お題 「眼鏡」
ハクビシンが咥えているのものが球根だと知った瞬間、ヴィクターの体は動いていた。
「やめろ! あっちへ行け!!」
腕を振って追い払い、ラエラの体をかき抱く。だがラエラは目を瞑ったままピクリともしなかった。
手に伝わる温もりは慣れた熱なのに、目に映る彼女は今までに見たことがないほどに白い。慌ててハクビシンが捨てた球根を拾い上げると、かつて鮮やかな紫色の花を咲かせていたヒヤシンスの花は見るも無残な状態になっていた。
花は散り散りになり、茎は中心から折られて九の字に曲がっている。球根にはハクビシンの鋭い牙でかじられた穴が無数に開いており、花としての命が尽きかけているのは一目瞭然だった。
「おい、ラエラ……! 返事をしろ! 目を開けてくれ!」
腕の中に抱く彼女に声をかけると、薄っすらとまぶたが開いてエメラルドグリーンの瞳が虚ろにヴィクターを捉えた。
「あらヴィクター……お帰りなさい。今日は遅かったのね」
「今はそんなことを言っている場合じゃないだろ! 大丈夫か、体は痛むのか?」
「いいえ、でもなんだか体がフワフワするの。まるで空に浮かんでいるみたい」
そう言ってラエラが目を閉じると、ヴィクターが持っているヒヤシンスの花がハラリと零れて地に落ちる。ひとつ、またひとつと地面に広がる紫の花びらと共に、腕にかかる彼女の重みがどんどんと失われていくのを感じた。人間の体に近づいているというものの、まだ彼女はヒヤシンスの花と繋がっているのだ。
「待ってろ、今すぐに助けてやるからな」
そう言ってヴィクターはラエラを横抱きに抱いて立ち上がった。だが目の前に先程のハクビシンが立ちはだかる。その赤い瞳を見た瞬間、ヴィクターの肌がゾワリと粟立った。赤く光る両の目は確かに既視感のあるものだ。そう、あれはラエラと初めて会った日――
「お前……あの時のハクビシンか?」
思わず言葉が口からこぼれ出た。その声と共にハクビシンがスイと首をあげる。
――このヒヤシンスはとても美味そうだ。濃厚で甘ったるくて、執着の匂いがぷんぷんまとわりついている。
驚くことにどこからか声が聞こえた。赤い瞳を爛々と光らせたハクビシンは、逃げるでもなくヴィクターを正面から見据えている。普通のハクビシンとは違う異形な存在に、ヴィクターは思わずラエラの体を守るように抱きしめた。
「執着の匂い……? なんのことだ」
――あの屋敷に淀んでいた執着の匂いがワシを掻き立てた……そしてこのヒヤシンスの花はその肉体に甘美な栄養を蓄えている。ワシは人の身を得る為に、その花が欲しい。
赤い瞳を向けながらハクビシンが答える。その瞬間、ヴィクターの中で全てが繋がった。
ヴィクターの愛情を受けて人間の体を得たラエラ。その身に宿すヴィクターの愛をハクビシンは奪おうとしている。
そしてこのハクビシンを惹きつけたのは、ヒヤシンスを愛でることによって増幅されるお嬢様の執着心だったのだ。
(俺がお嬢様の気持ちから逃げていたからラエラが傷つく羽目になったのか……!)
自分が傷ついたからと孤独な彼女の気持ちを置き去りにして放蕩な生活を繰り返した結果、増幅された執着が再びこの獣を呼んだに違いない。
ヴィクターはギリッと歯噛みをすると、近くにあった石を掴んだ。
「お前を惹きつけている執着の根は今しがた断ち切ってきた! ここにはお前の望むものはない!」
そのまま石を投擲すると、ハクビシンが後方に跳ねてかわす。そのままくるりと背を向けると、一色になった夜の世界へと跳躍していった。後に残されたのは闇と静寂、そして微かに聞こえるラエラの浅い呼吸音だ。
「もう少し踏ん張ってくれよ」
そう言ってヴィクターはラエラの体を横抱きにすると急いで家の中へと戻っていった。
ヴィクターは部屋に戻ると、ラエラをソファに横たえた。そして傷だらけのヒヤシンスの花に目を向けた。
彼は諦めなかった。
ヴィクターが庭師になったのは、花が好きだったわけでも土いじりがしたかったわけでもなく、スラムで彷徨っていた時にたまたま庭師の老人に拾われたからだ。だが、否。自分が庭師になったのはこの日の為だったのだとヴィクターは確信していた。
清潔な園芸ナイフを持ってきて球根が上向きになるようにひっくり返す。そのまま最新の注意をはらって底に大きく十字の切れ込みを入れた。
球根の底に十字の傷を入れるのは、球根植物を株分けさせる方法だ。このヒヤシンスの花を救うとしたら、もうこれしか方法がない。本来なら分球の処置を行う時期としては悪い上に、普通のヒヤシンスとは明らかに違うラエラにこのやり方が上手くいく保証はなかったが、今は余計なことを考えずに自分の腕を信じることにした。
ヴィクターの手の中で、はらりはらりと花びらが散っていく。同時に思い出したのは、少年の頃からずっと側で見てきた彼女の優しい顔だ。ラエラは不思議な存在で、姉のように振る舞うかと思えば手のかかる子供っぽさも見せる。恋人に抱くような情愛ではないが、それでも家に帰ると必ず出迎えてくれる彼女の存在をヴィクターは心から愛していた。
ナイフを置くと同時に最後の花びらがほろりと机の上にこぼれ落ちる。
処置が終わって後ろを振り向くと、彼女の姿はもうどこにもなかった。
「ラエラ……今度は俺がお帰りって言ってやるよ」
あの日だまりのような時間を思い出しながら、ヴィクターは球根を優しく指の腹で撫でた。
小さな家だと思っていたが、一人になると思ったよりも広い。ラエラがいなくなったことで、またもやヴィクターの心にはポッカリ穴が空いたような空虚さが生まれていたが、今度はそれを他のもので埋めることはなかった。
代わりに時間を見つけては球根の世話に励んだ。カビが生えたり虫がついたりしていないかこまめに確認し、状態に合わせてより良い環境を作ってやる。底に刻まれた十字の傷を境目に小さな芽ができたことを確認すると、ヴィクターはそれを庭の一番日当たりの良い場所に植えてやった。
そうしてまた一つ季節がめぐった。
🪻
今年の春も庭園は見事な賑わいを見せた。
庭の主役はヒヤシンスだ。一番日当たりのいい場所にヒヤシンスの花壇をつくり、ラエラが寂しくないように他のヒヤシンスの株もいくつか植えた。
彼女の鮮やかな紫色が引き立つように、周りにはピンクやレモンイエロー、白の花を散りばめるように植え、ところどころに緑を入れるために庭木も上手に取り入れた。
中でも一際愛らしく咲いているヒヤシンスの花の前でヴィクターは膝を折るようにして屈んだ。彼の目の前では、今年花を咲かせたヒヤシンスの花がみずみずしく花弁を広げている。ラエラの球根から株分けをさせてできた球根から咲いた花だ。
「おい、もう春だぞ。お前は本当に起きてくるのが遅いな」
呆れたように笑いながら指でちょんとつつくと、ヒヤシンスの花がふるふると震えた。なんだかくすぐったそうに笑っている時のラエラみたいだ。もう久しく見ていない彼女の笑顔を思い浮かべながらヴィクターは立ち上がった。
その時ふわりと一陣の風が吹き、ヒヤシンスの花の香りがヴィクターを包み込む。その甘い香りに誘われるようにして振り向いたヴィクターの瞳に映ったのは、ふわふわとゆるやかに巻く深い紫色の髪だった。
庭園の花に埋もれるようにして立っていたのはラエラだった。驚いたような表情で、自分の両手を見つめている。スイと顔をあげた彼女のエメラルドグリーンの瞳がヴィクターの目を捉えた。
「ラエラ……お前なのか?」
問いかける声は微かに震えていた。だがヴィクターの言葉と同時に目の前の彼女がほころぶように笑った。
「まぁおかしなことを聞くのね。私は私よ、ヴィクター」
その言葉を聞いた途端、ヴィクターは力いっぱい彼女を抱きしめていた。両の腕で彼女の体を抱き、髪に鼻を埋める。懐かしい彼女の温もりを感じてじわりと目の端が熱くなった。
「まったくお前は……帰ってくるのが遅ぇんだよ」
「だってお庭があんまりにも素敵で気持ちいいんですもの。いつまでもずっと寝ていたくなるわ」
そう言ってコロコロと笑うラエラは以前と変わらぬ彼女だ。ホッと安堵の息を吐いて腕を緩めると、ラエラが小首を傾げながらのん気にお腹を抑えた。
「ねぇヴィクター、私お腹が空いてしまったみたいなの。なんだか根っこが乾いてお水が欲しい時と同じ感覚がするわ。不思議ねぇ」
「腹が減った? 前は食べなくても平気だったじゃないか」
「きっとヴィクターのおかげで私がまた人間に近づいたのでしょうね。もうだめになってしまった球根を蘇らせる為にあれだけ必死になってくれたんだもの。その大きな思いがまた私の中に入ったんだわ」
そう言いながらラエラがヴィクターの手を取って自身の胸に当てた。その身に流れる血潮を確かに感じていると、ラエラがニコリと笑った。
「もう一度私を助けてくれてありがとう、ヴィクター。あなたは私の自慢の庭師だわ」
ラエラが笑いながら手を伸ばしてヴィクターの髪に触れる。うんと背伸びをしながらヨシヨシと頭を撫でようとしてくるラエラに一つ呆れ笑いを返すと、ヴィクターは彼女の細い腕を取った。
「いつまでも子供扱いしてんじゃねぇよ」
体を引き寄せてその額に一つ優しいキスを落とすと、ラエラがキョトンとした顔で目をパチクリさせる。かと思うと白い肌がみるみるうちに赤く染まった。
「あら、これって意外とドキドキするものなのね。なんだか胸のうちが温かいようなくすぐったいような不思議な気持ちになるわ」
「やっとそういう感情を抱くようになったか。人間に近づいているのは
「あらどういうこと? 言っている意味がよくわからないわ」
「そのうちわかるだろ。ほら、腹が減ってるなら家に戻るぞ」
笑いながら家へ促すと、ラエラが小首を傾げながらついてくる。彼女が生まれて初めて口にするものは何がいいか考えながら、ヴィクターは花が咲き誇る庭園の中を歩いて行った。
ヴィクターは自分の出目を隠さなくなった。彼がスラムの孤児であったことを知って嫌悪感を示したり離れていく者もいたが、彼はもう自分を偽らない。
なぜならもうヴィクターは孤独ではなかったから。
偏見にもひるまずに庭師としての仕事を続けていくことで、彼は着実に庭師としての名声を高めていく。
月日が流れるに連れ、いつしか彼を色眼鏡で見る者はいなくなった。
町外れにある一軒の小さな家。
鮮やかに可憐に咲き誇る花々に囲まれたその家には、後世にまで語り継がれる腕の良い庭師と、ヒヤシンスの色を宿した美しい娘が暮らしていたという。
庭師とヒヤシンス 結月 花 @hana_usagi
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