お題「住宅の内見」−①
「とりあえず事情はわかったけど、この後お前はどうするつもりなんだ?」
ヒヤシンスの少女が離れたのを見計らってヴィクターは問うた。ヒヤシンスの花が女神の力を借りて人間の姿になったという話はにわかには信じがたかったが、高い柵で囲まれているこの屋敷に外から入れる者はいないことと、少女の醸す独特の雰囲気が人間のものと異なっていることが、嫌でもこの話をヴィクターに信じさせることとなった。
ヴィクターの問いに、ヒヤシンスはコテンと小首を傾げる。
「どうしたら良いのでしょう。私はヴィクターとお話したかっただけなのですが……」
「呑気なやつだな。そんな姿でここにいれば間違いなく屋敷から追い出されるぞ。執事は頭が固いからな」
「まぁ追い出されるのは困ります。だってヴィクターと一緒にいられなくなってしまうもの」
「心配するのはそこじゃねえよ。でもこのままにしておくわけにもいかないし、とりあえず俺の部屋に来いよ」
他の使用人達に見つからないようヒヤシンスを背後に庇いながらヴィクターが言う。とは言ってもヒヤシンスの少女はヴィクターより少しばかり背が高かったので、頭一つ分隠しきれてはいなかったのだけれど。
少女はキョトンとした顔で眼下の黄色い頭をしげしげと見つめていたが、やがて何かに気づいたように花を指さしながらしょんぼりと肩を落とした。彼女の指す場所には、先程ヴィクターがハクビシンから守ったヒヤシンスの花がそよそよと揺れている。
「でも私、ここから動けないみたいなの。どうやってついて行ったらいいかしら」
「もしかしてその花を移動しないとお前も動けないのか?」
「多分」
「多分って……判然としないな」
「だってやってみたことがないんですもの」
「うーんわかった、ちょっと待ってろ」
困ったように言うヒヤシンスの言葉に呆れた顔をしながらも、ヴィクターは納屋から植木鉢を持ってきた。土から球根を掘り起こして丁寧に鉢へ植え替える。とたんに少女はパッと目を輝かせながら嬉しそうに顔を綻ばせた。
「まあ、やっと動けるようになりました。ありがとうヴィクター」
「やっぱり花本体を動かせばお前も動けるんだな。さ、モタモタして誰かに見つかると面倒だ。旦那様と執事が帰って来る前に俺の部屋に行くぞ」
植木鉢を両手で抱えながらヴィクターが屋敷へ促すと、少女はニコニコした表情でコクリと頷いた。
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ヒヤシンスの鉢植えを抱えながらヴィクターは音を立てないようにそろりと屋敷の中に入った。旦那様と執事は外出しており、メイドや他の使用人達も忙しなく歩き回っている音がする。
ヴィクターはヒヤシンスを背後に庇いながら──それでも頭一つ分は見えていたけれど──忍び足で自室へと向かう。ヴィクターの部屋は屋敷の屋根裏部屋だ。屋敷に突然現れた謎の少女の存在を問いただされないよう、角を曲がるときは顔だけ出して人がいないことを確認する。そんなヴィクターの様子を少女は不思議そうな顔で見ていた。
「どうして自分の部屋に帰るだけなのにそんなにコソコソしているの? とても歩きにくそうよ?」
「あのなぁ、お前ももう少し慎重になれよ。屋敷の中にいきなり知らない人間がいるのはどう考えてもおかしいだろ。あっという間に着の身着のまま屋敷の外にポイされるぞ」
「ヴィクターは私がポイされないように守ってくれているということ?」
「あ? あー……そういうことになるのか? なんだか成り行きでこんなことになってると思わなくもないけど……まぁでもやっぱりお前が外に放り出されるのを見るのは後味が悪いしな。うん、そういうことにしておいてやるよ」
「まぁ、ヴィクターは優しいのね。嬉しいわ、ありがとう」
弾んだ声につられて振り向くと、背後で少女がキラキラした目でヴィクターを見下ろしていた。春の光を浴びた新芽のように美しい緑の瞳がヴィクターを見下ろしている。
その美しい色合いに一瞬釘付けになっていると、少女が手を伸ばしてヴィクターの頬を包んだ。そのまま少し腰を屈めるとヴィクターの額に優しくキスを落とす。額に柔らかなものを感じると同時に少女の胸の膨らみが彼の鼻先をかすめ、ヴィクターは慌てて身を引いて少女から距離を取った。
「なっ! ななな何をするんだ! おま、その、いきなりキスはないだろう!」
「あら、だってヴィクターが私にいつもやっていることよ。だから私も真似したの」
「いつも? 何のことだ? 俺はお前にそんなことしたことがないぞ」
「でもヴィクターは私のお世話をする時にいつもやってるのよ。こうやって鼻を近づけて、ほら」
「それはキスじゃなくて単純に花の香りをかいでいるだけだ!! 勘違いするな!」
「あらそうなの? いつもこうしてくれていたから、てっきりそういう挨拶なのだと思っていたのだけれど」
「そ、それはお前があんまりにも甘くていい匂いをさせているから……」
そう言いかけてヴィクターは口をつぐんだ。頭では花だとわかっているはずなのに、目の前に見える少女の姿がヴィクターを変な気持ちにさせた。これではまるで自分が彼女を口説いているみたいではないか。
「と、とにかく今はだめだ。誰かに見られたらまずい。あと誰彼構わずそういうことをするのはやめろよ」
「あら、どうして? 私はそうしてもらったら嬉しいのに」
「嬉しい嬉しくないの問題じゃねぇんだよ。まったく、俺が女の子を連れ込んでいると勘違いされたらどうするんだ」
「誰と話しているの、ヴィクター」
突然正面から声をかけられ、ヴィクターは飛び上がった。背後のヒヤシンスと話していたので前から人が来ていたことに気が付かなかったのだ。
慌てて視線を戻すと、目の前にいたのはヴィクターより一つか二つくらい年下の美少女だった。サラサラとした長い栗色の髪が肩にハラリとこぼれ落ち、こちらを見やる勝ち気そうな目はルビーをはめ込んだように赤い。
彼女の姿を見たとたん、ヴィクターは微かに頬を赤らめながら慌ててピンと背筋を伸ばした。
「お、お嬢様……これは、その、大変失礼しました」
「ねぇ、今あなた誰と喋っていたの?」
「え?」
お嬢様の言葉にヴィクターはこっそりと背後を振り返った。相変わらずヒヤシンスの少女はヴィクターの後ろでキョトンとした顔をしている。どうやら彼女の姿が見えるのはヴィクターだけで、他の人にはヒヤシンスのことが見えないらしい。
「あ、えーと、その……こ、このヒヤシンスに向かって話しておりました」
咄嗟にそう言うと、ヴィクターは抱えていたヒヤシンスの鉢をお嬢様に向かって差し出した。ふぅん、と気のない返事が聞こえてきたところを見るに、お嬢様は一気に興味をなくしたらしかった。
ヴィクターを見上げながらサラサラの髪を右手ではらう。
「それはそうとして、どうしてさっき私が呼び鈴を鳴らした時に来てくれなかったの? そのヒヤシンスの花を世話していたから?」
「あ、はい。途中までは駆けつけようとしていたんですが、庭にハクビシンが迷い込んでいたので追い払っていました」
「ハクビシン? そんなの後回しにしたっていいじゃない。私が呼んだら何よりも第一優先で走ってこなきゃだめでしょ」
「もしやさっきの呼び鈴で誰も来てくれなかったんですか?」
「いいえ、メイド長が来てくれたわ。でもあなたが来てくれても良かったのに」
お嬢様がイライラした様子でピシャリと言い放つ。ヴィクターには彼女の不機嫌の理由がよくわからなかったけれど、さくらんぼ色の唇が可愛らしく尖っているのを見て彼は内心で微笑んだ。
ヴィクターは知っているのだ。お嬢様が使用人達についついワガママでいばりんぼうな態度を取ってしまうのは、早くに母を亡くし、屋敷を留守にしがちな父親に構ってもらえない寂しさから来ているということを。
だからヴィクターはヒヤシンスの鉢を抱えたまま、十三歳のお姫様に笑いかけた。
「わかりました。もし俺で良ければ、この鉢を部屋に置いた後にお嬢様のお相手をさせてください。すぐにお部屋に向かいますので」
「そうしてちょうだい」
ツンと横をむくお嬢様の横顔はとても可愛かった。だけどフワフワとくすぐったい気持ちになっているヴィクターの心にヒヤリと冷たい水を浴びせたのは後ろからコツコツと聞こえてくる靴の音だった。
「ヴィクター、お嬢様になんの用ですか」
氷のように冷たい声がヴィクターの心を震え上がらせる。声の主は誰なのかは見なくてもわかった。
いつの間に帰ってきたのだろうか。旦那様について外出していた執事が、まるで庇うかのようにお嬢様の前に出て鋭い視線をヴィクターに送っていた。
ヴィクターはこの執事が苦手だ。年はまだ三十かそこらだと聞いているが、まるで老獪の翁のように有能で、そしてヴィクターのことを嫌っているようだった。彼はヴィクターのことを可憐に咲き誇る花のようなお嬢様につく虫のように思っているらしい。
執事は眼鏡のつるをあげながら、冷たい眼差しでヴィクターを睥睨した。
「庭師見習いであるあなたがお嬢様に御用があるとは思えませんが」
「……用がなければ話せないのかよ」
「なりませんね。お嬢様になにかあっては旦那様にお見せする顔がありませんから」
まるでヴィクターがお嬢様に悪いことをすると決めつけているような口調だ。彼はこの屋敷に来てから特に目立った悪さはしていない。執事はおそらくヴィクターの出目から彼の人となりを決めつけているのだ。
(俺のことをよく知らないくせに……!)
怒りと悔しさがない混ぜになったドロドロとした気持ちが胸中を満たし、ヴィクターはギリッと歯噛みした。だが前方から小さなため息が聞こえてきて、お嬢様が執事の服の裾を掴んだのが見えた。
「私がヴィクターを呼んだのよ。アルハメリア通りのクッキーが急に食べたくなったから、お使いに行ってもらおうと思って」
「ほう? そんなもの、私が帰宅してからならいつでもお嬢様の為に買いに行きましたものを、わざわざ彼に頼んだのですが」
「今すぐ食べたかったの。だからもう彼を行かせて。ヴィクター、そういうわけだから先ほど頼んだものをすぐに買ってきてちょうだい。三時になるまでに戻ってくること、いいわね」
そう言うとお嬢様はくるりと踵を返して自分の部屋に戻っていった。その後を、ふんと鼻を鳴らした執事もついていく。
ヴィクターはサラサラと揺れる栗色の髪が廊下の角を曲って見えなくなる様子を少しだけ切なげな表情で眺めていた。栗色の髪の毛先がふわりと回って角の向こうに消えていくと同時に、ずっとヴィクターの背後にいたヒヤシンスの少女がホッと大きな息を吐いたのが聞こえた。
「まぁ怖い人ね。私、びっくりしてしまいました。ずっと恐ろしい顔でヴィクターを睨んでいるんだもの。私まで震えてしまったわ」
「あの人は俺のことが嫌いなんだよ。俺がお嬢様になにか悪いことをするんじゃないかっていつも目を光らせてる」
「そうなの? ヴィクターは彼女に悪いことをするような人には見えないけれど。だってヴィクターはあの子のことが好きなのでしょう?」
「……そうだよ。でも俺にとっては永遠に届かない花だ」
ポツリとこぼれた言葉はヒヤシンスの少女には届かなかったようだ。少女はニコニコした顔でヴィクターのシャツの裾を引っ張る。
「私、ヴィクターのお部屋を見てみたいの。早く行きましょう」
「はいはい、ったく仕方ねぇなあ。とりあえずお菓子も買ってこなきゃいけなくなったし、あんまりのんびりしている時間もないな」
呆れ笑いをしながらも、ヴィクターは今の出来事を頭の片隅に追いやって歩き始めるのだった。
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