お嬢様の頭はもうずいぶんと下の方にあった。小さく細い肩がヴィクターの腕の中でふるりと震える。


「ヴィクター、私不安なの。お父様とも執事とも離れて一人で嫁がなければならないのだもの。私は一人になるのが怖い。だからあなたに側にいてほしいのよ」

「それではあなたのお屋敷の執事を連れて行けばいいではないのですか。彼ならあなたを守ってくれるでしょう」

「あの人が仕えているのは私ではなくお父様だわ。私に構ってくれるのもお父様の為なのよ」


 そう言ってお嬢様がヴィクターの背に回した細い腕にギュッと力をこめる。


「でもあなたはいつだって私の味方だったわ。私が呼べば三分以内に必ず来てくれて、私の望むものをすべて叶えてくれた。いくらワガママを言っても、文句を言っても、一つ微笑んで許してくれたじゃない」


 お嬢様の言葉に、かつての恋心が蘇る。どんなに無茶な要望を突きつけられても横暴な振る舞いをされても可愛く思えたのは、それが彼女の寂しさから出るものだと知っていたからだ。

 孤独ゆえの愛情の飢餓はヴィクターも痛いほど知っている。だからこそ彼女に必要とされることは嬉しかったし、彼女に婚約者ができて心を傷を負ったのも事実だ。自分の出目を知った周囲の人間が離れていくことに怯えて軽薄な繋がりを求めていたヴィクターは、彼女のよき理解者なのかもしれない。

 だからこそ……かつて彼女を愛していた者として、ヴィクターは彼女の両肩に手を置くと静かに引き離した。


「残念ですがあなたの気持ちにお答えすることはできません。このままお帰り下さい」

「どうして? あなたは私のことが好きではなかったの? あの時あなたがクビにされるのを黙って見ていたことを怒っているの?」

「以前にも申し上げましたが、あなたの側にいるべき人は俺ではありません。あなたにはもう大切にしなければならない人が他にいるでしょう」


 そう言ってヴィクターは彼女の赤い瞳を見下ろした。かつて恋焦がれていた目。自分の幼い頃の憧れそのものだ。


「人が離れていく不安は俺もわかりますよ。だけど、その不安から逃れるためにあなたは立ち上がらなければいけない。安寧の場所を探して逃げるのではなく、あなた自身が作らなければ」

「あなたは私と同じだと思っていたのに」

「俺にはもう自分を支えてくれる存在を見つけたんですよ」

「それはあなたがお屋敷から持って行ったヒヤシンス?」

「ええ、そうです」


 そう言ってヴィクターは微笑んだ。ラエラがいなかったら、ヴィクターはこの手を取っていたかもしれない。だがお嬢様が自分と一緒になる未来がない以上、この手を取ることはお嬢様とヴィクター、どちらをも不幸にするのだ。

 だが今のヴィクターにはもう居場所がある。

 あの時の三分の選択が今のヴィクターを救ったのだ。


「俺はあなたを愛していました。だから俺はもうあなたとは会いません。どうぞお元気で」


 静かに告げ、彼女の幸福を願って優しいを笑みを返すとヴィクターはその場を後にした。すがるような視線が追いかけてくるが、ヴィクターは一度も振り返ることはなかった。



 家までの道をヴィクターは急ぎ足で歩いていた。先ほどの一件ですっかり帰宅が遅くなってしまった。ラエラが人の姿としてヴィクター以外の人間からも認識できるようになったからには、あまり遅くまで一人にしておくことは憚られた。

 あたりはすっかり闇をまといはじめ、石畳の道に等間隔に並ぶ街灯がポツポツと明かりをつけ始める。歩きなれたはずの道なのにも関わらず、ヴィクターはつまずいて転びそうになった。咄嗟に踏ん張ったことで地面にたたきつけられることは免れたが、そのはずみに視界の端に草むらから覗く金色のものが映る。

 一瞬驚きに目を見張ったが、よく見るとそれは獣の目だった。二つの大きな赤色の両目が、草むらの陰からじっとこちらを凝視している。

 その二つの瞳と目があった瞬間、ゾワリと肌が粟立った。得体のしれない胸騒ぎがザワザワとヴィクターの胸に広がる。咄嗟に大きく両腕を振ると、獣はカサリと音を立てて草むらの中に消えていった。


(なんだったんだ今のは……)


 スラムの近いこの地区はタヌキやネズミなどの生き物を見ることも珍しくない。だが先程の獣はただの野生の動物ではないように思えた。

 嫌な予感がして、ヴィクターは駆け出した。なぜか一刻も早くラエラのもとへ行かなければならない気がした。



「ラエラ!」


 家に戻るなりヴィクターは部屋へ飛び込んだ。ラエラは出かけていないはずなのになぜか部屋は薄暗く、人気ひとけもない。


「ラエラ! いないのか!」


 もう一度叫ぶが返事はなかった。ヴィクターはそのまま彼女がいつも腰をおろしている出窓に向かう。昼間は日当たりの良い出窓はレースのカーテンがかかっていて誰もいない。

 だがそこでヴィクターの目が出窓の隅に吸い寄せられた。窓際に飾っているヒヤシンスの鉢植えが無残に転がされ、中から土がこぼれている。その中身が掘り起こされているのを見た瞬間、ヴィクターは部屋から飛び出した。


 点々と土が落ちている跡を辿ると庭に出た。小さなライトに照らされている夜の庭は静寂に包まれている。昼間は鮮やかな花々で満ちている庭園も、今は色を失ったように闇に染まっていた。

 否。庭の奥の方からガリガリと何かを齧る音がヴィクターの耳を打った。そして彼の頭は瞬間的にそれが何を意味しているのかを知ってしまった。


 震える足で音がする方へと駆けていく。ネモフィラの絨毯の上にまるで眠っているかのように横たわっているのはラエラだ。だがその隣にいる物を見てヴィクターは息を呑んだ。


 赤い両目を光らせたハクビシンが、ラエラの隣でヒヤシンスの球根をガリガリと齧っていた。

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