11.ハシボソガラス

ハシボソガラスー1

 インターハイ出場と入賞という快挙を遂げたのち、祐介、竹史、そして高原たち三年生は弓道部から引退した。それでも、そのあと竹史は自主的に朝練を続けていた。まだ誰もいない早朝、二十射ほど射こみ、体から弓の感覚が失われるのを食いとどめようとしていた。それは祐介の気配を消さないためでもあった。


 祐介はどんなことがあろうと、竹史の射を軽んじることはなかった。たとえ竹史が高原といがみ合い、高原をかばう祐介とのあいだに冷ややかな空気が流れた後でも、行射を始めると、竹史は祐介の生真面目な視線を感じた。弓を引き続けていれば、祐介が自分を見てくれるのではないか、手を添え、射癖を正してくれるのではないか、そんなすがるような思いがあった。


 しかし、秋以降、祐介が朝練に来ることはなかった。あいつ、弓道止めるんやろか、まさかな、不安がよぎるたびに射は乱れた。


 冬が近づくにつれめっきり静かになり、緊張感の増した教室で、竹史は祐介の背中を追った。国立大の医学部を志望する祐介と理工学部を志望する竹史とでは受ける授業や補講のクラスが異なっていたが、それでも朝、昼休み、夕方に教室で顔を合わせる機会があった。そのはずだった。それなのに、祐介の姿を教室で見かける機会は少なかった。昼休みはほぼ見かけない。夕方もあっという間に教室から出ていく。



「ゆう……」


 ある朝、登校してきた祐介に、つい、声をかけてしまった。


「なんじゃ?」


 祐介が竹史を見る。竹史は正面から見据えられて、何も言えなくなる。口ごもる竹史に祐介がかすかに眉根を寄せて言葉を重ねる。


「なんか用事あるん、たけ?」

「きゅ、弓道、もうやらんの? 練習、もうせんの?」


 祐介はためいきをついた。


「弓道を諦めたくはねえけど、今は勉強が忙しいんじゃ。うちん親父が死んだん、おまえも知っちょろう? 大学、失敗するわけにはいかんのじゃ。俺んあとには彩もおるし」


 せめて昼飯くらい、一緒に食えんの、そう言いたかったが、祐介の険しい表情に言葉を飲んだ。でも、その日の夕方、補講を受けたあと、帰宅しようとした竹史の目の前を高原と祐介がふたりで歩いていくのが見えた。忙しくても、あいつとは一緒におるんや。もやもやとした気持ちになった。


 気にしはじめると、祐介が高原とふたりで過ごしている様子がたびたび目についた。もちろん、一緒に勉強していることが多いのだろうけれど、それにしても、そんな時間があるなら、三十分ほどの弓道の朝練なんて、問題なかろう、胸の中で悪態をついた。つまり、俺と弓道の練習をするより、あいつと勉強しちょるほうがいいわけ? 本当に勉強しよるん? 違うこと、しちょらん? そう思い始めると動揺し、しばらく落ち着けなかった。


 朝晩の風がめっきり冷たさを増し始めた十一月、高原は文系クラスの教室から、理系クラスの祐介と竹史のいる教室まで、しょっちゅうやってくるようになった。祐介と話し、祐介の背中や肩に触れ、お弁当を差し入れたり、一緒に食べたり、ときには、周囲にいた者たちにまで手作りの小さなお菓子を配ったりしていた。いつもふたりの周りには明るい雰囲気が満ちていて、それは受験の重苦しさにうんざりしていたクラスメイト達を和ませ、竹史にふたりを正視できなくさせた。授業はそのころほぼ受験対策の自習学習となっていた。年が明ければ、学校での自習か自宅学習かの選択制となる。このまま、もう祐介に会えなくなるかもしれない、そう思うと、腹の底がひんやりと冷え、手足が重くなっていくのを感じた。


 耐えられなくなった。


「ゆう、ちょっといい?」


 十二月中旬に入った木曜日、教室の窓から差し込む日差しがねっとりと絡みつくような温かな昼休みだった。竹史は出て行こうとした祐介を引き留めた。


「なん?」


 祐介が動きを止め、竹史の顔を見すえる。とたんに焦る。


「明日さ、朝、弓道場に来てくれん?」

「は? 弓道場? なしか?」

「もう一度だけ、朝練、見てもらいたい。ずっとひとりやと、不安になる」


 祐介は眉をひそめたが、静かに見つめてくる竹史の真剣なまなざしに何も言えなくなり、わかったと返事をした。


 翌朝七時、ひんやりとまとわりつく朝もやのなか、祐介が弓道場にやってきた。すでに竹史は弓につるを張り、着替えて待っていた。


「おはよう」

眠たそうな、不機嫌な顔で祐介が挨拶した。

「おはよう、来てくれてありがとう」

竹史が答える。祐介は隅にかばんを置くと、久しぶりの弓道場に目を細めた。

「やってみ」

「ん」


 竹史が射位に立ち、弓を構える。中学三年生の、初めて会ったときに比べると、この三年間で彼の射は別人のように力強くなった。この夏には祐介とともに全国大会に出場し、団体戦および個人戦で入賞まで果たしたのだから、それも当然だろう。祐介の射とは違う、どこか拭い去れない線の細さが今でも竹史の射にはあった。しかし、その危うさがときにぐるりと反転し、見るものの心を貫くほどの鋭さに昇華する。毎回ではない、でも、何かを契機として現れる、ぞっとするような美に、祐介は改めて驚嘆し、すぐにその気配にからめとられた。


 インターハイ前の朝練の日々がよみがえる。この美はおそらく竹史の射への集中度に関係しているのだろう。二年半かけてもそれを制御することはできなかった。不意に現れ不意に消えてしまう気まぐれな美。だからこそ祐介は竹史が行射を始めると目が離せなくなるのだった。

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