蛇足(番外編)

山の端の月

 目をつぶると、かちりと画面が切り替わり、あの日の光景が現れる。


 五歳だったは君はノブにぶら下がるようにしてドアを開く。闇がこぼれだした。まーあくーん、そう呼びかけながら、暗い部屋をのぞきこむ。変なにおい。ぱちぱちと瞬きして、ようやく慣れた目に見えてきたのは、目の前に浮いている、中味の詰まった濃紺の靴下。その上に浮く学制服の真っ黒いズボン。その両脇に垂れたほの白いふたつの手。灰色のカッターシャツの腹、胸、そして――。

 変なにおい。記憶の最初と最後の断片は嗅覚だった。


 そのとき何を感じたのか、そのあとどうしたのか、君は覚えていない。思い出してははらわたが捻じれるようなこの感触だって、その当時感じたものというよりは、何百回、何千回とよみがえるうちに付加されたもののひとつだろう。でも、早熟だった君が激烈な感情の渦にからめとられ、もみくちゃにされたのは疑いない。

 一回り年上の兄をなくしたその日から、君はしゃべらなくなった。緘黙かんもくは一年におよび、ようやく言葉をとりもどしてからも、大学に入学するころまで吃音きつおんに悩まされ続けた。どもるたびに、まあくんは君の舌をちぎり、こころをえぐり、それらを携えて旅立っていったのだと感じた。だからまあくんは寂しくない。舌は癒えた。でも、えぐり取られたこころにはぽっかりと穴が開き、君の成長とともに大きなうろとなっていった。

 うろにはときどき風が吹き込む。そのたびに冷ややかな感触が体に伝わり、その存在を主張した。幼いころは訳も分からず気分が悪くなって、戻したり泣いたりを繰り返した。小学校に上がったころからうまくやり過ごせるようになった。きっかけは図工と算数の授業だ。植物や動物を緻密にスケッチしているとき、計算問題を解いているとき、うろは腹の底でひっそりと気配を消し、不思議なほど安らかな気分になれた。


 自分には、いわゆる倫理観というものが欠けているのだろう、君はそう思う。

 

 妻となった女性と付き合い始めたのは、高校一年の冬。優しい彼女が丸い色白の顔を真っ赤に染めて告白してくれたのがきっかけで、受け入れたのはそれを可愛いと思ったのが半分、断るうまい理由を思いつかなかったのが半分。彼女が注いでくれた恋情は君のこころの奥底にたまり、しばらくのあいだ周囲をうるおした。その心地よさに君は驚いた。でも、それはしだいに間隙に染みとおってなくなり、うるおいは消え、そのあとはむしろ空虚さを掻き立てた。


 うろが満たせる可能性を君はそのとき初めて知った。


 誰かが自分を好きだと言ってくれるのは、干天かんてん慈雨じうのように全身にしみわたり、うろにしたたる。君は比較的女性に好意を持たれやすかった。大学の学部でも、研究室に配属されてからも、しばしば君に好意を示す人が現れ、ときに熱烈に恋うる人が現れた。彼女と付き合いながらも、君は自分に向けられる恋情や愛情を基本的に拒まなかった。


 誰かがまっすぐな恋情を差し出してきたなら、拒絶しなければならない理由がどこにある? 好意を打ち明けられたら、素直に喜べばいい。嘘はつかない。彼女がいると告げる。それで去っていくならそれまでの縁、行き場のない恋慕を持て余す人とは性的な関係を持つこともいとわなかった。相手が愛想を尽かしたり、他の人に心変わりして離れていくまで、好きにさせておいた。――どうせいずれは離れていく、それなら僕に対する思いが薄れ、指先ではじいただけで吹っ切れるまで、好きにさしてあげたっていいんやない?

 受け取った恋情はつぎつぎと風の吹き上げるうろに放り込んでいく。その底は手向たむけの恋で少しずつ埋まっていっているはずなのに、空隙はいつまでたっても縮まろうとしない。まあくん、どれだけちぎって持っていったん? 苦笑しつつ、君は新たな恋を落としていく。


 付き合っていた彼女にも悪びれることなくすべて伝えた。君にだって、自分のやっていることは世間から眉をひそめられることだと想像はついた。こんな自分を愛してくれる大切な彼女には、できれば幸せでいてほしかった。だから、もし自分の行為を許せないのなら、別れてほしいと伝えた。

 当初、驚愕していた彼女だったが、すでに何か感じるところはあったのだろう。しばらくぎくしゃくとした関係が続いたものの、君が一切隠し立てをせず、心変わりするような『浮気』はしないようだと理解すると、彼女の精神不安は落ち着いてきた。君の行動が彼女の思っていた『浮気』とは何か勝手が違っており、どうやら性的関係を持つどの相手にも、愛情を持っていないのではないかと気づくと、彼女は足掻くのを止め、君が希求するものを見極めようとしはじめた。君はいつも彼女を丁寧に扱い、柔らかな微笑みで包み込む。ときに壊れものに触るようにそっと触れ、時間をかけて愛する。そこには嘘はないように彼女には思えたが、同時に、自分に対しても愛する姿を演じている、そうも感じた。


 思いつめた顔で打ち明けてきた川野のことも、君は受け入れようと思えば受け入れられた。向けられる恋情が女からであろうと男からであろうと、大差ない。それにもかかわらず、川野を受け入れなかったのは、ひとつには川野がそれを望んでいないとはっきりとわかっていたからだ。八年間、ひたすら好きだった、川野はそう語った。でも、君には疑わしく感じられた。それがふたつめの理由だった。

 川野が君にどうしようもなく強く惹かれるのは、川野の闇と君のうろが共鳴しているからだ。君自身、川野に惹かれていることを自覚していた。うろに川野の深い闇をすぽりと収めてしまえば、満たされた気持ちになれるのだろうか? 『成り余れるところをもって成り合わざるところをさし塞ぐ』――うっとりとした。

 そう夢想しつつも、川野が本当に求めているのは君ではなく、君のうろでもなく、君を通じて見ている別のなにかではないかという予感があった。川野はそれに気づいていない。川野のことを愛している君は、自分に幻滅されるのは嫌だった。それに、自分以外を恋うる人に気持ちを振り向けるのは本意ではない、そう割り切ろうとしたとき、うろを吹きわたる風のうなりが聞こえた。


 まあくんは、なんし、ひとりで行ってしまったんやろう。あげん、優しかったひとが、小さな弟のこころをもぎ取っていくなんて、なんがあったんやろう。隣で幼子のように眠る女の白い顔を見てから、君は暗闇に目を凝らす。


 十七歳の兄が五歳の弟に悩みを漏らすことはなく、君は兄が何を思っていたのか、まったく知らない。記憶はとりとめない。


 かっと照り付ける日差しのなか、君は全体重をかけてまあくんの手を引っ張り、空き地につれて行く。植え込みの裏でぐったりとしている小さな灰色の子ネコ。君はすがるような目でまあくんを見る。戸惑った顔で君を見て、子ネコの傍らにしゃがみこむまあくん。そっと頭をなでると、子ネコはうっすら目を開け、すぐに閉じる。君がせかす。ノミだらけの衰弱した子ネコをそっと抱きかかえるまあくん。骨の浮き出た腹をはっていたノミがピンピンとまあくんのズボンに跳び移る。ふたりで運んでいる間に、動かなくなった子ネコ。運び込んだ動物病院で、もう死んどるねと悲しそうな顔で言う白衣のお医者さん。病院でもらった小さな段ボール箱に子ネコを入れ、まあくんはその箱を右手に持ち、泣きじゃくる君の手を左手で握りしめ、空き地に戻る。ふたりで掘って子ネコを埋めた暗い穴の土のにおい。

 遊ぼうと駄々をこねる君を連れて近所の川に行くまあくん。ちょうど引き潮で、むき出しになっている黒々とした川底。強い磯のにおい。君ははしゃいで走り回り、カニを追いかけ、ヤドカリを捕まえ、打ち上げられたクラゲをつつく。靴やズボンはすぐにびしょぬれになり、その気持ち悪さが勝り始める。もう帰る、そう言った君の手を引いて河川敷を歩き始めるまあくん。靴がぐちゅぐちゅして気持ち悪い、そう言ってべそをかき始めた君をおんぶするまあくん。君の靴の泥で汚れたまあくんのズボン。初夏の温気のなか、死んだ灰色の子ネコのようにぐったりと身を任せた君の体の下で、じっとりと湿っていくまあくんの広い背中。

 幼稚園から帰ってくると、目に飛び込んできたまあくんの大きな黒い革靴。まあくん、もう帰っちょる、嬉しくなった君は、まーあくーん、と言いながら兄の部屋に駆け込む。タバコのにおい。まあくんの右手には煙のくゆるタバコ。驚いた顔で君を見るまあくん。その表情が歪み、険しくなる。タバコを灰皿に押し付けると、立ち上がったまあくんは部屋の真ん中で突っ立っていた君をくるりと後ろ向かせ、背中を押して部屋の外に追い出す。閉ざされるドア、鍵をかける音。初めてみたまあくんの怖い顔。君は泣くこともできず、一人で公園に歩いていく。


 まあくんと同い年になった君は、タバコを吸い、酒を飲んでみた。タバコの煙も酒も、するするとうろに吸い込まれる。せき込みながらふかしたタバコは胸のむかつきだけを残して消えた。おそるおそる口をつけた酒は何の感慨も残さずに消えた。つまらない。痕跡を残すという意味では、タバコのほうがまだましかもしれない。いっときでも何かが溜まるたしかな手ごたえを味わえるのは、誰かからの恋情だけだった。


 問題があるとすれば、恋情を差し出されても、君には受け取ることしかできないことだ。恋する気持ちが君にはわからないのかもしれない。可愛い、嬉しい、気持ちよい。ひとつひとつの感情を感じることはできる。でも、それらはこぼれ落ちた水銀の玉のように孤独で、拾おうとしても、つまみ取ろうとしても、指先をつい、ついとすり抜ける。ころころ、ころ。


「恋うるって、どういうことなのか、どの気持ちのことなのか、あるいはどれとどれの組み合わせのことなんやろ」

 あるとき、うっかり、ベッドの中でそうつぶやいた。

「浮気相手には、感じないんじゃない? 別にいいよ、私に恋してなくったって」

 けだるげにそう返され、そのくせ強引に口をふさがれた。


 ぽちょん。


 なけなしの恋情がひとつぶ、うろに落ちた。

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ハシボソガラス(イソヒヨドリの町でー3) 佐藤宇佳子 @satoukako

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