12.小さな爪
小さな爪ー1
福岡の大学に進学すると、竹史は少しずつ心の痛みを和らげるすべを身に着けた。
怪我を負った鳥はただ耐える。鳴くことも叫ぶこともなく、ただ目を閉じてうずくまる。いくどか目にした傷ついた鳥たちは、その苦しみを誰かにもらすこともなく、誰かにぶつけることもなかった。運命を従容と受け入れ、命が尽きるその瞬間まで、ひとりで、ひたすら与えられた生を生きた。その姿を竹史は目に焼き付け、路標にしようとした。
そうはいっても、ふとした折に祐介のことを思い出して打ちのめされるのはたまらなく辛かった。でも、祐介を忘れて楽になることは望まず、そもそも不可能だった。感度を下げればいいんじゃねえやろか、それが彼の出した結論だった。外からの刺激に対する感度を落としてしまえば、心に広がる波紋も小さくなるだろう。そうすれば心を制御しやすくなる。
そうすることで、彼は普通の生活を送れるようになった。少なくとも、彼自身はそう考えていた。周囲はそうは受け取らなかった。著しく無愛想で鈍いやつ。成績だけは良いのに、何を考えているのかさっぱりわからない薄気味悪いやつ。
材料工学系の大学院を修了した竹史は福岡にある半導体メーカーの研究開発部に就職した。製品製造の低コスト化に向けた改善や製造ラインの管理を行う部署に配属され、大学時代の知識に加え、さらに日進月歩の専門知識を常に学ぶことを要求された。
就職氷河期の狭き門を突破した新人に求められたのは、即戦力になる高い実力と多種多様な業務をこなせる器用さと超人的な体力だった。無愛想で無口な竹史だったが、仕事においては優秀だった。もともと、もくもくとひとりっきりで仕事をするのは得意だった。一日中論文を検索しては読み、情報収集することも苦にはならなかったし、クリーンルームにひとりっきりで閉じこもって気の抜けない実験を繰り返すこともお手の物だった。同僚たちは扱いにくそうに遠巻きにしていたものの、上司には重宝された。厄介な仕事を任されることも多かったが、何も言わずにこなす竹史の評価は徐々に上がっていった。
就職して五年経った頃、上司から見合い話が降ってきた。即座に断った。翌年、再び見合いを持ちかけられた。結婚する気はないとこれもはっきりと断った。それなのに、さらに翌年、一度だけ会ってもらいたい人がおるんやけどと、頼み込まれた。これまで同様に断ろうとしたが、今回は上司が粘った。
「相手は取引先の浅田氏が懇意にしている家の娘さんで、娘さんの両親にいい人をと頼み込まれているらしいんよ。義理を欠くわけにはいかんけん、浅田氏も頭をかかえちょる。なにより、娘さん、真弓ちゃんっていって、俺も知っとるんやけど、これがいい子なんよ。明るくって頼りがいがあってな。年回りも雰囲気も、おまえとぴったり合いそうな感じなんよ」
なんし放っちょいてもらえんのやろう。心の感度を落とすよう努めていたにもかかわらず、言い表しがたい不快感がもやもやと広がっていく。
奥歯がくうっと収縮するように痛んだ気がした。知らぬ間にできた虫歯だろうか。もう抜くしかないですね、そんな声が頭の中に響く。奥歯に念入りに麻酔をかけられ、かん、かん、かんと叩かれ、痛いですかとおざなりにたずねられる。
「浅田氏からも、小嗣の堅実な雰囲気が彼女と合いそうやからって頭を下げられちょる。ああ、見合いっちゅう堅苦しいもんじゃなくて、ちょっとした顔合わせみたいなもんらしいわ。
おまえ誰か付き合っとる人はおるん? おらん? え? 結婚する気はないって? いやいや、まあ、そう言わんで。だって、ずっと独身ってわけにはいかんやろ? うん? 何言っちょるか、おまえの仕事っぷりは大したもんで、期待しちょる。そろそろここらで身を固めてしもうたら、おまえだってしっかり腰を据えて仕事に没頭できると思うで」
麻酔が十分効いたことが確認できるや、歯と骨の間に躊躇なくへーベルが差し込まれる。金属のひやりとした感覚に身をすくめると同時に、めりめりと歯が骨から引きはがされる。痛みはない。でも、普段感じることのない不穏な圧迫感に心拍数が跳ね上がる。
「本当に、いい子なんよ。看護師さんなんやけどな、病院に来る患者さんたち、子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、みんなに慕われちょる。あの子もなあ、おまえと同じで、仕事の虫なんじゃ。仕事が好きすぎて、気づいたらあの歳よ。顔だって、美人って感じの造作じゃねえけど、実に愛嬌のある、あったけえ顔をしとるよ。ああ、体格だけはなあ……。おまえより、ちいっと背が高くて、体重もあるかな。でも、おまえ、そんなこと、気にせんやろ? な? それに頼りがいがあるっていうのは、男だろうと女だろうと、伴侶として大きな魅力や。
おまえ、精神力は強いけど、ひとりで生活するんはいろいろときついこともあろう? ふたりで支え合うっちゅうんは、思っとるより、そうとう、精神的に楽になるもんや。こればかりはやってみらんと実感できんと思うよ。
やけんさ、騙されたと思って一度会ってみてよ。そのうえで、もしもダメだって思ったら、はっきりと断ってくれて構わんけん。言いにくかったら、俺に言ってくれ、こっちからうまいこと断るけん」
はがれきれない歯を鉗子でつかんで強引に骨から引きはがす。やはり痛みはない。むしろ、抜歯のあとにぐいぐいと押し込まれるガーゼに強烈な違和感を感じる。
「何事も経験や。やってみんとわからんことなんて、この世界には山ほどあるぞ。まず、会うだけ、会ってみてよ」
なんしこげんことになっちょるん。いつ終わるんやろう。あと何回繰り返されるんやろう。なんし放っちょいてもらえんのやろう。
会議室に呼ばれて、延々と小一時間かけて説得され、ついに折れた。竹史が三十一歳の春のことだった。
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