ほころびー2

 それを見つけたのは、葬儀から二週間後の日曜日のことだった。竹史の母の持ち物、それにいまだ残されていた父の雑多な遺品を竹史と章のふたりで仕分け、不用品を処分し、残しておくものを庭の隅に立つ倉庫にしまおうとした。こちらに引っ越してきてから、ついぞその倉庫を開けたことはなかった。母の文机を整理していた時に鍵を見つけ、ようやく存在を思い出したのだ。


 解錠し、扉を開けると、軽くかび臭いにおいがした。突き当りの明かり取りの小窓からぼんやりと光が差しこみ、入口付近から奥まで、雑多ながらくたが所狭しと積み上げられているのが見えた。竹史はため息をついた。家の中ではなく、まずここを整理しなければならないようだ。意を決して中に入り、風を通すために小窓を開けた。竹史の後ろでそわそわとのぞきこんでいた章も続いて中に入り、好奇心いっぱいの目でそこらの荷物を触ったり、箱の隙間から中をのぞいたりしている。楽し気な声が上がった。


「父ちゃん、これ、なん?」


 振り返り、章が引っぱり出そうとしているものを見て、息が止まりそうになった。それは藍色の弓袋だった。隣には矢筒もある。


 なぜここにあるのか。あの日以来、竹史は家に引きこもり、祐介と、弓道に関する一切から目を背けようとした。卒業式の直前に顧問の広津留先生に電話をかけ、弓具庫に置いたままになっている自分の弓具はもう不要なので、部の共用品として使ってほしいと伝えたはずだった。


「開けてみろうっと」


 そう言いながら章はするすると袋を開け、「うわあ、なん、これ? なん、これ? え、弓?!」と目を輝かせる。


「かっこいい! 父ちゃん、これ、誰の? 父ちゃんの?」


 竹史は動揺を隠そうとする。


「――おう」

「ええっ?! 父ちゃん、弓道なんち、やりよったん? いつ、いつ?」

「――中学と高校んとき」

「いいなあ。なあ、父ちゃん、俺もやりてえ」

「――」


 口を閉ざしてしまった竹史を章が見つめ、顔をくもらせる。


「父ちゃん? だめ?」


 とにかく、まずはこの場を逃げ切らねばならなかった。


「――弓道教室は中学生からじゃ。中学生になって、それでもまだやりたかったら、そんとき、考えろう」


 とたんに章の顔が明るくなる。


「うん!」


 満面の笑みで弓を握る章にもう弓をしまわせ、倉庫に新たな荷物用のスペースを作るべく、整理できそうな場所を見定めはじめた。弓袋はできるだけ目に入らないよう、大きな荷物の影に押し込めた。


 章はあきらめなかった。小学校を卒業し、中学校の入学式が終わったその晩から、弓道を習いたいと再び言いはじめた。弓道教室の曜日や時間、弓道場の場所、募集開始時期などを自分で調べ、通いたいと繰り返す。一週間後、教室へは自転車で通うことを条件に、竹史は章が市の弓道教室に通うのを認めた。中学校は部活動が必修だったので、章はほぼ帰宅部と噂の技術工作部に所属し、もっぱら週二回の弓道教室に専念した。


 弓道場は竹史が子供のころに通っていた建物が、改修を繰り返しながら今でも使用されている。それも、竹史が気づまりな理由の一つだった。いくらふだんの稽古の時に一切の無関心を決め込んでいても、競射会があれば、まったく顔を出さずにはいられないだろう。あの弓道場に再び足を踏み入れなければならないのか。そう思うと暗澹たる気持ちになった。


 弓道教室の初日には事務手続きがあったので、章を連れて弓道場に行かざるを得なかった。教室の雰囲気は当時と様変わりしていた。子供の数はすっかり減り、今では子供よりも退職後の趣味として始めた初老の男女のほうが多かった。


 弓具は一式、新しいものを買い与えた。「なんで? 弓と矢、ここにあるやん? 俺と父ちゃんなら、そげん、身長も矢束やづか(矢の長さを決めるための腕の長さ)も変わらんよ?」不思議そうにそう言う章に、「せっかく始めるんやったら、人の癖がついちょらん道具で始めるんがいい。その方が素直な射になる」と押し切った。本音を言うなら、目の前であの弓と矢をもてあそばれるのは、たとえそれが章であろうと――いや、むしろ、自分によく似た章であるからこそ――耐え難かったのだ。


 弓道教室に通い始めると、章は家でもゴム弓を使って練習するようになった。ときに竹史に射形を見てくれとねだる。章の明るい声が、深く沈みこんだ意識の底から、竹史を弓道の世界へと引きずり出す。竹史は章が弓道を習いに行くのを許可してしまったことを悔やんだ。


 どちらかというと大人しく、物事に執着することの少ない章には珍しく、弓道にはこだわりを示した。竹史はせがまれるがまま、体の使い方、呼吸の仕方、狙いのつけ方を教えた。気づけば、週末に特別稽古があるときには弓道場に顔を出し、章の射を見るようになっていた。章は優しい気質を体現するような穏やかな射を行った。柔らかなゆえに狙いの定まらない章の行射を見ては、竹史は「まだ甘い」と繰り返す。章の背に手を添え、弓道の世界の入口に再び立っている自分に気づくたびに、竹史はぞっとし、踵を返そうとする。その手をつかみ、引き戻そうとする章の、ハシバミ色の瞳。薄い色の瞳が真っすぐにこちらを見つめると、竹史は目がそらせなくなり、ただ、苦しくなった。


 父の懊悩に気づくこともなく、章は悪いところを教えてとしきりに聞いてくる。「なあ、なんか言って」と口をとがらせる章は、祐介に甘えていた自分だ。竹史は眩暈を感じる。


 章は三年間弓道教室に通い続けた。竹史に似て小柄で力が弱く、一緒に教室に通い始めた同級生に比べ進歩は遅かったものの、誰よりも弓道を愛し、魅了されているようだった。弓道に打ち込むうちに、引っ込み思案だった章は変わった。弓道教室の中学生や指導員と進んで交わるようになり、年配の受講者からも、あきちゃん、あき、と可愛がられるようになった。父と同じ高校に入学すると、迷わず弓道部に入部した。想像以上の一途さに竹史は胸をつかれ、居ても立っても居られないような焦燥感にかられた。



「ただいま」


 口の中でつぶやきながら玄関に入ると、暮れなずむ初夏の爽やかな空気は、濃口醤油とネギとショウガの混じり合った甘いにおいに一気に押し流された。先に帰った章が魚を煮ているようだ。


 章は勉強に部活に忙しいはずなのに、どうして晩飯をきちんと作ろうという気になるのだろう。料理のいったい何がおもしろいのか。作ることか? 食べることか? 食べてもらうことか? そこは本当に真弓にそっくりで、竹史には理解できない。


 俺が準備すると真弓に約束した手前、竹史は一日も欠かさず朝食を「準備」している。米を炊き、それに買ってきた漬物や総菜を並べる。時に味噌汁を作ることもあった。朝の弱い章は、たいてい、不機嫌そうな顔で何かをほんの少し口に入れるだけだった。竹史は毎朝黙々と米と漬物を食べ、晩飯用に米を取り分けて冷凍した。


 居間に上がって上着を脱いでいると、居間と台所のあいだにかけられた玉のれんの下から、章がひょいと顔を出した。朝の不機嫌が嘘のように、愛嬌のある笑顔を浮かべている。


「あ、父ちゃん、おかえり。もう食べる?」


 無言でうなずき、上着をハンガーにかける。章が魚の煮つけと冷ややっこ、週末に大量に作り置きしていたうま煮をてぎわよく座卓に並べる。竹史が二人の湯呑を出してお茶を入れていると、章がご飯をよそって運んできた。


「なあ、父ちゃん、高校でも転校ってあるんやな。二学期からさ、うちんクラスに転入生が来るっちよ。川崎からって。川崎っち、どこ? なんか、お母さんが亡くなっちょって、やけん、気遣ってやってっち先生から直々に言われたんやけど、そんな事言われてもなあ」


 深刻な内容とは裏腹に章は屈託ない調子でしゃべる。竹史はお茶を一口すすった。


「……おばあちゃんがこっちにおるんやってさ。そんで、﨑里って名前の女子らしい」


 血の気が引くのが分かった。章の声が急速に遠ざかっていく。どこかで軽やかな鳥のさえずりが聞こえる気がした。

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