お題「はなさないで」−②

 屋敷を出て宛もないままに走っていく。まるで何かに追われるかのようにヴィクターは脇目もふらずに走り続けた。

 脳裏に自分と同じくらいの年の少年とお嬢様の笑った顔がよぎる。あんな風に照れた、はにかんだ表情のお嬢様の顔を見たのは初めてだった。


(くそっ……なんなんだよ……!)


 走りながらギリッと歯を食いしばる。お嬢様の笑顔を見たいという思いから庭師の仕事に精を出して来たのに、初めて出会う少年に一瞬にして掠め取られたことが悔しかった。

 荷物を運ぶ時に庭師から聞いたが、あの少年は貿易商の息子で、お嬢様の家よりももっとずっと立派で由緒正しい家柄らしい。ヴィクターには逆立ちしたって勝てない相手だ。


 走っているうちにポツッと空から降ってきた水滴がヴィクターの頬を打つ。だが空から降ってくる雨を気にも止めずにヴィクターは石畳の道を歩いていた。

 自分が造った庭でお嬢様が笑ってくれるというささやかな幻想が雨に流されるように霧散していく。足を突っ込んだ水たまりが地面の土と混ざって淀んだ泥水になった。それはまるで悔しさと悲しみと、やるせなさでぐちゃぐちゃになったヴィクターの心情を表しているようだ。


 ふと気がつくと彼はスラムの入り口に来ていた。遠くにボロ小屋や窓から窓に張り巡らした物干しの縄が見える。

 建物の間からは汚れた服を着た子供達が顔を覗かせていた。ヴィクターと目が合うと、体を建物に隠しながら探るような目で視線を返す。ヴィクターを警戒しながらも、何か物を恵んでくれるのではないかという淡い期待がそこにはあった。もしくはスリを働けそうな相手かどうかを値踏みしているのだ。その浅ましい視線がヴィクターを自己嫌悪に陥らせる。

 彼らに忌避感を感じるが、一歩間違えば自分も同類だったのだ。庭師の老人に拾われ、立派なお屋敷で生活するようになっていても、やはり自分に相応しいのはこの場所なのだと彼らの視線が告げている。


(やっぱり俺の居場所はここなんだ。お屋敷で一緒に住んでいても、俺はどう頑張ったって金持ちにはなれない)


 ヴィクターは半ば吸い寄せられるように貧民街へと足を踏み出した。スラムの子供達の目がヴィクターの腰に向けられる。財布をスろうとしているのだ。

 何も持たない貧乏人が金を手にするには盗みや犯罪で手を汚すしかない。乞食達の中にはうまく盗みを働いてスラムを去った者もいるようだ。だからヴィクターも元いた場所に戻って、そして手を汚すことでのし上がるしかないのだった。


「ヴィクター、行かないで」


 突然後ろから鈴の鳴るような声が聞こえてきて、右手をぐっと後ろに引かれた。ハッとして引かれた方の腕を見ると、小さな葉のついたツルがヴィクターの手に巻き付いている。

 ゆっくりと振り返ると、雨に濡れながらヴィクターの前に立っていたのは今まで見たことがないほどに悲しそうな顔をしたラエラだった。


「ラエラ……? お前、どうしてここに」

「ヴィクター、早く帰りましょう。ここはあなたがいる場所じゃないわ」

「そうじゃなくてお前、なんでこの場所が……」


 ヴィクターの言葉に、ラエラがゆっくりと右手をあげる。ラエラの右手にも柔らかなツルがゆるりと巻かれていた。


「さっきヴィクターが苦しそうな顔で屋敷を出ていこうとしていたから、出る前にこれを巻き付けておいたの。ヴィクターがいなくなっても居場所がわかるように」

「…………」

「ヴィクター、そのツルをとって。私の手を離さないで。そして一緒にお屋敷に帰りましょう」

「無理だよ。俺はもう嫌なんだ。どんなに望んでも、努力しても、生まれながらすべてを持ったヤツに全部奪われていく。俺がいるべきところはあそこじゃない」


 吐き出すように言うと、ラエラが目を瞑ってゆっくりと首を振った。その姿はいつものふわふわとした彼女ではなく、年相応に大人びていてヴィクターはラエラに釘付けになる。

 ラエラはゆっくりとヴィクターに近づくと、ヴィクターの右手を愛おしげに眺めながら自身の手で包みこんだ。


「ヴィクターの手は綺麗なものを育てる為にあるの。だからその手は汚さないで」

「ラエラ」

「ヴィクター、私と一緒に帰りましょう」


 ラエラの腕に巻き付いているツルが彼女の手を伝ってヴィクターの両手に優しく巻き付く。ゆっくりと体が引っ張られ、まるでスラムの地から引き離されるようにヴィクターはラエラの元に歩み寄った。

 ラエラと向い合せになる。もう視線は大分彼女と同じ高さになっていた。

 ラエラがニコリと微笑み、ヴィクターの頭に手を置いて優しく撫でる。俺は子供じゃない、と言いかけたがヴィクターは口をつぐんだ。今はその優しいぬくもりに浸っていたかったから。


 ラエラがヴィクターの手を握ると同時にしゅるりとツルが二人の手に巻き付く。

 子どものように手を引かれながら、ヴィクターは屋敷までの道を歩いていった。



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