ハシボソガラスー2

「矢取りしてくる」


 竹史の声に、はっと我に返る。しばらく、勉強に集中していて、祐介は弓道のことはすっかり忘れていた。いや、勉強が八割、高原のことが二割だ。どちらも、著しく心をじらし、かき乱した。久しぶりの静謐な世界は祐介に微醺びくんをもたらした。


「ゆう……」


 矢取りのおわった竹史がおそるおそる声をかける。


「どげ? 見ちょるだけじゃのうて、なんか言って?」

「――悪くねえんじゃねえ?」


 その言葉に竹史が不満げな顔をした。


「悪くねえんなら、もっと安定してたっとろう?」

「おまえ、むらがあるんじゃ。それでも、昔に比べりゃ、格段に的中率もあがっとろう?」

「……」


 むっとして口をとがらせる竹史を見て、祐介は声を立てて笑った。こいつの中身は中坊の時から全然変わっとらん。なんし、こげんいつまでも子供っぽいんじゃ。久しぶりに朗らかな気分になった。


「今年の春からインターハイにかけてのおまえの成長ぶりはすごかったぞ。でもな、俺はやっぱり、たけの射は、的中率よりもその美しさにあるっち思っちょる。俺はおまえの射が、なにより好きじゃ」



 竹史が再び行射を始めた。高校三年生の男子にしては小さい、百六十センチ足らずの身長、体重は五十キロもないのだろう。その小さな体が弓を引き絞り、ひと一倍伸び合い、矢を放つ。二射目に体から何かが揺らめき上るように見えた。あの濃密な気配だ。あの、息詰まるような美の気配。そして三射目。冷気を放つような凛とした射。これじゃ、たけの神髄はこれじゃ。恍惚とした気分で見とれた。的中。もう一射。手足をかじかませる冬の空気のなかで、竹史の射が祐介を眩惑する。


 竹史がすっと振り向いた


「ゆう、ゆうも引いて」

 祐介は苦笑した。

「いや、弓の準備もしちょらんし、こん恰好じゃなあ……」


 竹史は引き下がらなかった。


「弓はそこに準備しちょる。かけは――ねえけん、これ、使って。――もう、ここで弓を引くこともねえんじゃろ? 最後に、引いて見して」


 竹史の射の余韻が残っていた。竹史は跪坐きざをしてかけを外し、無言で祐介に差し出す。祐介は仕方ねえなあと思いつつ、学ランを脱いだ。ためらったのち竹史からかけを受け取り、それから弓を手に取ると、何度か素引きする。


 構える。ゆっくりと打ち起こし、引き分けていく。気負いのない、ゆったりとした会を保ち、離れ。鋭い弓返りをハシバミ色の瞳が見つめる。場を満たす余情をゆっくりと味わってから、乙矢おとやをつがえる。再び引き絞る。堂々たる会。そして離れ、残心。


 的を見ながら祐介は竹史の射を思い起こす。あげん美しい射を俺も手に入れたかった。一度でいいから味わってみたかった。決して届かなかったものを思うと、喉の奥に何かがつかえたように苦しくなった。あいつはどげん気持ちであの行射をしちょるんじゃろ。細かな計算で射の調整に腐心し、頭の中に並べた無数のステップを粛々と実行していくのではなく、ただただ自然と体が動くに任せ、的に呼ばれるがまま矢を送り出しちょるんやろう。圧倒的なセンス。なんちゅう、不公平なことか――



「ゆう」


 射位から動けずにいる祐介に小さな声が呼びかける。


「ゆう、俺、おまえのことが好きじゃ」


 その言葉が瞬時に祐介を現実に引き戻した。振り返る。竹史が真剣な顔で祐介を見ている。


「おい、今、なんち言った?」


 竹史が真顔で繰り返す。


「俺、おまえのことが好きじゃ」


 背筋にひやりとしたものを感じた。弓とかけを竹史に押し付けながら、あえて茶化すように大声で言う。


「そりゃ、そうじゃろな、俺んことが嫌いやったら、三年間、一緒に稽古なんちできんかったやろけえ――」


 目をそらした竹史が表情を消し、それでもはっきりと繰り返す。


「違う。おまえが高原を好きなんと同じように、おまえのことが好きなんじゃ」

「……」

「おまえが高原を好きなんは知っちょる。俺んこと、好きにならんっち、わかっちょる」


 しばらく口ごもる。


「ひとつだけ、お願いがある。一度、抱きしめてもらえん?」


 祐介は目を見開いた。竹史が無表情のまま祐介の足元を見ている。祐介の視線が揺れる。声がかすれる。


「おい、たけ――それ、本気で言っちょんの? 嘘やろ? なあ?」


 竹史は顔を上げ、低く小さな声できっぱりと言う。


「嘘なんか、言っちょらん」


 祐介は竹史をにらんだ。にらんだまま、一歩、足を引いた。


「ゆう、お願いじゃけん――」


 その小さな声に祐介がはじかれたように声をあげる。


「――き、気持ちわりいわ! おまえ、俺んこと、ずっとそげな目で見ちょったん?! あれだけ面倒見てやったねえ、お、俺んこと、そげな気色わりい目で見ちょったん? お、おまえ、最低じゃのう! よう、そげな裏切りができるのう!」


 言葉の奔流でむずがゆい奇妙な焦りを押し流そうとする。


 竹史が呆然と繰り返す。


「気持ち悪い? 俺、気持ちわりいん? 最低? 俺、おまえを裏切ったん?」


 祐介はにらみつけたまま口を開かない。竹史が口元を歪める。一歩、祐介に向かって足を踏み出そうとする。


「ゆう……」

「寄んな!」


 祐介の剣幕に、竹史が体を震わせる。


「もう、お前の顔、見とうねえ。しゃべりとうねえ。俺の目の前に来んな」


 そう言い捨てると、祐介は竹史の横をすり抜け、出て行ていこうとした。すれ違いざまに竹史がつぶやいた。


「俺が、男じゃからなん? 子供、産めんからなん?」


 祐介は一瞬顔を上げたが、そのまま弓道場を出ていった。竹史はしばらく石になったかのように立ちつくしていたが、うなだれると、のろのろと矢取りに向かった。


 ことん、と音がした。射場の屋根の上にとまったハシボソガラスが口に木の実をくわえ、屋根の上で転がしては拾いに行き、また転がしている。ことん、カツカツカツ……ことん、カツカツカツ……ことん、カツカツカツ……



 その日、竹史は授業に出なかった。

小嗣こつぎは欠席か?」

 先生の問いかけに、竹史の隣の席の大鶴が答える。

「朝は来ちょったけど、具合わりいけえっち、帰りました」

「そうか、もうセンター試験まであと一か月やけん、無理は禁物やな。みんなも体調管理には十分気を付けよや。本番で寝込んだら、泣いても泣き切れんぞ」


 それから十二月いっぱい、竹史は学校に来なかった。一月以降は自宅学習希望を提出し、卒業するまで、もう一度も学校には行かなかった。卒業式にも出てこなかった。

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