お題「はなさないで」−①
その日からヴィクターはより一層庭の手入れに精を出すようになった。時折へらず口を叩きながらも庭師の言いつけをよく守り、どうすればより美しく庭園を彩れるのか自分の中で考えながら土をいじる。
お嬢様のような雲の上の存在に求婚するのであれば、ありとあらゆる屋敷の庭園を任せられるほどの立派な庭師にならなければ。その思いがヴィクターを突き動かしていた。
一つ季節がめぐり、ラエラが休眠から覚める季節になった。温かい春の風が屋敷を包み込み、ヒヤシンスの花が鮮やかな紫の花を咲かせるも、ラエラは眠ったまま起きてこない。
ラエラが起きてくるか少しだけ不安になったヴィクターは出窓の前の椅子に丸くなったまま眠っているラエラの髪をそっと撫でた。
(ラエラ……もしかして人間になれたのはあれ一度きりだったのか? もう俺の前には現れてくれないのか?)
ラエラの髪を撫でながら、ヴィクターの胸がギュッと痛む。そこで初めてヴィクターにとってラエラの存在は思っていたよりも大きなものだったということに気がついた。
一人ぼっちのヴィクターにとって、いつでも側にいてくれるラエラの存在は大きい。思わずヴィクターは彼女の体を抱き起こしていた。
腕にかかる重みは見た目より重くはなかった。そのまま彼女の体を壁にもたれかからせてみる。座りながら眠っている彼女はまるで人形のようだった。鮮やかな紫色の髪がハラリと床に落ちる。ヴィクターはラエラの正面に膝を立てて座り、彼女の胸に耳をあてようと体を近づけた。
その瞬間、瞑っていた目がぱっちりと開き鮮やかな緑の瞳がヴィクターを捉える。突然のことにヴィクターが固まっていると、ラエラがこてんと首を傾げた。
「……えっち?」
「ち、違ぇよ!! 誤解だ!! お、お前がなかなか起きてこないからちゃんと生きてるか確認をだな!!」
「まぁヴィクターったら変なの。私はずうっと生きてるわよ。ほらこの通り」
そう言ってラエラが手を伸ばし、クスクスと笑いながらヴィクターの頬を両手で包む。ラエラが動くと同時にふわりと甘い匂いが漂い、ヴィクターはなんだかそわそわと落ち着かない気持ちになった。相手はヒヤシンスだとわかっているのに、目の前にいるのはどう見ても綺麗な年上の女性だという事実がヴィクターをなんとなく落ち着かせない気持ちにさせる。
「いちいち子供にやるみたいにしなくてもいいだろ。生きてるなら良かったから」
照れを隠すようにぶっきらぼうに告げ、ラエラの腕を引き剥がすと、ラエラが緑の目をパチパチと瞬かせた。
「あら? ヴィクター、その手。指から血が出ているわ」
「あ? ああ、さっき庭木の剪定をした時に切ったのかも。でもこんなん舐めときゃ治るさ」
「だめよ、きちんと手当てをしないと。はい、ちゃんとこっちに来て」
そう言ってラエラが立ち上がり、ヴィクターの机からガーゼを持ってきたかと思うとヴィクターの腰をギュッと抱いて自分の膝の上にぽふんと座らせた。そのまま背後から抱きしめるように両手を回し、ヴィクターの右手を取る。ハサミで切ってしまったのか、ヴィクターの人差し指からは赤い血が滲んでいた。
そのまま傷口にガーゼを当てる。同時にラエラの右手から小さな葉がついたツルがしゅるしゅると巻きつきながら伸びてきた。ラエラの体に纏うように巻き付いていたツルだ。
ツルはまるで生きているかのようにラエラの手からヴィクターの手に伸びると、ガーゼを当てた指に優しく巻き付いた。
「わ、なんだコレ。すげぇな」
「このツルは私の意思で動くの。ほら、まだ終わってないからじっとしていて」
そう言いながらラエラが両手でヴィクターの指にキュッとツルを結ぶ。ラエラが前かがみになると同時に長いふわふわの髪がヴィクターの頬をくすぐり、なんだかソワソワと落ち着かない。背中に柔らかな弾力を感じてヴィクターは赤面した。お年頃の少年にとってこれはなかなかに刺激が強い。
ラエラが手当てを終えると同時にヴィクターは慌てて彼女の膝から立ち上がった。
「も、もういいだろ。手当てしてくれたのはありがたかったけど……つーかなんでお前はいつも俺をガキ扱いするんだよ。普通に正面からやればいいだろ」
「だってこの方が傷口を見やすいんですもの。でもヴィクターはこんなに大きかったかしら。前はもうちょっと手にすっぽり収まる感じだったのに」
「そりゃまぁ一年も経てば少しくらいは背も伸びるからな。あと数年もすれば、お前と同じくらいになるかもしれねーぞ」
「まぁそれは困るわ! そうしたらヴィクターのお世話ができなくなってしまうじゃない! ほら、前と同じ背丈に戻ってみて、ヴィクターならできるはずよ」
ヴィクターの言葉にラエラがハッとして口に手を当てる。何を思ったのかそのままヴィクターの頭の上に手を置いてぎゅっぎゅと縮めようとしてきた。
「お、おいやめろラエラ。頭を上からグイグイ押すな! 頭を抑えても伸びた背は戻らねーよ。第一、世話されてるのはお前の方じゃねーか!」
「ヒヤシンスの花はヴィクターがお世話をするけど、ヴィクターがお世話をされるのは私なの」
「わけわかんねーよ! も、もういいから離れろって」
そう言いながら頭を手で押さえつけるラエラの手を掴む。だが掴んだ弾みにバランスを崩し、ラエラの腕を掴んだままヴィクターは床に後ろ向きに倒れこんだ。
「きゃあっ」
ラエラが小さく悲鳴をあげてヴィクターの上に覆いかぶさる。ラエラの体を全身で受け止めることになり、今まで知らなかった女の子の柔らかさにヴィクターは赤面した。
頬の熱を感じながら慌ててラエラの両肩に手を置いて引き離す。ラエラが床に倒れるヴィクターの顔を心配そうに上から覗き込んだ。
「ごめんなさいヴィクター、怪我はない?」
「だだだ大丈夫だから早く起き上がれって。誰かに見られたらどうすんだよ」
さりげなくラエラから視線をそらしながら言うと同時にコンコンとノックの音がして屋根裏部屋の扉が微かに開いた。
「ヴィクター、何を騒いでいるの? そこに誰かいるの?」
「うわーーー!!」
屋根裏部屋の扉が開き、顔を覗かせたのはお嬢様だった。怪訝そうな顔のお嬢様を見てヴィクターは慌てて起き上がり居住まいを正す。
ラエラの姿を彼女から隠そうとしたところで、ラエラの姿は自分以外には見えないことを唐突に思い出した。
「お、お嬢様。いえ、見ての通り何もありませんよ」
「そうなの? 今誰かと喋っていたような気がしたのだけど」
「きっと往来の話し声が聞こえただけでしょう。お嬢様の勘違いですよ」
「床に倒れていたのはなぜ?」
「て、天気が良いので空を眺めておりました」
「ふぅん」
なかなか苦しい言い訳だったが、にこやかに笑って無理やり誤魔化す。お嬢様は怪訝そうに眉根を寄せていたが、その目が窓際のヒヤシンスの花に吸い寄せられた。その青色の瞳がスッと細められる。
「あのヒヤシンス、今年も咲いたのね」
「え? ああ、まぁヒヤシンスは多年草の花ですからね。大事に世話をすれば何年も花を咲かせてくれるんですよ」
「ヴィクターったらあのヒヤシンスが咲くとなんだかすごく楽しそう。ちょっと妬けちゃうわ」
お嬢様がヒヤシンスの花を見ながら拗ねたように告げる。妬けるという言葉にヴィクターがドキッとしていると、お嬢様がヴィクターの手をするりと握った。
「え? お、お嬢様、何を」
「お願いだから、今後何があってもヴィクターは私の側にいるのよ。私のこの手を離さないでちょうだい」
「へ? あ、は、はい。もちろんです。お、俺で良ければ」
顔を真っ赤にしながらモゴモゴと口の中で情けない声をあげていると、お嬢様は満足したのかヴィクターからフイと離れていく。
パタンの屋根裏部屋の扉が閉まるのをヴィクターがぼうぜんと眺めていると、ラエラがほんの少しだけ口を尖らせながらヴィクターの頬をツンツンとつついた。
「もう。ヴィクターったら締まりのない顔をしちゃって、変なの」
「し、仕方ねーだろ。俺が庭師になりたいのはあの子が理由なんだから」
頬を赤くしながら反論すると、ラエラがほんの少しだけ面白くなさそうに頬を膨らませた。
ラエラがお嬢様にヤキモチを妬くのは今までになかったことだ。どうやら休眠期間中に彼女の感情も少しだけ人間に近づいたのかもしれない。年上ぶろうとしているくせに、感情表現は思ったより素直なラエラにヴィクターは内心で微笑む。
ヴィクターが一人前の庭師になりたいという夢にもう一つ理由が付け足されたのはラエラにも秘密だった。
🪻
毎日庭の手入れと勉強に精を出しながら、そして隙あらば世話を焼こうとしてくるラエラの相手をしながらもヴィクターの日常は過ぎていった。
あれ以来お嬢様の様子に特に変わったことはなかった。時折屋敷で見るお嬢様の姿にドギマギしながらも、ヴィクターは幸せな日々を送っていた。
だがその日は突然来た。
よく晴れた春の日の午後、屋敷の前に一台の馬車が停まった。街中で見かけるような一般的な辻馬車ではなく、所々に金細工の装飾がついている豪奢なものだ。扉の部分には何かの植物を崩したかのような立派な紋章が描かれている。
庭で植木を剪定していたヴィクターが驚いて手を止めると、庭師が慌てた様子で走り寄ってきた。
「ほれヴィクター、お客様じゃ。ワシと一緒についてこい。お前は荷物をお持ちするんだぞ」
「あ、ああ、わかった。でも一体誰が来たんだ? 見かけない馬車だけど」
「そんなのはワシら使用人が知らなくても良いことじゃ。ワシらに必要なのは、お客様に失礼のないようにすることと旦那様に恥をかかせないようにすることじゃ。ほれ、四の五の言わんとさっさと行くぞ」
わけがわからないままヴィクターは作業の手を止めて庭師の後をついて行った。馬車の前では執事が既に来客を馬車から降ろしており、一部の隙もない仕草で挨拶の礼をしている。
馬車から降りてきたのは身なりの良い中年の紳士と、ヴィクターと同じくらいの少年だった。艷やかな黒髪を七三にわけて油できっちり固めている。伸びた部分を適当に切っているヴィクターの雑な短髪とは大違いだ。
「ヴィクター、お客様の荷物をお持ちしなさい」
執事の鋭い声が飛ぶ。庭師の老人が紳士から鞄を受け取るのを見て、ヴィクターも慌てて少年から鞄を受け取った。
黒髪の少年はヴィクターをチラリと一瞥したきり礼も言わなかった。そのまま紳士と連れ立って屋敷の中へと入っていく。
二人の後ろ姿を呆然と見送っていたヴィクターに庭師の老人が早く裏口から回って荷物を運ぶように言いつけた。
「なぁじいちゃん、あの人達、誰だ?」
「あの人達はお嬢様の婚約者じゃ。ほれ、そんなおしゃべりをしている暇などないぞ。さっさとこれをお客様のもとに丁重に運ばねばならん」
庭師の老人が急かすように手招きをする。だがヴィクターの頭の中には今しがた聞いた言葉が鐘のように何度も響いていた。
「婚約者? お嬢様はあの人と結婚するのか?」
「正確にはご子息の方じゃよ。お前が荷物を受け取った黒髪の少年。あれが未来のお嬢様の旦那様じゃ」
足早に裏口へ向かいながら老人が早口で告げる。
(婚約者……あの少年が? お嬢様の結婚相手となる人……?)
ヴィクターは知らなかった。高貴な人々は大人になる前に結婚相手を決めてしまう習慣があることを。そして自分のような身分の低い使用人はどう頑張ってもお嬢様と一緒になることはできないということを。
そしてその事実は少年を暗闇の中に突き落とした。
ヴィクターの頭の中に、お嬢様との秘密のキスがよぎる。お嬢様は別にヴィクターを愛していると言ったことはない。彼が勝手に愛らしい栗毛のお姫様を想っていただけのことだ。
だけど彼らの荷物を屋敷裏から運び込み、廊下で楽しそうに笑いながら連なって歩くお嬢様と黒髪の少年の姿を見たとたん、ヴィクターは思わず屋敷を飛び出していた。
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