お題「とりあえず」−②
耳朶に触れるのはガチャガチャとジョッキがこすれ合う騒がしい音だ。女達の嬌声や男達の太い声が混ざり合って酔った体にガンガン響いてくる。
だが酒場の喧騒は虚無な体を誤魔化すのにちょうど良かった。
強めの酒をグイと呷りジョッキに残った酒を眺めていると、ガタッと真向かいの椅子を引く音がした。
「ヴィクターどうしたの、そんな情けない顔しちゃって。隣、いい?」
ゆるやかに巻いた赤毛の髪をかきあげながら、胸の開いた服を着た妖艶な美女が真向かいに座る。この店では顔馴染みの女の子だ。
美女の優雅な振る舞いに、店の奥からチラチラと男達の視線が追いかけてくる。彼らの好機の視線などものともせず美女はヴィクターの手をそっと長い指でなぞった。
「ハンサムな顔が台無しよ。ねぇ私、最近男日照りで。今寂しいのよね」
「お前なら構ってくれる男はたくさんいるだろ」
「あら私にだって男を選ぶ権利はあると思うけど」
蠱惑的な笑みを浮かべながら美女がチラリと視線を横に投げる。見ると、どこぞのお金持ちのボンボンなのか身なりの良い若者がチラチラとこちらを見ていた。
着ているものは立派だが、ふくよかな体つきとパッとしない顔立ちのせいで冴えない印象の男だ。美女がちらりと視線を投げるとドギマギしながら俯く。そんな彼の姿を見ているうちに、ヴィクターの中に嗜虐的な心が芽生えた。
「ならとりあえず俺にしとけよ」
美女の耳元に唇を寄せ、見せつけるようにするりと腰を抱く。裕福な家に生まれ、望めば何もかもを手にできる立場にいる男でも手に入れられない女を自由にできるという優越感がヴィクターを酔わせた。
そのまま立ち上がり、男の視線を背後に感じながら、ヴィクターは女と連れ添って店を出ていった。
薄暗い部屋の中、女を組み敷く。衝動に身を任せて己を解放するが、これは決して愛などではなかった。自身の手によって熱を与えられ、甘い声を漏らす女をヴィクターは凪いだ心で静かに見下ろしていた。
女を腕に抱きながらシャツを脱ぎ捨てる。ヴィクターは誰かに優しく抱きしめられたことなどない。だから目の前の女の肌に溺れた。例えまがい物でもいい。直肌から伝わってくる熱を、今だけは自分だけに与えられたものと勘違いしたかったから。
快楽は人を酔わせる。
だからヴィクターは女を抱いた。
酩酊から覚めた時、心が切り裂かれることを知っていながら。
情事を終え、ヴィクターは起き上がった。いつもよりやや手荒になってしまったが、女は自分が魅力的なせいでヴィクターの情欲に火をつけたのだと思ったようだった。
自身も身を起こし、嬉しそうな顔で抱きついてくる。
「ヴィクター、最高だったわ。私あなたとすっごく相性がいいみたい。あなたもそう思わない?」
女の肩にふわりとシャツをかけてやりながらヴィクターは返事をせず自嘲気味に笑った。既にこの時点で心がすれ違っているというのに、相性がいいと思われているのは滑稽だった。
立ち上がってシャツを着込み、上からベストを着る。もう帰るの、と女が唇を尖らせるのが見えたが、ヴィクターは手を振って挨拶をすると女の部屋を後にした。
外はまだ薄暗かったが、明けが近づいた空はもう白み始めていて石造りの道を仄かに照らしていた。家屋の窓に飾られている鉢植えの花が、太陽の光を浴びて気持ちよさそうに風に揺られている。
光を求めて花弁を広げる花々を眺めながら、ヴィクターは薄暗い路地の中へ身を滑り込ませた。
🪻
家に戻り、扉を開ける。小さく狭いアパートは部屋が一つしかなく、日当たりも悪くて薄暗かった。
部屋に入って後ろ手に扉を閉めると、ふわりと甘い花の香りがした。ハッとして顔を上げると部屋の奥でラエラが目を丸くしながらこちらを見ている。そこで初めて家に彼女を残してきたことに気付いた。家で一人待つラエラを気に掛ける余裕がない程に昨夜の自分は荒れていたのだ。
だがラエラはそんなことなど気にも止めず、パッと笑顔になるとヴィクターに駆け寄った。
「お帰りなさいヴィクター。昨日は帰ってこなかったからどうしたのかしらと思っていたの」
「ラエラ……すまん。勝手に出て行って悪かったな」
「でも怪我をしたり困ったことがあったわけではなかったのね。安心したわ。ヴィクターにツルをつけていかなかったから困ったことがあっても助けに行かれないからどうしようと心配していたの」
そう言ってラエラが優しく微笑む。その言い方が昔と変わらなくてヴィクターは鬱屈した気持ちも忘れて低く笑った。
「お前は相変わらず俺を子供扱いしたがるんだな。もうお前よりだいぶデカいぞ」
もうとっくにヴィクターはラエラの身長を追い越し、今やもう頭一つ分は大きい。大の大人である男を子供扱いするのはさすがに無理があると思うが、ラエラは微笑んだまま小さく首を振った。
「でもヴィクターには構ってくれる人が必要だから。ヴィクターがどれだけ大きくなっても、私はお世話をしてあげたいの」
「構ってくれる人? 俺はそんなもの求めていないぞ」
「ヒヤシンスの花だった頃から見ていたけれど、お屋敷にいたもう一人の小さい女の子が泣いたり怒ったりしていると大人がいつも駆けつけていたでしょう? でもヴィクターはいつも一人だったから。だから私がヴィクターのお姉さんになってあげようと思ったの。ヴィクターが困った時に私がいつも側にいてあげられるように」
ラエラの言葉が乾ききった心に染み込んでいく。彼女が何年経ってもヴィクターを子供扱いしたがる理由がやっとわかった。
ラエラは年上ぶりたかったわけではなく、ヴィクターの心を守ろうとしてくれていたのだ。屋敷でもどこでも一人だったヴィクターの居場所になろうと。
その途端、ダムが決壊したかのようにこらえていた気持ちが溢れ出た。
「……結局俺みたいな貧乏人はどれだけ頑張っても生まれながらすべてを持った奴には勝てないんだ。お嬢様が貿易商の息子と結婚すると知った時も、やっぱりなと思ったさ。どんなに這い上がろうとしても、俺はどこまでもスラムの汚いガキのままなんだ……ゴミ溜めを見たことがない金持ちにはどう逆立ちをしても勝てない」
「でもヴィクターはとてもすごい人よ。だってこんなに綺麗な花を咲かせるんですもの」
「花を咲かせるのがなんだよ……そんなもの、誰にもできるじゃないか」
「女神様が体を与えてくれたのは、私があなたと一緒にいたいと強く願ったからなの。私がそんな気持ちになったのは、やっぱりヴィクターが愛情をこめてお世話をしてくれたからだと思うわ」
そう言いながらラエラがヴィクターの右手をぎゅっと包み、自身の頬にあてがう。
「ヴィクターはね、どうやったらお庭が綺麗に見えるかということに加えて、どうやったらお花が気持ちよく咲けるかいつも考えてくれているでしょう? 私はそれが嬉しかったの。お庭の見た目を綺麗にする為には間引きしたりまだまだ元気な葉を切ってしまうことがあるのは仕方がないことだけど、それでもできるだけそのままの状態で綺麗に咲かせてもらえるのは私達も嬉しいから」
「……気づいていたのか? 俺が、外観よりも花の方を優先していることを」
「当然よ。そんなの、私達から見ればすぐにわかることだわ」
そう言いながらラエラが得意気に胸を張る。庭師は庭の外観を美しく整えるのが仕事だ。だから必要とあらばまだ元気な花や植物を切ってしまうこともある。
そのことが可哀想でヴィクターはどうしても花を残すことが多かった。庭師の老人に叱られることも多かったが、それでも彼はまだまだ元気に咲ける花は少しでも多く残してやりたかったのだ。
だがそんなこと誰にも気付かれないと思っていたのに。
ニコニコといつもの笑顔でラエラがヴィクターの頭を撫でる。まるで幼子にするような、それでもその優しい手つきにヴィクターの唇が震えた。
「ラエラ……!」
両手を伸ばし、ラエラの小さな体を抱きしめる。ラエラの体は温かかった。初めて出会った時はあんなに大きかったのに、今はもうヴィクターの両腕にすっぽりと収まるほどだった。
それでも抱きしめ返してくれるラエラの手の温もりは変わらなかった。ラエラがヴィクターを抱きしめながらよしよしと背中を撫でてくれる。その手つきが大の男ではなく子供にするものと同じでヴィクターは泣き笑いのような顔になる。
だが今はその温もりが痛いほどに温かかった。
思えばヴィクターは誰かに愛を与えられたことなどなかった。両親に売られ、売られた先の炭鉱では気に入らないことがあると炭鉱夫達に殴られた。唯一庭師の老人だけはヴィクターの面倒をよく見てくれたが、幼い子どもが必要としていた温もりを与えてくれたことはなかった。
屋敷の使用人は、ヴィクターがいつか悪さをするのではないかと常に疑っていた。メイドも、主人から預かった宝飾品や高価なものをヴィクターに見せまいとしていつもビクビクしていた。
誰も彼もがヴィクターの本心を見てくれず、彼の心を守ろうとしてくれなかった。だが誰よりも自分のことを見てくれていたのは、庭に咲く一輪のヒヤシンスの花だったのだ。
「ありがとう、ラエラ。……もう大丈夫だ」
ほんの少しだけ目に浮かんだものを指で拭いながらヴィクターが手を離すと、ラエラが微笑む。その優しい笑顔を見て、ヴィクターの中に一つの決意が生まれた。
もう一度額に彼女の慈愛のキスを受けながらヴィクターはベッドの端から立ち上がった。
「ラエラ、ついてきてほしい所があるんだ」
「今から? どこへ行くの?」
「行けばわかるさ。ラエラもきっと気に入ると思う」
ラエラの髪から白い小花を取りベストのポケットに入れながらヴィクターが答えると、ラエラが笑顔で頷いた。
🪻
家を出たヴィクターはラエラを連れて真っ直ぐに町中を歩いて行った。ラエラもわからないままにヴィクターの後をついていく。
たどり着いたのは、大きな広い庭がある一軒の小さな家だった。殺風景な庭の隅に、可憐なチューリップが咲き誇っている。それはかつて二人が内見したあの家だった。
「まぁ。ここはあの頃から少しも変わっていないのね」
ラエラが嬉しそうに緑の目を輝かせる。管理人の老人も衰えたのか、以前よりも庭の様子は荒れていたが、ラエラもあの時の家だと気づいたようだ。
彼女が屈んでチューリップを眺めている間にヴィクターは管理をしている老人に話をつけにいく。零れ落ちそうなほどの笑顔で戻ってきたヴィクターの手には鍵が握られていた。
「ラエラ、今日からここに住もう。まだ借りることしかできないけれど、もっと腕のいい庭師になればいつかここを買い取ることができるから。俺とお前でこの庭を花でいっぱいにしよう」
「お花でいっぱいに? まぁなんて素敵なお話なのかしら。勿論その時はお庭に私も植えてくれるでしょう?」
「当たり前だろ。一番陽当りのいい場所に植えてやるよ」
ラエラの言葉にヴィクターが快活に答える。
群青色の瞳にはもう絶望も悲しみもなかった。
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