庭師とヒヤシンス

結月 花

KAC2024

お題「◯◯は三分以内にやらなければならないことがあった」で始まる物語

 ヴィクターには三分以内にやらなければならないことがあった。

 それは自らが仕えるお嬢様に呼ばれたら、三分以内に馳せ参じなければならないこと。そうでなければ屋敷を統べる可憐なお姫様を怒らせてしまうことになるから。

 今も話し相手が欲しい彼女が鳴らすベルの音を聞きつけて、ヴィクターは庭園を駆け抜けていた。庭師見習いの十五の少年は自分が仕えるお嬢様に恋をしていた。そして目の上のたんこぶである有能な執事が滅多にない外出を旦那様としている今こそ、お嬢様に良い印象を持ってもらうまたとないチャンスだった。

 ヴィクターは屋敷の中の誰よりも足の速さに自信がある。メイド長よりも、掃除夫よりも、料理長よりも。だからいの一番にお嬢様のもとに駆けつけて、彼女を独り占めしたかった。彼女に良い印象を持ってもらって、そしてゆくゆくは自分の気持ちを伝えたいという腹づもりだった。

 広い広い庭園を走るヴィクターの金色の髪が日の光を浴びて煌めく。目の前の屋敷をまっすぐ見据える瞳は深い紺青色だ。

 

 だが、決死の思いで走っていたヴィクターの足を止めたのは視界の端に映った鮮やかな紫色だった。暖かくなり、一斉に鮮やかな花を咲かせたヒヤシンスの花畑の中で、一匹のハクビシンが穴を掘っていた。球根を狙っているのだろう。ハクビシンがガリガリと鋭い爪で地面を引っかき回す度にヒヤシンスの茎が今にも折れてしまいそうにグラグラと大きく揺れる。

 ヴィクターにとってこの三分は何よりも大切なものだ。厳しい執事の目を掻い潜ってお嬢様と懇意になるまたとないチャンス。今ここでハクビシンの悪行を容認し、数多あまたあるヒヤシンスのたった一茎が駄目になったところで庭園の外観を損なうことはないだろう。それに、この機会を逃せばお嬢様に付きっきりの執事が邪魔で彼女と話す機会はほとんどないはずだ。だからヴィクターは、目の前の光景を見なかったことにして屋敷に駆け込まなければならなかった。

 だがそう思う前にヴィクターの体は動いていた。


「やめろ! あっちへ行け!」


 足を止め、腕を振ってハクビシンを追い払う。ビクッと跳躍してどこかへ走っていくハクビシンを尻目に、ヴィクターは今しがた荒らされそうになっていたヒヤシンスの下にしゃがみ込んだ。見ると、ヒヤシンスの根本はだいぶ掘り起こされており、土の中に埋まっている球根の半分が見えていた。


「大丈夫か? あーあ、こんなに掘り起こされちまって。まったく、どこから屋敷に入ってきたんだか……待ってろ、今もとに戻してやるからな」


 そう言いながらヴィクターは手で穴を掘って丁寧に球根を掘り返し始めた。ヴィクターは花に話しかけるクセがあった。花は生き物だ。言葉が返ってくるわけではないけれど、きっとこちらの気持ちは伝わっていると信じている。

 ヒヤシンスの茎をそっともちながら、ヴィクターは根を傷つけないように優しく球根を掘り起こした。ハクビシンが荒らした地面を整え、手が汚れるのも構わずにもう一度穴を掘って、ヒヤシンスの球根をその中に静かに入れる。

 土をかぶせて立ち上がった時、貴重な三分間はとっくに過ぎていた。今更駆けつけても、彼と一つか二つしか年の違わないお嬢様はご立腹で口をきいてくれないだろう。彼の印象は最悪だ。それに、自分が駆け付けなくとも、もうとっくにメイドの誰かが彼女のお相手をしているに違いなかった。

 だがヴィクターの心は思っていたよりも晴れ晴れとしていた。お嬢様と仲良くなるチャンスは失ったけれど、美しいヒヤシンスを守ることができたのだから。


「ありがとう、ヴィクター」


 だけど立ち上がって庭園に戻ろうとした時、突如背後から声が聞こえた。鈴の音を転がすような可愛らしい声だ。メイド達は全員屋敷の中におり、今この庭園にいるのは自分一人のはずだ。すわ泥棒かとヴィクターは身構えながら振り返った。

 だが、ヴィクターの紺青色の瞳に映ったのは地面にペタンと座る一人の少女だった。

 こちらを見上げる瞳は宝石を嵌めたかのような透きとおったエメラルドグリーン。ふわふわの長い髪は鮮やかな紫色で、風が吹く度にふわりと甘い香りが漂う。少女かと思ったが、整った顔は大人びた美しさがあり、年はヴィクターよりも少し上のように見えた。美しい見た目だが髪には白い小花が散っており、体にはゆるくつるのようなものが巻かれているのを見るに、普通の人間とは違う、独特の雰囲気があった。


「だ、誰だ……お前は。人を呼ぶぞ!」


 震える体を叱咤しながらも声を出すが、少女はキョトンとした顔で自分の口を抑えていた。まるで今発した言葉が、自分のものだったと信じられないかのように目を丸くしている。

 少女は自分の体をしげしげと見下ろしていたかと思うと、ヴィクターを見て花が開くようにパァッと輝くような笑顔を向けた。


「やっと話せるようになったわ、ヴィクター! 嬉しい! きっと女神様が願いを叶えてくれたのね!」

「は? 話せる? 女神? 一体お前はなんなんだ? なんで俺の名前を知っている」

「それはもちろん、私がこのヒヤシンスだからよ。これからよろしくね、ヴィクター」

「は?」


 少女の突拍子もない発言に、少年は情けない声をあげた。どう見ても人間の少女にしか見えない彼女が目の前で可憐に咲き誇るヒヤシンスというのはどういうことだろうか。


「ヒヤシンス? お前が? だってどう見てもお前は人間の女の子じゃないか」

「あなたはいつもお花のお世話する時に私達に話しかけてくれるじゃない? だから私もあなたとお話がしたくて花の女神様にお祈りをしてみたの。ヴィクターと喋れるようになる体をくださいって。そうしたら、彼が私に向ける愛情が私の器に溜まったら人間の体をあげるわって言ってくれたの。あなたが毎日お世話をしてくれる度に私の中で嬉しい気持ちがほわほわ溜まっていくのを感じていたけれど、きっと今がその時だったのね」

「待て。そうなると、今俺がハクビシンを追い払ったのが最後の一雫になってお前がここに現れたということか?」

「ええそうよ。私、今ここであなたに助けてもらわなかったら球根を傷つけられて死んでいたもの。あなたは私の命の恩人ね、ヴィクター!」


 そう言ってヒヤシンスの少女は両手を広げてヴィクターに抱きついた。ぎゅむぎゅむと柔らかい頬を押し付けられながら、ヴィクターはわけもわからないまま天を仰ぐ。


 このたった三分間の選択がヴィクターの人生を大きく変えることになったのを、彼はまだ知らない。

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