13.ほころび
ほころびー1
竹史の母が急逝したのは章が小学五年生のときだった。連絡を受けた真弓がくるみをつれて急遽福岡からやって来て、葬儀を手伝った。初七日の法要までいちどきに終わらせると、さほど多くもなかった弔問客は潮が引くように引けていった。
「これからどうするん?」
台所を片付け、洗濯をし、掃除機をかけ、忙しく立ち回る真弓がそう問いたくてたまらないのは、ちらちらと竹史をうかがう様子からすぐにわかった。だから竹史はできるだけ、彼女と顔を合わさないようにした。三年前まで、十年ほど竹史とひとつ家で暮らしていた真弓は、言わず語らずの心中をすぐに察した。それでも、今回は真弓も引かなかった。これは竹史と自分だけの話ではない。章とくるみの将来にも大きくかかわることだ。うやむやにしてはいられない。目と鼻の赤い章の頭をなで、くるみと散歩してきてと子供ふたりを家から追い出すと、真弓は竹史と向き合った。
「竹史? これから、どうするつもり?」
改まった真弓の声に無表情な竹史の顔がこわばったように思えた。真弓はそれを見ながら、自分に言い聞かせるかのようにきっぱりと続ける。
「私はまだしばらくF市民病院を抜けることはできん。何より、川野の母は入退院を繰り返しちょる。つまり、私は今は福岡から動けん。竹史はどうするん? 福岡に戻ってこれんの?」
「――すぐには、無理じゃ。俺にだって仕事がある」
「すぐにじゃなかったら? 福岡に戻る気はあるん?」
「――」
真弓は泣きそうになった。
「仕事、今、どんな様子なん? 誰かに引き継ぐんは難しそう?」
「――」
「苦労してここで見つけた仕事を、数年で辞めたくないのはわかるよ」
「――」
「福岡でまた仕事を探す辛さもわかっちょるよ」
「――」
もどかしさだけが募っていく。
「でも、どちらか、可能な方が思い切らんかったら、いつまでたっても家族四人、一緒には暮らせんやろ?」
「――」
竹史はうつむいたまま口を開こうとしない。
「なあ、お願い、黙っちょらんで、きちんと言って。子供たちのこともある。もし、竹史にもう二度と一緒に生活する気がないんやったら――」
言いかけて、言葉を飲んだ。
だめだ、今、竹史を問い詰めてはいけない。二度と浮上してこないところまで、沈みこませるだけだ。それは誰のためにもならないだろう? もうひとりの自分がそう問いかけつつ、冷めたまなざしで見つめていた。
「――離婚する気はねえ。――今は……それ以上は考えられん」
聞き取れないほど弱々しい竹史の声を聞きながら、真弓は肩の力が抜けていくのを感じていた。
「ごめん。今は、まだ、こんなことを話し合うときじゃなかったな、ごめん。でも、お願いやき、落ち着いたら、考えて」
カラカラと玄関が開く音がした。足音を立ててくるみが駆け込んでくる。
「母ちゃん、疲れたあ。ここ、周りに公園もお店もなんもないもん。なあ、おなかすいた」
甘えるくるみの頭をなでながら、じゃあいただいたお菓子を食べようか、と真弓が立ち上がる。章が部屋の戸口に立ち、難しい顔をした竹史と奇妙に明るい真弓をじっと見ている。
その日の夕食は真弓と章が一緒に作った。ハンサコ(イサキ)の塩焼き、タイのあら煮、出汁のしっかりきいた卵焼き、叩きキュウリとブロッコリーの胡麻和え、高菜とてんぷらの炒め物、キャベツとワカメの味噌汁。
小柄なりにも、すらりと男の子らしい体つきになりつつある章が、慣れた手つきで卵を焼く。この三年間、真弓は一、二か月に一度、章の顔を見に福岡から通っていたが、真弓が来るときにはいつも、料理好きな竹史の母があらかじめたくさんのご馳走を準備していたので、小嗣の家で章と一緒に料理をすることはめったになかった。久しぶりに見た章の料理の腕前は思った以上に上達しており、真弓は感心した。
くるみが上手に甘辛いタイのあら煮をつつき、真弓が章の焼いた卵焼きの出来栄えに頬を緩める。章はにこにこしながら高菜とてんぷらの炒め物をほおばり、竹史は黙々とハンサコを解体している。竹史の様子を横目で見ると、真弓は章に言った。
「章、卵焼き、上手にできちょるよ。味も、焼き加減も、見た目も、もう母ちゃんより上やわ。よく料理しちょるんやな。でもな、あんた、ご飯これからずっと作れると?」
「作れるよ。だって、今までもばあちゃんと一緒に作りよったよ?」
「でも、これからはひとりなんで。ばあちゃん、もう、おらんのやき」
章は無邪気に笑う。
「晩飯だけやん? 昼は給食があるし、父ちゃんも会社の弁当を食べるんやろ? 洗いもんは父ちゃんがやってくれるし、楽勝やわ」
「朝は?」
途端に、章の笑顔がこわばった。
「え? 朝? 俺、朝は起きれん。朝飯は――なし?」
おもねるようなまなざしに真弓が眉を寄せる。
「なしはなし! 章、あんたこれから大きくならんといけんにい、朝ごはんを食べんなんち、ありえんきいな。朝ごはんをよう食べられんっち言うんやったら、こっちにはおらせられん。それなら福岡に来なさい」
「ええー?」
おろおろする章、険しい顔で見つめる真弓。高菜を載せた飯をもそもそと口に運んでいた竹史が目を上げずに口を開いた。
「朝飯は俺が準備する。章も真弓も心配せんでいい」
章は驚いた。真弓はもっと驚いた。これまで竹史が料理するのなんて見たことがあっただろうか。
「竹史、本気? そもそも作れるん?」
「米は炊けるし、みそ汁くらいなら作れる」
「ほ、ほら、母ちゃん、やけん、心配いらんわ」
子供のためなら、今まで台所に立たなかった竹史が料理をするようになるのか。真弓は複雑な思いを抱きながら、ふたたび黙りこくって茶を飲む竹史を見つめていた。
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