小さな爪ー2

 当日は浅田夫妻の仲介のもと喫茶店で会うことになった。その前日から腹が痛くなった。嫌なことの前に腹痛が起きるのは子供のころから幾度となく繰り返していたので、我慢して店に向かった。


 時間ぴったりに喫茶店に入ると、浅田氏がほっとした顔で席から立ち上がり、こっちこっちと手招きした。


小嗣こつぎくん、遅かったな。なんかあったかと思って心配しとったんで。まま、こちらに座って。はい、こちらが川野真弓さん。F市民病院の看護師さんです。真弓ちゃん、こちらは小嗣こつぎ竹史さん、エヌピーセミコンダクター社の研究開発部でばりばり活躍しちょる人よ」


 とりあえず頭を下げた。相変わらず腹が痛かったが、座っていればまだ我慢できた。浅田氏がしきりに自分の紹介をしてくれている。口を開かなくて済むのはありがたかった。浅田氏と浅田夫人は、真弓についても竹史に一所懸命アピールしてくれていたようだが、正直なところ、まったく頭に入らなかった。竹史が覚えているのは、真弓が微笑むでもなく、にらむでもなく、興味深げな顔でこちらをしげしげと観察していたことだ。浅田夫妻の話の合間に竹史はときおり目を上げたが、そのたび、真弓と目が合った。目が合うと、丸い目をさらに見開いて、まじまじと見つめられた。


 浅田夫妻はひととおりの紹介を終えると、それじゃあ、ふたりで街歩きでもしてきなさいと、追い立てるように真弓と竹史を店から出した。



 立ちあがって外に出ると腹の痛みが一段と増した。思わず顔をしかめる。しばらく黙って痛みをこらえていると、隣でのんびりとした声がした。


「あのう、どこに行きますか? 行きたいところ、ありますか?」


 何と言って断り、帰らせてもらえばよいのか、とっさに頭が回らなかった。答えずにいると、再びまったりとした声が言う。


「じゃあ、まず、展望塔に行きましょう。一度登ってみたかったんです」


 断りの言葉を考えるのも億劫だった。ふたりで展望塔に行き、真弓は眺めに目を輝かせていたようだが、竹史は強まったり弱まったりする腹痛を気づかれないようにやり過ごすので精いっぱいだった。


「次は市場に行ってみましょう」


 そう言ってずんずんと歩きながら、真弓は料理が大好きなこと、最近は忙しいけれど、休みの日には手間のかかる料理を作って食べるのが好きなんだと楽し気にしゃべった。こちらの口を開かせようとするでもなく、ひとりで好きに語る真弓に、竹史はほっとしていた。そのあと、近くのデパートをぶらぶらし、デパートから出たところにあった小さな映画館に入った。腹をぐっと圧迫するような不快な痛みはおさまらない。映画館の椅子にぐったりと体を預けながら、この腹痛はいつものとはちょっと違うようだと感じ始めた。


 映画館から出ると、あたりはうす暗くなっていた。


「――良ければ、軽く晩御飯食べて帰りませんか? 知り合いがやっている、小さなお店があるんです」


 真弓はそう言いながら迷いない足取りで歩く。そのやや後ろを竹史はただついて行く。


 真弓はこじんまりとしたレストランに入った。レストランの椅子に腰かけると、竹史は腹の痛みがかなり強くなっているのを実感した。肩でゆっくりと浅い息を繰り返す。注文を済ませると、真弓がこちらに向き直った。じっと見ている。今しかないと思った。目を伏せると、言った。


「あの、申し訳ないですが――」


 その瞬間、腹を殴られたような強い鈍痛に息が詰まった。真弓はしばらく口をつぐんでいたが、軽くため息をつくと、さらりと言う。


「ああ、そうですよねえ。こんながさつな女ですもん、ふつう、断りますよね」


 腹痛はさらに激しくなった。真弓の言葉の意味も、もう深く考えていられなかった。まずい、これは限界かもしれん。うつむき、両手を握り締めて、痛みのうねりが落ち着くのを待った。冷や汗が流れ落ちる。これを乗り越えたら、すぐに帰らせてもらおう、とにかく、おさまれ、おさまれ。


「――あのう?」


 遠慮がちな声がした。自分が顔を上げたのかどうか、竹史には記憶がない。再び、今度は焦ったような声がした。


「もしもし、気分悪いんですか?」

 首を振る。

「どこか痛いですか?」

 首を振る。

「トイレ行きますか?」

 首を振る。


 真弓が椅子を引いて立ち上がり、どこかへ急ぎ足で向かう音がした。うるさい、すこしだけ放っておいてくれ、おさまるから、でも、それは声にならなかった。すぐに真弓の気配が戻ってきた。


「お店の奥で休ませてもらえるそうです。少し横にならせてもらいましょう。良くなったら、家まで送るか、病院に行くかしましょう」


 その声と同時に肩に手が置かれた。不快な気分が込み上げた。


「立てますか?」


 竹史は肩に置かれた手から抜け出すように椅子から立ち上がったが、足と腹に力が入らず、背を丸めてテーブルの角をつかんだ。テーブルに両肘と頭を付けるようにして浅い呼吸を繰り返していると、抱きかかえるように背中に腕が回された。虫唾が走り、思わず、渾身の力を込めて腕を振り払った。あ、という声とドスンと倒れる音が聞こえるのと同時に、竹史はたまらず、しゃがみこんだ。振り払われた真弓はしりもちをついたようだった。でもすぐに竹史の耳元で真弓の声がした。


小嗣こつぎさん、ごめんなさい、驚かせたんですね。それじゃあ、私の肩につかまってください、それで何とか歩いてもらって、奥に行きましょう」


 そう言うと、真弓は注意深く竹史を立ち上がらせ、竹史の左腕を自分の左肩に乗せるようにして、竹史をゆっくりと歩かせた。


 店の奥で十分ほど横にならせてもらったが、痛みが治まる気配はなかった。横で様子を見ていた真弓が言った。


小嗣こつぎさん、病院行きましょう。熱も出てるようやし、これはすぐに検査したほうが良い腹痛だと思います。タクシー呼びますよ。いいですね?」


 真弓は竹史を連れて当番病院に急いだ。検査の結果、急性虫垂炎で、すぐに手術が行われた。ひどく化膿しており、腹膜炎の一歩手前だった。



 手術後、病室で目覚めた竹史は青くなった。レストランの奥で休憩させてもらう交渉をしてもらい、看病してもらい、病院に搬送してもらうという、すべてを初対面の川野真弓にやってもらったのか。しかも、レストランでは突き飛ばして転倒させてしまった。思い出すと吐きそうになった。お見合いに無理やり連れだした上司や浅田氏を恨み、よく知りもしない人間の体に触れてきた真弓を恨み、お見合いを断らなかった自分、あの程度の腹痛を我慢できなかった自分をののしった。


 手術後二日目に真弓と浅田氏、それに会社の上司が見舞いに来た。体調の悪いときに申し訳なかったと浅田氏は謝り、それでも看護師の真弓が一緒だったから適切な判断が下せたのだと真弓を持ち上げるのを忘れなかった。上司は真弓が連絡をくれて、入院に必要な手続きもほぼやってくれたのだと教えてくれた。退院したら、きちんとお礼をするんだな、そう言って豪快に笑った。真弓は口を開かず、ただ人のよさそうな笑みを浮かべいた。


 退院するとすぐに真弓に連絡を取り、一週間後、喫茶店で再び会った。


「今回は多大なご迷惑をおかけして申し訳ありません。何もかもお世話になりました。ありがとうございます」


 竹史の改まった口調に、真弓が照れたように笑う。


「いえ、大したことはしていないので。もう体は大丈夫ですか?」

「おかげさまで」


 竹史は目を伏せ、そして続けた。


「――これだけお世話になっておきながら申し訳ないのですが、僕はあなたを幸せにできません。僕があなたを愛することはありえず、だからやはりあなたと結婚するわけにはいきません」


 真弓の返事はない。しばらくうつむいていた竹史は仕方なく顔を上げる。真弓がどこかあどけないまなざしで竹史を真っ向から見つめる。竹史の目の奥をのぞき込んだあと、口を開いた。


小嗣こつぎさん、ひとさまにこれ以上幸せにしてもらわなくても、私は十分人生を謳歌しています。だけど、社会で波風立てずに生きていくためには、どうやら結婚という事実が必要そうなんです。あなただって、曲がりなりにもお見合いの席にまでいらっしゃったということは、名目上の結婚に何かメリットがあるんじゃないんですか? お互いにビジネスと割り切って結婚してみませんか?」


 その言葉を聞きながら竹史は嫌な予感に体をこわばらせた。でも、表情には何も現れなかった。


 竹史のそんな様子を見ていた真弓がさらに言った。


「――とんちんかんなことを言っていたらすみません。でも、あの、もしも、女性がお嫌いだというなら、私はそれでもかまわないんです。女性として愛してもらうことなんて求めません。でも、この世に女性が存在することに耐えられないほどじゃないんでしょ? それなら、既婚という旗を世間に振りかざして見せるために、同じ家で暮らし、同じテーブルで一緒にご飯を食べる、それだけのための同居人がいてもいいんじゃないですか――」


 いくらあがこうとも、麻酔でぼんやりしているあいだに、歯は抜かれてしまったのだ。かつて歯があった場所には大きな穴が開き、それはいまや、はるか昔からそこにあったかのように、しっくりと馴染んでいる。


 竹史は川野真弓の求婚を受け入れ、ふたりは結婚した。真弓は二人姉妹の姉で、川野の両親は遠慮がちにではあったが婿入りを求めた。竹史は一人っ子だったが、小嗣こつぎの家を継ぐ必要はないと両親から告げられ、小嗣こつぎ竹史から川野竹史になった。

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