お題「ささくれ」

 屋敷に戻った少女は土をパンパンと叩いて玄関に落とした。ついでにスカートについた砂ぼこりも手で払う。

 植えたばかりの苗を掘り起こしたのは彼女だった。ヴィクターを呼び寄せるためだけに彼が大切に育てている花壇を荒らすのは忍びなかったけれど、彼女にはどうしてもそうしなければならない理由があったのだ。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 低い声がして少女はビクリと肩を震わせた。振り向くと、屋敷の執事がいつもの堅苦しい顔でこちらを見ている。少女は汚れた手を見られないようにさりげなく背中に手を回して彼の視線から隠した。

 眼鏡の奥から執事の鋭利な視線が飛んでくる。 


「お嬢様が庭に出られるとは珍しい。あまり花には興味がないと思っておりましたが」

「……別にそんなの私の勝手でしょ。たまには綺麗な庭を見たくなる時もあるの」

「単に花を愛でるだけならわたくしもとやかく申し上げません。ヴィクターに何か用があったのですか」


 執事の言葉に少女の背筋がひやりとする。この執事がヴィクターのことを警戒しているのを彼女はよく知っていた。


「私がヴィクターと話すのを見ていたの?」

「ええ。あなたが納屋からこちらへ戻って来るところを。その後ろからヴィクターがあなたを見ておりましたから」

「花壇に荒れている箇所があったの。そこを直すように伝えただけよ。私が庭師見習いに用があるとしたらそれくらいでしょう?」


 どうやら彼にキスをしたところは見られていなかったようだ。内心でホッと安堵のため息をつきながら少女はつっけんどんに言い放った。できることならこれ以上の追求は避けてほしかったからだ。

 執事も彼女の刺々しいオーラを感じ取ったのか、ため息をついて首を振った。


「わかりました。ではそういうことにしておきましょう。ですがあまり不用意に彼には近づかないように。彼は貧民街スラムで生まれ育った者ですよ。お嬢様のような高貴な方々とはそもそも住む世界も価値観も違うのです。それに、間違っても使用人と通じているなどと噂されてごらんなさい。

「わかったわ。でも別にそんな気はないの。私だって庭師なんかに興味はないもの」 


 そう言って少女はくるりと背をむけて、自室に向かって歩き出した。


 少女の言っていることは本心だった。


 少女がヴィクターにキスをしたのは、彼に恋をしているからではなかった。この屋敷の中で最も年が近く、そして自分を愛しているだろう彼の心を自分に繋ぎ止めたかったからだ。

 ヴィクターの態度が、義務感で接してくる他の使用人達とは違うことを少女は知っていた。母を亡くし、多忙な父に構われることが少ない少女にとって、ヴィクターから向けられる愛情は心の拠り所でもあった。

 だが最近のヴィクターは、どうやら自分のことだけで頭をいっぱいにしてくれているわけではないようだ。

 以前屋根裏部屋をこっそり覗いた時、彼はなぜか鉢植えに一株だけ移したヒヤシンスをとても大切に世話していた。少女に向ける眼差しがヒヤシンスにも向けられていることを知った時、少女は心がささくれ立ったような、得体のしれない不安に襲われた。ヒヤシンスの花を引っこ抜いてやりたかったが、彼が大事にしているものを壊す勇気は少女にはなかった。

 だから少女はキスをした。──ヴィクターの気を引く為に、少女は大胆な行動に出るしかないのだった。




🪻


 唇に残る淡い熱を思い出しながら、ヴィクターは納屋の壁に背をついた。心臓が今にも飛び出しそうにうるさく騒いでいる。壁に背をつけながら、ヴィクターはずるずると地面に座り込んだ。


(お嬢様が俺のことを……? まさか、そんな)

 

 執事が目を光らせているのもあり、お嬢様とはろくに会話をしたことがなかったのだが、その小さな淡い期待がヴィクターの胸の内で花開いた。

 十三歳の彼女が自分のことを男として見ているかはわからない。だけど、少なくともこの屋敷の中で彼女がヴィクターのことを特別に想っているのはわかった。今のヴィクターにはそれだけで十分だった。

 納屋の裏で一人うるさく鳴る心臓を抑えていると、しびれを切らした庭師の怒鳴り声が飛んでくる。


「おい! 剪定バサミを取ってくるまでにいつまでかかっとんじゃ! さっさと戻ってこんかい!」

「わ、わかったよ。今行く!」


 ヴィクターははやる気持ちを抑えながら、慌てて剪定バサミを持って庭師の元へと戻っていった。





 

 午後になると、ヴィクターは庭師から買い物を言いつけられ、一人街中へ繰り出していた。昼時の街はたくさんの人が往来を歩いており、賑やかで活気があった。

 花屋で苗や肥料をいくつつか買い込み、ロープやシャベルも購入する。庭師の老人は面と向かってヴィクターを褒めてくれることは滅多にないが、こうやって買い物を一任してくれるようになったのは庭師なりにヴィクターの成長度合いを認めているのだろう。そのことが彼を誇らしい気持ちにさせる。

 そしてお嬢様から受けた甘い口づけがヴィクターを有頂天にさせていた。

 軽やかな足取りで道を歩いていると、馴染みのパン屋がヴィクターに向かって手を降ってくれる。


「おおヴィクター、旦那様のお使いたぁ偉いな。ほれ、これでも持っていけ」

「サンキューおっちゃん! あと俺もう十五だから! 子供じゃねーよ」

「あれもうそんな年齢になるんか。お前が屋敷に迎えられた時はまだ十かそこらだった気がするんだが、月日が経つのは早いもんだ」


 カラカラと笑いながらパン屋の親父が紙袋に包んだパンを放ってくる。片手で紙袋をキャッチしてヴィクターはパン屋に礼を言った。

 ヴィクターは屋敷に引き取られる十歳まで貧民街スラムで育った。幼い頃に栄養のあるものを取っていなかったせいか、彼は同年代と比べると圧倒的に背が小さい。

 だがこの頑張り屋の少年を街の人達は気に入っていた。こうやって街に出ると「もう少し成長しろよ」とばかりに時たま彼に食べ物や菓子を恵んでくれるのだった。


 一通り買い物を済ませたヴィクターは屋敷までの帰路を歩いていた。ガタガタと音を立てながら馬車が目の前を通り過ぎていく。

 ふと視界の端で何かが動いたような気がしてヴィクターはそちらを向いた。建物と建物の影から汚れた服を着た六、七歳くらいの男の子が顔を出している。男の子は道行く人に話しかけて食べ物を恵んでもらうように懇願していた。だが通行人は嫌そうな顔をして逃げるようにその場を去っていく。

 街の中心部は賑わっているが、外れにはこういった物乞いの子供たちが多い。そして彼らは総じて街の人達に嫌われていた。

 ヴィクターはグッと拳を握ると、男の子のもとへスタスタと歩いて行った。


「ほら、これやるよ」


 先ほどパン屋にもらった紙包みを男の子に渡すと、男の子はキョトンとした顔でヴィクターを見上げる。だがその中身が食べ物だと知るとみるみるうちに顔を輝かせた。


「わ! これもらっていいの?」

「ん。大事に食べろよ」

「うんありがとうお兄ちゃん!」

 

 そう言って男の子が紙袋を受け取り、走って路地へ入っていく。ヴィクターはその小さな背中が消えていくのをじっと眺めていた。


(俺も庭師のじいさんに拾われなければ今頃はああなっていただろうな)


 ヴィクターは貧しさゆえに七歳の時に炭坑に売られた。そこは劣悪な環境で、男達に従わなければ容赦なく鞭で打たれたり殴られたりした。秩序や正義などなく、暴力と犯罪が横行する場所。そんな場所に嫌気がさしたヴィクターはある日突然炭鉱から逃げ出し、貧民街で彷徨っているところを庭師の老人に拾われたのだった。

 そこからは彼の弟子ということになり、庭師見習いとして正式に屋敷に入ることとなったのだが、はじめは他の使用人達はヴィクターのことをよく思っていないようだった。

 貧民街スラムからやってきた子供たちが、お金持ちの家に盗みを働いたり往来でスリをするのはよくあることだ。ヴィクターも同じだと思われていたのか、庭師の老人以外で彼に構ってくれる者はいなかった。執事なぞその筆頭で、彼はいつかヴィクターがお屋敷で悪さをするものだと決めつけて疑っていないようだった。

 街の人達はヴィクターのことを可愛がってくれるが、それも彼がスラム出身だということを隠しているからだ。今の物乞いの子供と同じ場所で生まれ育ったことを知ったら、きっと今みたいに可愛がってはもらえないだろう。

 物乞いの男の子の姿が見えなくなっても、ヴィクターは痛む心と共にずっと往来を眺めていた。物乞いの子供の姿は、かつての自分を想起させて苦しかった。


 ヴィクターが心から安心して過ごせる場所はどこにもない。昔も、今も。


 だけどそんな鬱屈とした気持ちを払拭したのは、脳裏に浮かぶ栗色の髪だった。

 お嬢様だけはヴィクターの出目を知っていても、彼をスラムの子ではなくただのヴィクターとして接してくれていた。育ちの良さゆえにスラムでの生活が想像できないというのはあるかもしれないが、それでもワガママを言ってくれるのも、呼びつけて用事を任せてくれるのも、ヴィクターにとっては何よりも嬉しいことだった。だからヴィクターはお嬢様を愛していた。できることなら自分の手で彼女を寂しさや孤独から守ってやりたいと思った。

 もう一度唇に手を当てて甘い感触を頭の中で反芻する。あの感触を思い出すだけで、ヴィクターの中で生きる目的が芽生えたように思えた。


(お嬢様と結婚したいなんて言ったらあの執事は卒倒するだろうな……でも、頑張ればいつかは認めてもらえるはず。その為にも早く一人前の庭師にならなければ)


 ヴィクターはグッと拳を握りしめると、屋敷までの道を走って帰っていくのだった。

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