小さな爪ー4

 子供たちが成長し、章が小学校に入学するころから、竹史の孤独は再び深まっていった。章の外見は竹史に似ていた。人生半ばにして、自分の人生をもう一度初めのころから見せつけられているような気分になった。この屈託のない泣き虫な男の子も、いつしか腹の中に冷たく固まったものを抱えて、人知れず悩むようになるんじゃないだろうな。とんでもないことをしてしまったのかもしれない。


 心の奥に閉じ込めておこうと常に押さえつけていた祐介への思いが、しばしば、あぶくのように両手をかいくぐって浮上しては、竹史を苛むようになった。夜の浜辺を洗う波のようにひたひたと繰り返し押し寄せる虚無感をやり過ごすのに必死で、真弓の声は届かなかった。差し伸べられる手も、歯を食いしばってうずくまる人間にとっては煩わしいだけだった。背中を優しくさすられようものなら、即座に振り払った。ただ放っておいてほしかった。どうせ何も変わりはしない。苦しみが体を満たし、再び心を鈍麻させてしまうのを待つしかない。だから、余計な手出しをしないでほしい。

 真弓も次第に疲れはじめた。ちょうど勤務先の病院で看護師が数人離職し、その補填で仕事に忙殺されるようになっていたこともあり、心身ともに疲弊しつつあった。小学生になった章は真弓と同様、料理好きの男の子に育っていた。幼稚園児のころから台所で真弓の真似事をしたがり、小学生になると、忙しい真弓の代わりに米を炊いたり、簡単な料理の準備をするようになっていた。


 そんなさなか、真弓の父、それに竹史の父が相次いで亡くなった。章が小学二年生になったばかりの春だった。真弓の父は、朝、母が気づくと、布団の中で眠ったまま息を引き取っていた。一方、竹史の父は職場で倒れ、意識を取り戻さないまま、一週間後に亡くなった。長く苦しまんかったんが幸いやわ、仲睦まじかった母は涙ぐみながらそうつぶやいた。


 とたんに、ふたりともがそれぞれの母親の面倒を見る必要が出てきた。真弓には妹がいたものの、昨年青森に嫁ぎ、家を出ていた。なにより、家を継いだ真弓には母の面倒を見る責任がある。母には持病があり、父の生前から入退院を繰り返していた。かたや、川野家に婿入りした竹史はいまや小嗣こつぎ家との関係が切れていたものの、一人っ子の彼が実母を放っておくわけにはいかなかった。闊達だった母は父を失ってからというもの引きこもりがちになり、みるみる老け込んでいくようだった。竹史は休日ごとに実家へと通わねばならなかった。



「真弓、ちょっと話がある」


 ある休日の午後、昼食の片づけを終えた竹史が、居間でアイロンをかけていた真弓を台所に呼んだ。真弓は疲れた目でぼんやりと竹史を見た。


「別居しようと思っちょる。俺は小嗣の母の面倒をみんといかん。お前も川野のお母さんの世話があろう? 別居して二手に分かれんと無理じゃ」


 真弓は目を見開いた。別居――


 この人は私のことを好きではない。既婚という事実にメリットがあるから結婚しただけなのだ。それがなくなれば、あるいはデメリットの方が大きくなれば、あっさり婚姻を解消するだろう。結婚して以来その考えが消えることはなく、ことあるごとに頭をよぎった。互いの親の介護が必要になった今、いつ別れの言葉を告げられてもおかしくはないと覚悟していた。でも、ふたりの子供を持ったいま、こんなにも堂々と、一抹の未練すら感じ取れない口調でその第一歩を告げられるとは思ってもいなかった。


 別居――そして離婚。頭の中が真っ白になった。


「仕事はどうするん?」

「向こうで転職先の目星をつけちょる。互いに納得しあえたら、今の仕事は六月末で辞める」


 愕然とした。そんな話、何ひとつ聞いとらん。この人はそんな大事なことを、何のそぶりも見せず計画しとったん? 六月末? もうあと三か月もないやん? 本気で言っとるん? 子供たちはどうなるん? 私の生活はどうなるん? なにひとつ、言葉にならなかった。


「今の職場に通うのにちょうどいいけん、おまえはこの家に残るやろ? 必要なら、川野のお母さんを呼び寄せて同居すれば、おまえの負担も軽くなろう」

「竹史は――どうするん?」

「小嗣の家に住むわ。車があるけん、通勤にも問題ない」

「そうじゃなくて! ひとりで行く気なん?」


 竹史は普段と変わらぬ感情の読み取れない顔で真弓を見た。


「お前は川野の家を守らんといけんし、俺は母をしばらくサポートせんといけん。俺ひとりでむこうに行くしかなかろ?」


 真弓がすがるような目で竹史を見た。


「いつまで?」


 真弓だって、口に出しても仕方のない言葉だとわかっていた。でも言わずにはいられなかった。竹史は表情も変えずに答えた。


「わからん」


 自動応答のようなきっぱりとした答えに、真弓の中で何かがかさりと崩れた。


「つまりは――別れるってことやな?」


 竹史は一瞬真弓の目をみつめ、わずかに眉根を寄せると顔をそらした。


「――そげなこと言っちょらん」


 そのまま台所を出ていった。真弓は立っていられなくなり、その場にしゃがみこんだ。居間から二人をうかがっていた章が真弓のそばにやってきた。


「母ちゃん? 父ちゃん、どっかいくと?」

 真弓は床に膝をついたまま、章の目を見つめて言った。

小嗣こつぎのばあちゃんのお世話をしに行くん」

 章がたずねた。

「母ちゃんは行かんと?」

「母ちゃんは、川野のばあちゃんの面倒をみらんといけん。やけん、ここに残る。――あーくん、あんたはどうする? 父ちゃんと行く? 母ちゃんと残る?」


 本気で尋ねたのではなかった。母ちゃんとおると言うに決まっとる。私にべったりの、甘えんぼのこの子が、父ちゃんについていくなんて言うはずない。それでも、もう小学生なのだ。本人の口から、その言葉を聞いておかねばならないと思った。


 章はさらに聞いた。

「くるみは?」

「くるみは母ちゃんとここに残る」

 章は目を見開いた。

「ひとり? 父ちゃんひとりだけなん?」

「父ちゃん、どうしても行かんといけんからな……」

「いつ帰って来ると?」

「わからん」


 真弓の言葉に章は顔をくしゃりとゆがめた。


「かわいそうやん、父ちゃん、ずっとひとりじゃかわいそう。そげなら、俺が父ちゃんと、一緒に行く」


 真弓は慌てた。


「あーくん? 父ちゃん、ひとりじゃないんよ、向こうには小嗣こつぎのばあちゃんがおるんやけえ――」

「でも、母ちゃんもくるみも、おらんのやろ? 寂しいもん、そんなん、嫌やもん」


 章の目には涙がいっぱいにたまっている。肩で大きく息をしながら必死になって泣くのをこらえている。絶対に母ちゃんと一緒におると言うと思っとったのに。思わず引き寄せて抱きしめた。う、う、という押し殺した声が聞こえ、腕の中で章がもがいた。



 転校なんて、本当は嫌やろ? せっかくおともだちもいっぱいできたねえ、本当に引っ越すん? なんど繰り返し聞いても、章は父ちゃんと一緒に行くと言ってきかなかった。本当にあの人んところにやって大丈夫なんやろうか? でも、自分と一緒にここに残ったって、片親になることに変わりはない。むしろ向こうならば竹史と小嗣こつぎのお母さんという、ふたりの目が行き届く。多感な時期、こちらで女親だけでいるより、男親と女手がある環境のほうが男の子には良いのかもしれない。自分をそう納得させた。章が竹史との間のかすがいになるかもしれない、どこかでそう思っている自分に気づき、苦い気持ちになった。


 小学校の転校手続きが必要だったので、章はきりの良い七月末に小嗣こつぎの家に引っ越すことになった。竹史は身の回りの物などほとんど持ちあわせていなかったのに、それでも六月末に竹史の荷物がなくなると、家のそこここに意外なほど大きな違和感が顔をのぞかせた。七月下旬に章の荷物を送りだすと、空虚さはもはや埋めようもないほど大きくなり、真弓は胸が苦しくなった。


 荷物を送りだした週末、真弓は章とくるみを連れて小嗣こつぎの家に行き、届いていた荷物を荷ほどきして片付けた。小嗣こつぎの母に自分が同居してサポートできないことを丁重に詫びると、川野の家に入った竹史を実家に呼び戻してしまったことに、母はむしろひどく恐縮した。章が竹史と一緒に引っ越してきたことにも、戸惑いを隠さなかった。


「真弓さん、本当にすまんことです。竹史をこっちに呼び寄せることになっただけでも申し訳ねえのに、章くんまでとりあげてしもうて……」


「おかあさん、気にせんでください。章は自分でこっちに来ることを決めたんですけん。あの子、料理が好きやけえ、おかあさん、いろいろ教えてあげてください。私とくるみも、時間を作ってこちらに来るようにしますね」



 真弓とくるみが去る時間が近づいた。竹史はひとりで風呂場の窓の建て付けを直している。真弓がそこに現れてしばらくその後ろ姿を見ていた。

「そろそろ行くけん」

 それ以上、口を開くと泣いてしまいそうだった。何とか堪えて、何より気がかりなことを口にする。

「ひとつだけ、約束して。章を泣かさんで」

 その言葉に竹史がゆっくりと振り返る。

「――約束する」

 それを聞くと、真弓はうつむき、居間へと戻った。嫌がる章を抱きしめ、母に頭を下げると、くるみの手を引いてタクシーに乗り込んだ。竹史は出てこなかった。

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