本編
【本編】
生い茂る桜の葉。枝を揺らすムシムシとした熱風。騒がしい蝉の合唱。私の思考は夏の直射日光によってすでにドロドロに溶かされていた。
オカルト雑誌のライターを生業とする私は今、姫路城に来ている。言わずと知れた日本初の世界遺産。真っ白な天守を持つことから「白鷺城」とも呼ばれる。ここには様々な逸話やら伝説が伝わっている。いちまーい、にまーい……と皿を数える声がする「播州皿屋敷」、井原西鶴や近松門左衛門らの作品で有名な「お夏清十郎」、自身の運命に翻弄された「
しかし私が調べているのはそれらではなかった。もっと奇妙で、私の好奇心がそそられるある現象。出回っている情報が少なく、今回解明できたらかなりのネタになるだろう。というわけでその現象が起こると言われている、三の丸広場西側の、ここ千姫ぼたん園でひたすらその瞬間を待っているのだ。
にしても、暑い。姫路ってこんなに暑かったっけ。日陰に避けてハンディファンのスイッチを入れる。だが暑さはたいしてマシにならなかった。
そのまま数時間経過したが何も起きなかった。ただ蝉が鳴いては飛び立ちを繰り返していただけだった。
やはり噂は噂だったか。もう帰ろう。半ば落胆、半ば迫る締め切りへの憂いと焦燥を抱えて立ちあがろうとした。
とその時、
「あなた、歌はお好き?」
すぐ隣から声が聞こえた。はっとそちらを見ると、そこには中学生くらいの女の子が立っていた。天守のように白い肌、少し破けたセーラー服、胸元の真っ赤なスカーフ。
私は息を呑んだ。ああ、これだ。この子だ。これが噂の……
現地調査をするにあたって、私は事前にその現象が起こるようになったある出来事について、念入りに情報収集を行なっていた。大方の話をまとめるとこのようである。
1930年代、日本ではいわゆる昭和モダン——雑誌やラジオなどの大衆文化が現れ始めた頃。姫路でもその風潮の一波として「しらさぎ歌唱隊」という青少年合唱団が結成された。そしてその中の一人にキミコという女の子がいた。キミコは歌をこよなく愛し、その歌唱力も群を抜いていた。歌手として将来有望な彼女は春の花を、特に桜を好んだ。
しらさぎ歌唱隊は数年間、毎年姫路城でのコンサートで演奏していたらしい。が、団内のトラブルにより活動が中止された。団員たちは歌うことを禁止されたが、キミコは暇さえあれば、隙を見て大好きな姫路城に行って歌の練習をしていたという。
ある日、キミコが
キミコはそれを知らず、いつものように歌っていた。男がキミコのそばを通ったかと思えば、辺りが紅くなっていた。少女の意識はそこで途切れた。ほんの一瞬の出来事であった。
事件後、警察が捜査のために姫路城へやってきた。天守閣が凛と聳え立っている中、ぼたん園のそばで亡くなっていた女の子が見つかった。彼女は花びらがたくさん落ちている桜の樹の根元で倒れていたという。
本来遺体は家族のもとへ運ばれる。しかしなんらかの陰謀が働いたのだろうか、キミコの遺体はお堀へと棄てられてしまった……
(身体が水に落ちる音)
そして彼女の恨みや無念が呪いとなって、奇妙な現象が引き起こされているそうだ。しかし肝心の現象自体については明らかになっていない。先にも言った通り情報があまりにも少なく、不確かな部分が多く存在する。はっきりと分かっているのは
・「歌が好きか」と尋ねられる
・その現象に遭遇した者は行方知れずとなる
・失踪した場所に紅い桜の花びらが大量に見つかる
という3点だけだった。
「あなた、歌はお好きかしら?」
少女はもう一度尋ねてきた。私は内心慌てながらもなんとか答える。
「あっ、はい。好きです」
とりあえず笑顔を作ったが両手は震えていた。少女は柔らかな微笑を浮かべて私の隣に腰掛けた。
「そう。嬉しいわ」
「あなたは誰……ですか?」
恐る恐る訊いてみた。
「……キミコと申します」(ほんの少し低めの声で)
背中を百足が駆け上がった。ぞくっと寒気が襲ってくる。さっきまでの暑さなんて比にならなかった。
私が何も言えないでいると、キミコと名乗った少女は私の顔を覗き込んだ。
「あら、顔色が宜しくないですわ。これをお飲みになって」
そう言って取り出したのは竹筒だった。私は断るわけにもいかず受け取った。中からちゃぷんと液体の音がする。上の栓を抜いて少し口に含んだ。いたって普通の——いや、かなり冷たかった気もするが——普通の水だった。
ごく、ごく、ごく……(水を飲む音)
生理的に相当水分を欲していたのだろう。思わずぷはぁっ、と中身を全部飲み干してしまった。そして数秒後我に帰り途端に申し訳なくなった。
「あ、全部飲んじゃいました……すみません」
「いえいえ。構いませんわ。喜んでいただけたなら……」
キミコは変わらず微笑んでいる。私はまだ恐怖を払拭できないでいたが、少しずつ冷静さを取り戻してきた。
喋り口調から考えるに、おそらくキミコはお嬢様だ。そこそこ裕福な家系であったのだろう。戦前にセーラー服を着るような女学校に通うには、それ相応の財力が必要となる。しかし竹の水筒を持っているのが引っかかる。本当は貧しい家に住んでいたのか……?やはり不可解だ。そして面白い。是非雑誌のネタにしたい。この体験を価値のあるものにしなければ……!
あれこれ思考を巡らせていると、再びキミコが尋ねてきた。
「あなたはこの歌ご存知?私の大好きな曲ですの」
彼女はおもむろに立ち上がった。そして目を閉じゆっくりと歌い出した。
「♪〜〜〜」
私ははっとした。聴き覚えがある。
「……この曲って」
姫路を代表する合唱組曲『交響詩ひめじ』の中の一曲「城—千姫によせて」だった。曲のことは知らなかったが、たまたま予備調査で聴いていた。
キミコの歌声は言葉で言い表し難いくらい美しかった。透き通るような高音、流れるようなリズム、ほんの少し帯びている儚さ……私は優しく手を引かれるように聴き入った。彼女の音楽の世界観にすっかり虜になっていた。
しかし、途中である異変に気づいた。黙っていようか迷ったが、やはり訊かずにはいられなかった。
「キミコさん、なぜあなたはこの曲を知っているんですか……?」
というのも『交響詩ひめじ』が作られたのは1989年、姫路市制100周年記念の時である。戦前に生きていたキミコが知っているはずがない。
するとキミコはぴたりと歌うのをやめた。
「……あなた、私のことご存知なのね」
先程までの柔和な表情は一瞬にして消え、感情を失っていた。途端にこの場の空気が止まった。
「あ……いや、えっとその……」
「…………そうでしたのね」
「いや、し、知らないです……!!」
「そう。それなら」
「……あナたも一緒ニ歌いましょウ?」(徐々に崩壊していく声)
歪んだ笑みを浮かべる彼女の眼は漆黒と化している。もはや少女、いや人間ですらない。私は再び背筋が凍った。指先までも強張ってしまい動けない。喉は干からびたように渇いて息をするのも精一杯だ。
「ほラ、歌うノハお好キなンでしョう?」(歪んだ声)
「……っはぁ、はぁ、はぁっ……いっ、いやだぁ……!(過呼吸になりながら)」
「どウしテ?モシかシて歌がお嫌イ……?」
「ぐっ……はっ、はぁっ、やめてくれ……!!」
必死で全身に力を込めるがびくともしない。目を逸らそうにも首が回らず、キミコの瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
キミコは再び歌い出した。
「♪通りゃんせ 通りゃンせ
ここはどコの 細道ジゃ……」(おどろおどろしい歌声と不協和音)
先程の優美で繊細な歌声とは全くかけ離れた、脳を引っ掻き回されるような恐ろしい声色で歌う。楽器がないのに気味の悪い不協和音も聞こえてくる。私は耳を塞ぐことができず、今にも気が狂いそうになっている。次第に身体が暑く——いや熱くなるのを感じた。間違いなく真夏の気温のせいではない。そうだ、あの現象の話が本当ならば、もしかして私は……
キミコは私の手を掴み、ぐうんっと引っ張った。私の身体が浮き上がる。関節が外れそうなほど強く引かれる。そしてそのまま、キミコは生垣の外——お堀の方へと近づいていく。まさか……
「……っ!!ぐっ……やめ…………!!」
「♪行キハよいヨい 帰りハコわイ……」
「やめて……くれ……っはぁ、やめ……ろ……っ!!」
「♪こワイなガらモ
通りャンせ トオリャンセ…………」
「やっ……!ああ…………あっ……」
「サア、イッショニウタイマショウ……!!」(ひどく歪んだ醜い声)
「うわあああああああ!!!」(叫び声)
(身体が水に落ちる音)
その後、オカルトライターは行方不明になってしまったそうです。彼が最後に目撃された場所には、大量の桜の花びらが落ちていたんだとか。まるで血に染まったように
この噂はかなり昔から伝わっており、それに沿った現象が何件か起きているそうです。しかし、それが本当かどうかは分かりません。一説では「呪いを鎮めるために彼女が好きだった桜がたくさん植えられた」と言われているとかいないとか……そのおかげか今では姫路城は桜の名所となり、毎年4月上旬には姫路観桜会が開かれコンサートなども行われています。
姫路城へいらっしゃったそこのあなた。もし万が一、少女の歌声が聞こえてきたら……(キミコの美しい歌声が聞こえてくる、だんだん歪む)歌が好きかと尋ねられたら……決して彼女の歌声に聞き惚れてはいけません。決してお堀を覗き込んではいけません。さもなくば……
「……さア、一緒ニ歌イマショウ?」(醜い声)
(砂嵐)
白鷺城の紅い旋律 亜月 @Azu_long-storyteller
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