お題「箱」
ヒヤシンスの少女──ラエラが来てから数日が経った。
ヴィクターは屋根裏部屋の出窓で気持ち良さそうに太陽の光を浴びているラエラのふわふわの髪を櫛でとかしてやる。ヴィクターからの愛情を受け取ったがゆえに体を与えられた為か、ラエラに優しくしてやると本体であるヒヤシンスの花もいつもより瑞々しさが増すような気がするのだ。
ラエラは出窓の前に座って太陽の光を浴びながら気持ちよさそうに目を瞑っていた。お行儀よく両手を膝の上に載せてヴィクターに髪をとかされるままになっている。そう見ると一見手のかかる姉ができたようでヴィクターは少しだけくすぐったい気持ちになった。
彼には家族がいない。貧乏だった彼の両親は、ヴィクターが七歳の時に労働力として売ってしまったのだ。物心ついた頃には、彼は誰かの所有物として働かされていることが当たり前だった。
木々がそよぐ音がして、開け放たれた窓から春の風が入ってくる。同時に黄色い花がふわりと部屋に舞い込んだ。ラエラが興味深そうに花を手に持つ。
「まぁとても鮮やかな黄色ね。なんの花かしら」
「それはミモザだよ。ほら、庭にミモザの木が生えてるだろ。その花が風にのって飛んできたんだな」
「そうなの。私、この花好きだわ」
「お前は他の花がライバルじゃなかったのかよ」
「だってこの色、ヴィクターの髪の色と同じなんですもの」
そう言ってラエラがふわりと微笑む。からかったつもりなのに返ってきた意外な言葉にヴィクターはうつむき気味に視線をそらした。そんなことを誰かから言われたことなどなかったから、心がむず痒いような嬉しいような不思議な気持ちになったのだ。
だからヴィクターは返事をせず代わりに手元の作業に集中した。とかしたふわふわの髪を器用に三つ編みに編んで白い小花を上品に散らす。背中に垂らした三つ編みを見てラエラが顔を輝かせた。
「まぁ素敵。ヴィクターはなんでもできてしまうのね、すごいわ」
「別に、縄を編む要領でやったことだから大したことねーよ。でもちょっと動きやすくなるだろ」
「ええ、ヴィクターの手は魔法の手ね。綺麗なものを作り出す天才だわ」
そう言うと、ラエラが突然ヴィクターを抱き寄せてよしよしと頭を撫で始めた。きつく体を抱きしめられ、それほど主張はしないが柔らかな膨らみにムギュッと顔を埋めることになる。
いくら本性はヒヤシンスだとはいえ、さすがに少女の肢体は十五の少年には刺激が強い。ヴィクターは真っ赤になりながら慌ててラエラの腕から逃れた。
「ばっ! だからなんでお前はすぐにそういうことをするんだ」
「あら、これもいけないの? さっき道端を歩いていた大きな女の人が小さな男の子にこうやったら、男の子はとても嬉しそうだったのに」
「それは子供にやるやつだ! 俺は子供じゃねぇ!」
「だってヴィクターは私よりも小さいじゃない。あとさっきお隣のおうちのおじいさんが若い女の人のお胸に顔を埋めていたからそういうものかと思っていたのだけれど」
「お、おいそれは見ちゃだめなやつだ! くそっあのエロじいさんめ……つかお前はなんでそんなに大きいんだ。ヒヤシンスの花のくせに俺より大きいのはどう考えてもおかしいだろ」
小さい子扱いされて少しムスッとしながらヴィクターは緑の瞳を見上げた。ラエラはヴィクターよりも頭一つ分大きい。長いまつ毛に大きな瞳。人形のように整った顔立ちは美しく、屋敷のお嬢様とは違った大人っぽい上品な愛らしさがあった。
ヴィクターの言葉にラエラが得意気に胸を張る。
「それは私が他のヒヤシンスよりもお姉さんだからだと思うわ。ヒヤシンスは毎年同じ株から花を咲かせるけれど、長く咲いても四年くらいでしょう。でもヴィクターは私を大事に大事にしてくれたから、私はもう七年も毎年花を咲かせているのです。だから私は他のヒヤシンスよりもうんとお姉さんなのよ」
「その見た目はヒヤシンス年齢で換算されるのかよ」
確かに理屈は通っているのだがそんなことになるのだろうか。だがヴィクターが育てるヒヤシンスが、普通のヒヤシンスよりも長く花を咲かせ続けているのは事実だった。
ヒヤシンスは多年草の花で大切に育てれば同じ球根から何度も花を咲かせる。だから理屈で言えばこれからも大事に育てればラエラはずっと花を咲かせ続けるのだが。
「そういえば休眠期はどうするんだ? 花が散ればお前はいなくなってしまうのか?」
ふと思いたってヴィクターはラエラの顔を見上げた。声に少しだけ切なさが混じってしまったのは、この不思議な生活に彼自身も楽しさを感じてきているからだろう。
ヴィクターの言葉にラエラが小首を傾げる。
「そうね、こうなったのが初めてだからわからないけど、多分休眠中は私もずっと眠ることになると思うわ。花を咲かせる時期になったらまた目が覚めると思うのだけど」
「ということは、お前はこれからも他の季節の景色は見られないのか」
「ええ。それに、私が起きる頃にはこのミモザの花も枯れてしまっているのでしょうね。残念だわ」
「んじゃ俺が良いものを作ってやるよ。ちょっと待ってろ」
そう言ってヴィクターは立ち上がり、部屋の隅から小箱と本を持ってきた。それをラエラの目の前に置く。そしてラエラの手からミモザの花を受け取ると、丁寧に紙で包んで本の中に挟み込んだ。
「この花を押し花にして、小箱に入れておくんだ。そうすればお前が休眠から覚めても何度も見られる。他にもラエラが喜びそうなものがあれば俺がこの箱の中に入れておくから、そうすれば眠りにつくのも怖くないだろ」
「まぁ、私が起きた時にその小箱には色々なものが詰まっているということ? なんて素敵なのでしょう。ヴィクターはお利口さんだわ」
「おおおお利口さん!? だから、子供扱いすんじゃねーよ!」
ヴィクターの言葉にラエラがパアッと顔を輝かせながら抱きつく。またもやよしよしと頭を撫でてこようとするラエラを諌めながらも、彼もまた嬉しそうに笑うのだった。
🪻
季節が巡り、ラエラは休眠期に入った。ヒヤシンスの花が散っていくにつれてラエラは少しずつぼんやりするようになり、日中に眠ることも多くなっていたが、夏に入る頃には完全に眠りについてしまった。
ヴィクターは出窓の前に置いてある木箱に布を敷いてラエラを寝かせ、簡易的なベッドを作って上からシーツを被せてやった。
ラエラは膝をおって丸まるようにして眠っている。紫色をしたふわふわの髪がベッドからこぼれ落ちて床に線を描いていた。休眠期と言えど世話が不要になるわけではない。
ヴィクターは花が終わった球根を鉢植えから取り出し、しっかりと乾燥させたり風通しの良い場所に置いたりしてこまめに世話をしてやった。ついでに人の姿のラエラにも、気まぐれに髪を綺麗にとかしてやったりシーツを変えてやったりと何かと世話を焼いた。
休眠期に手入れをしっかりとしておけばヒヤシンスは翌年にはまた見事な花を咲かせてくれる。次の年により綺麗な花を咲かせることができればもっとラエラが喜ぶと思ったから。
ラエラと話すことがなくなり、ほのかな寂しさを感じながらもヴィクターの日常は過ぎていった。
今日もヴィクターは自分を拾ってくれた恩人でもあり、今は師匠でもある庭師の老人にこづかれながらも庭いじりに精を出していた。
屋敷の庭は広い。そして植物はそれぞれ思い思いに育っていく。毎日手入れをしているはずなのに、少し経つと色んな部分に綻びが出てくるのだ。
ヴィクターが汗をかきながら花壇の雑草を引っこ抜いていると、案の定庭師の檄が飛んできた。
「ほれヴィクター、こっちの庭木がボサボサになっとるぞ。早く刈ってこんかい」
「言われなくてもわぁってらぁ! 今やるよ!」
手に持っていた雑草を袋に入れて立ち上がる。剪定バサミを取ってこようとヴィクターは急いで納屋へ向かった。
納屋の鍵を開け、扉に手をかける。その時ちょうど風が吹き、乾いた夏の風がヴィクターの頬を撫でた。釣られるように顔を上げると、屋敷の屋根裏部屋の窓──いつもラエラが座って外を眺めている場所が見えて、ヴィクターの胸がほんの少しの寂しさに包まれた。庭仕事をする時、ラエラは自分についてくることもあれば、窓から顔を出してヴィクターのことを眺めている時もある。だが今は窓に彼女の姿はない。
風に吹かれて窓からなびく紫色の髪を空想していると、ふわりと甘い匂いと共に視界に入ったのは栗色の髪だった。
「お嬢様……?」
見ると、いつの間にかヴィクターの後ろにお嬢様が立っていた。上等な赤いワンピースを身にまとい、腕を後ろに回しながらじっとヴィクターを見ている。
「お嬢様、どうしてこんなところに。ここは汚れたもんしかないですよ。綺麗な服が汚れてしまうから部屋に戻ってください」
「……別に、服は何着もあるから構わないわ。それよりもちょっと来てほしいところがあるの」
「来てほしいところ? ……わかりました。今行きます」
ヴィクターから視線をそらしながらつっけんどんに言うお嬢様は、どこかソワソワした様子だった。いつもと違う彼女の雰囲気に戸惑いながらもヴィクターは立ち上がる。
後で庭師にどやされるのを覚悟しつつも、ヴィクターは服についた泥をはらってお嬢様の後をついていくのだった。
「ここを見て。苗が掘り返されているわ」
お嬢様に連れて行かれたのは花壇の一角だった。彼女が指差す方を見ると、確かに土が掘り返されて苗が倒れ根まで見えている。
「あちゃー、またイタチでも迷い込んで来たんですかね。でも安心してください、これくらいならすぐにもとに戻せますから」
幸い根や茎は傷ついていなかったので、そのまま埋め直せば問題はなさそうだ。ヴィクターは屈んで、根を傷つけないように優しく土を払って苗を取り出し始めた。
お嬢様はヴィクターの隣で彼の作業を黙ったままじっと見守っていた。なぜ部屋に戻らずそのまま留まっているのだろうと不思議には思ったが、深窓の令嬢には土いじりが珍しいのだろうとヴィクターはそのまま作業を続けた。
苗を土に植え直し、手で叩いて土を綺麗に固めると、ヴィクターは腕でグイと汗をぬぐう。
「しっかり植え直したのでもう大丈夫ですよ。わざわざ教えに来てくださってありがとうございました。このままにしておいたら苗が駄目になっちまうところだったんで、お嬢様のお手柄で……」
だがその先の言葉は続けられなかった。ふっくらと小さな柔らかいものが唇に押し当てられ、ヴィクターの言葉を遮ったからだ。驚きに目を見張るヴィクターの視界に伏せられた長いまつげが映る。
お嬢様が彼にキスをしたということに気がついたのは、甘美な温もりが唇から離れた時だった。パッチリとした青い瞳に真正面から見つめられ、ヴィクターの心臓がうるさくかき乱される。
「はっ……お、お嬢様、今、何を」
唇を抑えながらヴィクターはお嬢様を見つめた。今見た光景が半ば信じられなかったからだ。
だが彼女は黙ったままだった。人形のようになんの感情も宿さないまま立ち上がる。そのままスタスタと屋敷へ戻っていく小さな背中を、ヴィクターは呆然としながら見送った。
半ば熱に浮かされたように唇に手を当てる。
先ほど感じた熱は、まだヴィクターの胸を甘く焦がしていた。
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