小さな爪ー3

 真弓は料理上手だった。看護師として多忙な生活を送りつつも、三度の食事には手を抜かなかった。竹史と結婚してからもそのスタンスを変えることはなかった。ただ、作るものは大きく変わった。竹史のひどい偏食のせいだ。食べられないものを出すと、何も言わずに、ただ、手を付けない。初めのうちは恐縮していた真弓だったが、次第にあきれ、食べられないものがあるんなら教えてよ、と何度か聞き出そうとしたが、目を伏せるばかりで返事はない。そこで料理名や材料名をひとつひとつ具体的に告げ、食べられるかどうかを確認すると、ぽつりぽつりと答えが返ってきた。そうして徐々に偏食の状況を把握し、三カ月もたつ頃には、あらかじめ確認せずとも、出せば口にする料理を作れるようになっていた。


 一緒にいろんな料理を食べて楽しめないのを真弓はつまらなく思ったが、竹史は真弓が彼の食べられない料理を目の前で食べていても特に気にする素振りもなかった。だから、その偏食具合を把握してからは、ときおり気乗りしなさそうな竹史を家から飲食店へと連れ出し、自分が食べたいものと竹史が食べられるものを注文して外食を楽しんだ。


 料理にはいっさい手も口も出さなかった竹史だが、掃除や洗濯は自分から買って出た。もともと一人暮らしの時からやっていたことでもあり、嫌いでもなかった。ふたりの同居人の間でいつしか自然と役割が割り振られていった。



 結婚しても竹史の生活に変化はなかった。少なくとも竹史の意識のなかでは変化はなかった。朝、仕事に出かけ、夜遅くに帰宅すると自室にこもって持ち帰った仕事を片付け、疲れたらベッドにもぐりこむ。それをこれまでどおり繰り返しているつもりだった。


 自室から出ると、台所に入ると、ときに真弓と顔を合わせることがあったが、互いに割り切った関係なのだからと、空気のように無視していた。彼女の存在自体を不快に感じることはなかった。それが竹史のこれまでの生き方に照らし合わせるといかに不思議な事であるかを彼は長らく気づきもしなかった。しかし、真弓が控えめながらも彼に関わろうと腕を伸ばしてきたときには、途端にハリネズミが針を逆立てるようにして抵抗し、ひたすらひとりで深いところへ潜っていこうとした。



 結婚以来、竹史の心のどこかで、子供をもうけねばならないのではないかという脅迫めいた思いがずっとくすぶっていた。婿入りを望んだ川野の義両親はもちろんのこと、小嗣の両親だって、孫の誕生を待ち望んでいることは明らかだった。真弓は子供が欲しいんやろうか? 俺は? わからなかった。竹史には兄弟がおらず、親戚の子供と親しくした記憶もない。子供という存在自体、想像の範囲外だった。鋭い感覚を常に鈍らせようとしている竹史にとって、その興味が色鮮やかな夢となって迫ってくることはなかった。かろうじて、新規なものに対する技術者としての興味があった。


 子供を作る。


 血を繋いでいくことに対する祐介の強いこだわりを思い知らされたあの日、そして彼に拒絶されたあの日以来、その言葉は絶望の象徴となっていた。しかし、今、その言葉を心の中で繰り返すうちに、苦さのなかに甘さの入り混じる思いが去来することに気づいた。俺は子供を産めない。でも、真弓となら、俺にだって子供を作れるかもしれない。その希望のようなむずがゆさが、手段と目的をはき違えた、捻じれた感情であることはわかっていた。しかし、いつしか竹史はその考えに固執するようになった。


 子供を作る。


 しかし、何度も何度も考え、想像してみたが、普通に作ることは無理だった。本当に俺に子供を作るなんち、できるんやろか? インターネットで調べ、手がないわけではないようだとわかった。手立ての可能性を見つけても、その先に進む決心はつかない。決して口に出すことはなく、悩んでいる素振りも見せなかったが、竹史は悩み続け、結婚から一年が過ぎたころ、意を決して真弓に持ちかけた。


「子供、作らんといけんのやねえん?」


 真弓は目を丸くした。

「子供? 誰の?」

 竹史は無表情のまま答える。

「真弓と俺の」

「作ってくれるん?」

「作ることに異議はねえ。ただ、どうやったら作れるん? 俺は真弓を抱けん」


 真弓は不妊治療と人工授精について竹史に説明した。看護師である真弓は竹史が調べた以上の具体的な情報を持っていた。竹史は無言のままそれを聞き、真弓が一緒に受診してくれるかと問うと、うなずいた。



 半年間の人工授精で真弓は妊娠した。重いつわりに苦しむこともなく、おおむね妊娠は順調に進んだ。次第に大きくなっていく腹を真弓は不思議な気持ちでなでさすった。子供を持てるなんて思ってもいなかった。結婚直前に、竹史がちらりと子供について言及したことがあったが、まさか、本当に子供を作ることに協力してくれるとは思ってもいなかったのだ。あの人は、無愛想でおべんちゃらのひとつも言えない人やけど、一度口にしたことは必ずやるんやな。いつもたなびいては消えていった行き場のない思いも、実はきちんと受け止められていたのかもしれない。そう考えると、少しだけ温かな気持ちになった。


 竹史は真弓の腹のせり出す力強さをおぞましく感じていた。あれが腹を膨らませたのか。腹の中ではいったいどんなことが起きて、こうなっちょるんやろう、想像すると息苦しくなりそうだった。


 九月十四日の朝、男の子が生まれた。しゃっくりのように、かぼそく引きつれた泣き声をあげる、小さないのち。赤ん坊というのは、もっとこう、耳に突き刺さるほど、けたたましく泣きわめくものではなかったのか。竹史ですら不安になるほど、赤ん坊はひそやかに切なげに泣いた。


*     *     *


 真弓を驚愕させ戸惑わせたのは、竹史が分娩の立ち会い希望を表明した時だった。


「あのう、竹史、わかっとるん? 分娩って、感動的というより、むしろ衝撃的よ? 私も病院で介助に立ち会ってきたけど、産婦さんの凄まじい様子に最初は逃げ出したくなっとったよ。自分には絶対出産なんか無理っち思うくらいやったもん。止めといたほうが良くない?」


 竹史は、一言、止めん、と答えた。まだ実感が持てなかったのだ。自分が孕ませたということに。このままでは、訳が分からぬまま父親になり、自分を「お父さん」と呼ぶ見知らぬ存在におののかねばならなくなる。なにか、圧倒的な力で自分をねじ伏せてくれるよすがが欲しかった。


 九月十三日の午後にふたりは病院に向かった。苦悶の表情を浮かべ耐える真弓をいつもより青ざめた顔をして竹史が見ていた。手を握ってくれるわけではない、いたわりの言葉をかけてくれるわけでもない。しかし、真弓が陣痛に耐えているあいだ、無言で腰をさすり続けてくれた。体に触れられたのはほぼ初めてのことだった。事前に学んだお仕着せのサポートではあったものの、この妊娠出産に竹史が責務を感じているということが真弓には伝わってきた。それを感じられただけで無性に嬉しかった。七時間かけて男の子が生まれた。


 口にも表情にも出さなかったが、出産は竹史にとって想像以上に恐ろしいものだった。こらえようとしてももれる、身を引きちぎられるような産婦のうめき声、荒々しいいきみ、苦痛に血管が浮き上がった汗まみれの顔、生々しいにおい。こんな壮絶で醜怪でおどろおどろしいことをさも素晴らしいおとぎ話のように皆やりたがるということが理解できなかった。見えない秘所からせり出すように分娩された肉塊。取り上げられたその白けた塊を見せられたとき、ちらりと、ヘキサンに落としたシリコンゴムみてえやなと思った。それが小さな産声を上げると、我知らず鳥肌が立つのを感じた。


*     *     *


 「竹史――父ちゃん、抱っこしてみてよ」


 病室に戻ってきた真弓に促され、おずおずと手を出す。ふやけた肉塊だったものはすっかり清められ、乾き、白いおくるみに包まれて息づいていた。その生き物を腕に乗せられると、しっかりとした重みが腕に伝わった。想像以上の生の重み。竹史はたまらなく恐ろしくなった。


 動揺する竹史の腕の中で赤ん坊がもぞもぞと手を動めかす。小さな袖の先から五本の指がのぞいている。それにはびっくりするほど小さな爪が生えそろっていた。こんなに小せえのに、本当に人間なんやな。まだ、自分が真弓とともに人間を創り出したという実感は持てなかったものの、その小さな爪は脳裏に焼き付き、いつまでも消えなかった。


 章はよく泣く子供だった。でもその泣き声はいつまでたってもかぼそく、それを聞くたびに竹史は心もとない気持ちになった。しばしば、ぐずる章を抱いて住宅街を散歩したり、ドライブしたりして、寝かしつけた。寝かしつけは真弓よりうまいほどだった。


 それなのに、よく馴れていた野鳥のヒナがある日突然人を恐れはじめるように、物心がついた章は竹史を怖がるようになった。父ちゃん、もっと笑ってあげてよ、真弓が苦笑してそう言うものの、竹史には笑い方が分からない。章は真弓の陰に隠れて、竹史をそっとのぞき見るようになった。竹史がそちらに目をやると、アサリの水管のようにひゅっと隠れる。真弓が竹史のそばに行かせようとしても真弓のスカートやズボンにしがみつき、引きはがそうとすると、怯えて、あの引きつれたような声で泣いた。まあ、嫌っちゅうなら、仕方なかろう。自分を曲げようとせん頑固なところは、俺にそっくりや。竹史は心の中で苦笑し、それ以上気にすることもなく、章がしたいようにさせていた。


 章の誕生から三年後、くるみが生まれた。章よりはるかに元気のよいくるみの世話に真弓が追われるようになると、次第に章が竹史を見る時間が長くなった。

 竹史は章が媚びるような目で見つめてきても、決して子ども扱いしない。理念があったわけではない、単に子供をどう扱ったらよいのかわからなかっただけだ。初めは戸惑い、怯えていた章だったが、自分から働きかければ、その答えだけが過不足なく返ってくることを理解すると、すこしずつ、父ちゃんに近づくようになった。

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