お題「とりあえず」−①

 あれから五年が経ち、小柄な少年だったヴィクターも立派な青年に成長した。背はうんと伸び、庭仕事で筋力もついた為か痩せて小さかった体も大きく成長した。

 幼さの残るやんちゃそうな顔付きは鳴りを潜め、端正で精悍な顔立ちは往来を歩けば町娘の一人や二人は声をかけてくれる程だ。

 青年に成長したヴィクターに屋敷の屋根裏部屋はもう狭い。なので数年前からヴィクターは屋敷を出て街にあるアパートから屋敷に通っていた。もちろんラエラの本体であるヒヤシンスの花も一緒だ。彼が屋敷から持ってきたものはそれだけだった。


 朝の街は活動を始めた人々の喧騒に満ちている。ヴィクターは屋敷に向かう為に往来を歩いていた。視線を横に流すと、店先や民家の前に飾ってある色とりどりの花が街を鮮やかに彩っているのが見える。

 すれ違う人達がヴィクターの姿を見ると口々に話しかけてくれた。よくつるんでいる馴染みの青年がヴィクターを見つけて片手をあげる。


「おいヴィクター、調子はどうだ? また一緒に飲みに行こうや」

「最近付き合えなくて悪いな。また誘ってくれよ」

「おうまた声かけに行くよ。お前が来ると酒屋に来ているかわい子ちゃんも釣れるからな」

「本音はそれか。俺をダシに使うんじゃねぇよ」


 笑いながら馴染みの男を小突くと、青年はケラケラと笑いながら去っていった。この街にいる誰もがヴィクターが貧民街スラムの出だと知らない。皆ヴィクターが立派なお屋敷に勤める腕のいい庭師だと思っている。

 明るく快活で働き者。そしてその甘いマスクは異性からも人気があった。


「はぁいヴィクター、今お仕事に行くところ?」


 歩いていると突然するりと腕を取られ、金髪の町娘がヴィクターの腕に抱きついてきた。肩のところでくるくると巻いた髪がふわりと風に舞う。ヴィクターがよく行く酒場で働いている女だ。美人で胸も大きく、艷やかな仕草で客達からの人気も絶大だった。


「ねぇあたし昨日男に振られちゃって寂しいのよ。今日の夜、空いてる?」

「またお前は男で失敗したのかよ。夜は仕事じゃないのか?」

「うふ、今日はお休みをもらったの。だから明日の夕方まで暇」


 綺麗に磨いた爪を唇に当てて女はニッと妖艶に笑う。

 と同時に、背後に気配を感じてヴィクターは咄嗟に女を抱き寄せた。振り向くと、物乞いの子供が慌てて去っていく後ろ姿が見えた。女の持っているバッグを狙って来たのだろう。

 ヴィクターの腕に抱かれた女が不快そうな顔で眉をひそめる。明らかな嫌悪感を示す彼女の表情にチリ、と胸のうちに痛みが走った。


「あたしああいう子嫌いだわ。汚くて、臭くて、見てるだけでも不愉快」


 子供が消えていった方角を女が睨みつける。そんな女の様子をヴィクターは静かに眺めていた。

 逃げていった子供が建物の影からこちらを伺っている。その丸い瞳とカチリと視線が合い、ヴィクターは静かに目を瞑って視線をそらした。

 

「俺もそう思うよ」


 背が高く、見目が良いヴィクターは女にモテる。だが特定の恋人を作ることは一度もなかった。






 素肌を重ねて女を抱く。そしてその時間だけは自分の生い立ちのことも、お嬢様のことも忘れられた。だが一時的に与えられた愛は刹那的で、終わった瞬間にするりと手からこぼれてしまう。

 情事が終わり、下半身をシーツで覆って煙草を吸っていると、素肌にシーツをまとっただけの女がしなだれかかってきた。


「ねぇあたし達って結構相性がいいと思うんだけど、どう? あんたさえ良ければ一回あたしと付き合ってみない?」

「酒場に来る男客達全員を敵にしろって言うのか? やめとけよ、俺の居場所がなくなっちまう」

「またそうやってはぐらかすの? いいじゃない、一回くらいチャンスをくれたって」

「俺はこうやってテキトーに女と寝てる方が性に合ってんだよ」


 笑いながらもう一本タバコに火をつけると、女がおねだりをしてきた。女にタバコを咥えさせ、タバコ越しに自身の火をつけてやる。隣で女が満足そうに煙を吐いているのを感じながらヴィクターは床に視線を落とした。

 ヴィクターは誰とも深い関係を築きたがらなかった。自分が貧民街スラムで育ったことを知られたら、きっと皆自分から離れていってしまうだろう。彼の出目を知られることは、この街で死ぬことと等しかった。

 お嬢様を忘れる為に色んな女と寝てきたが、肌を合わせる度にヴィクターの心は傷ついていく。一時的な関係は築けても、それはいつかヴィクターから離れていってしまうものだと自覚してしまうから。

 モゾモゾとベッドにもぐりこみ、甘えた声でしがみついてくる女の肩を抱きながら、ヴィクターは乾いた自分の心と静かに向き合っていた。 




 明け方、ヴィクターは早々に女の家を後にした。どれだけ関係を重ねても、彼が女性の家に長居することはない。多くの時間を過ごしても、そこは彼の休まる場所ではないからだ。

 まだ薄暗い空が白みゆく様子を眺めながらヴィクターはアパートに戻ってきた。古びた扉を開けると、べッドと机、最低限の家具しかない古びた部屋が出迎える。


「ラエラ、帰ったぞ」


 薄暗い室内に向かって声をかけるが返事はない。慌てて室内に入ると、ラエラはベッドの上で丸まってスウスウ寝息を立てながら寝ていた。

 内心でホッと安心しながらラエラの隣に腰掛ける。ラエラは最近眠りが深くなったようで、一度眠りにつくと長いこと寝ていることが多くなった。

 ふと見ると、一つしかない窓の側に置いてあるヒヤシンスの花が少しだけ萎れていた。ヴィクターは立ち上がり、ヒヤシンスを日の当たる場所に置き直してやる。しっかり水を与えて花がらも摘んでやると、ベッドで眠っているラエラが眠りながらくすぐったそうに笑った。




🪻


 かよいになったものの、ヴィクターはまだ屋敷の庭師として主人の為に美しい庭園を造っていた。屋敷は出てしまったものの、十歳の時に引き取られてから過ごしたこの場所はヴィクターにとっても特別だ。

 植木の剪定を終え、ホースで花壇に水を撒いていると「ヴィクター」と自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、フェンスの隙間から女がヴィクターに向かって手を振っていた。先日ベッドを共にした女とはまた別の子だ。


「お前か。どうしたんだ?」

「んーなんも用事はないんだけど、ちょっとヴィクターが働いている様子を見たくって。でもすごく立派なお屋敷。花壇も広いんだね」

「まぁな。俺とじいさんの手が入ってんだ。間違いなく街で一番の庭園だろうよ」

「ちょーし乗ってるぅ! でも私、ヴィクターのそういうところ好きなのよね」


 そう言って女がクスクスと笑う。少しだけ立ち話をして、女はバイバイと手を振って屋敷を通り過ぎていった。


「今の人は誰?」


 声をかけられ、ヴィクターは振り向いた。そこには栗色の髪を風になびかせたお嬢様が腕組みをしながら立っていた。月日が経ち、少女の頃より愛らしく、そして艶っぽくなったお嬢様は唇を尖らせながらヴィクターを睨みつけている。


「今の女の子はあなたの恋人?」

「いや、友人の一人ですよ。街のパン屋で働いている娘です」

「ヴィクター、あなたが色んな女と寝ていることは知っているのよ。あの子もその一人なのね」


 咎めるようなお嬢様の言葉にヴィクターは眉をひそめた。

残念ながら今の女とは寝たことがない。だが彼女から明確な好意は感じているので、誘われれば断るつもりはなかった。


「そんなことお嬢様には関係のないことです」

「か、関係あるわ! 屋敷に出入りする使用人の素行が悪いのは雇い主のイメージにも関わることだもの!」

「ならば俺をクビにしたらいいでしょう。法に触れることは何もしていませんがね」


 口の端に笑みを称えながら告げると、お嬢様がキッと睨みつけてくる。


「最近のあなたは冷たいのね。昔はもっと優しかったのに」

「あなたのお側にいてお慰めしてくれる方はもう既にいらっしゃるでしょう。それは俺の役目ではありません」


 ヴィクターの言葉に少女がグッと唇を噛む。もちろんヴィクターとて彼女を傷つけたくはない。だがこうでも言わないと自分も彼女から離れられないと思ったのだ。年月を経て艷やかさを増した彼女を目にしていれば、無理やり蓋をした感情に再び火がついてしまうかもしれないから。

 

「この話はやめにしましょう。俺もまだやることがあります。こんな泥だらけの場所にお嬢様がいる必要はありません」


 そう言ってヴィクターは踵を返す。だが彼が立ち止まったのはグッと力強く腕を引かれたからだ。思わず振り向いたヴィクターの唇に熱いものが押し付けられる。

 それがお嬢様による二度目のキスだときづいた時、どうしようもなく胸がじわりと熱くなった。目一杯背伸びをしてヴィクターの首に両腕を回してキスをするお嬢様の体を両手で支える。ふわりと甘い香水の匂いが鼻についた。大人の、女性の匂いだ。毎日同じ空間にいたはずなのに、彼女はもうすっかり大人の女性として花開いていた。

 お嬢様の赤い瞳がまっすぐにヴィクターを捉える。


「ヴィクター。私の手を離さないでって言ったでしょう。私の側にずっといて」


 そう言いながらお嬢様がヴィクターの手を取った。もう既に彼女には愛してくれる婚約者がいるというのに、これ以上ヴィクターに何を求めているというのだろう。自分よりも遥かにたくさんの物を手にしているのに、さらに欲しがるお嬢様を見てヴィクターの心が波立った。


「お嬢様……こういうことはやめてください。あなたには既に大切な人がいるでしょう。その方を裏切るのですか」

「あの人は……彼はいつも優しくしてくれるわ。だけどここの屋敷に来るといつもお父様と商談してばかり。彼もお父様と同じタイプなの。私を放って仕事ばかりしてしまう。だからヴィクターは私の側にいて。こんなこと頼めるのはあなたしかいないの」


 ──こんなことを頼めるのはあなたしかいないの。


 その言葉がヴィクターの耳に甘美な熱を与える。だが同時に気づいてしまった。

 お嬢様はヴィクターを好いていたのではない。自分を構ってくれる人を好いているのだということを。彼女が自分を構うのは、ヴィクターに対する愛情ではなく、彼女自身に向けられた愛による執着だということを。


 地面を踏みしめ、お嬢様との距離を縮める。以前は同じ高さほどの目線だったが、今や彼女の瞳は遥か下の方にあった。見上げるほどに高い群青色の瞳を見て、少女の体が微かに強張る。

 

「お嬢様は俺に何をしてほしいんです。たくさんの贈り物をしてほしいのですか。あなたが不安にならないように常に甘い言葉を囁けばいいのですか。あなたがお望みとあらばいくらでも抱いて差し上げますよ。あなたの未来の伴侶がお許しになるかは別ですがね」

「ヴィクター、あなたなんてことを言うの」

「お嬢様も知っての通り、あいにく俺は育ちが悪いんですよ」


 ヴィクターが微かに笑うと、お嬢様がわかりやすく怒りをにじませながら羞恥で顔を赤くする。屋敷で蝶や花やと大事に育てられた初心な彼女は、やはり不条理と共に育ってきた自分とは違う場所に住まう者だった。

 だが、ああ。やはり彼女は美しかった。汚いものを知らず、その赤い目には世の中の綺麗なものしか映っていないのだろう。そんな清らかな彼女に触れることを夢見たこともあったが、数多の女を抱いた手で彼女を抱きしめることはもう不可能だった。


「ヴィクター! 何をやっているのです! 今すぐお嬢様から離れなさい!」


 突如鋭い声が聞こえ、バタバタと足音が聞こえた。顔をあげると執事が血相変えて屋敷からこちらに向かって走ってくるのが見えた。彼はヴィクターとお嬢様の間に割って入ると、まるで汚いものを見るかのようにヴィクターを睨みつけた。


「あなたは……一体お嬢様に何をしたのですか」

「何もしていませんよ。ただお喋りをしていただけです」

「嘘をつきなさい! 庭師であるあなたがお嬢様に何の御用があるというのです。あなたが昔からお嬢様に邪な思いを抱いたことはわかっているのですよ。今やお嬢様は婚約者がいる身……彼女に何かあればただでは済ませませんよ」


 まるでヴィクターが何かしたと決めつけているような執事の言い分にヴィクターはため息を吐いた。彼はスラムの出てあるヴィクターを嫌悪している。幼い頃からの淡い恋心すら、執事から見れば邪なものとして見えるらしい。

 執事の背後に庇われているお嬢様に視線を向けると、彼女は後ろめたそうな顔をして胸の前で両手を握っていた。だが彼女はヴィクターを庇う言葉をくれなかった。その瞬間、諦めの気持ちと共にすべてを手離してしまいたい衝動に駆られた。

 執事に向かって一歩進みい出て、挑発的な笑みを浮かべる。


「俺が彼女を好いていて何か問題でもあるんですか。巷ではよくある話です。使用人の男と女主人がデキているなんてこと」

「あなたは……一体なんてことを言うのですか」

「俺はあくまで一般的な話をしているんです。実際に先日俺に逢瀬を求めてきた女には亭主がいました。恋人がいようが構わずに迫ってくる者もいます。もちろん、婚約者がいる者だって」

「ヴィクター! 口を慎みなさい!」


 執事の激が飛ぶ。彼は怒りでワナワナと震えていた。


「あなたはクビです、ヴィクター。金輪際あたながこの屋敷に足を踏み入れることは許しません」


 執事の声がまるで死刑を宣告する執行人のように響いた。だが同時にヴィクターはこの言葉を待っていたような気もした。これでもう、お嬢様の幻影から逃れられるような気がした。


「わかりました。これまでのご恩に感謝いたします」


 一言告げて二人に頭を下げると、ヴィクターは二度と訪れることのない屋敷の庭を後にした。

 




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