第7話 四日目


       第四章  ラパ・マケ島 四日目


  四日目の朝になった。

 午前七時過ぎ。眩しい朝日の中を、僕らと美月さんの四人は、美月さんがチャーターした船でアンダーソン島へ向かった。

船を操縦したのは、アリキだ。

 十時前に、船はアンダーソン島の小さな入り江に到着した。入り江は静かで、申し分ないほど美しかった。透明な水と白く輝く砂。どこからか、澄んだ鳥の声も聞こえる。

 鳥の声を追うと、濃い緑に覆われた森が見えた。白と緑のコントラストが、夢のようにきれいだ。


「どこがゴミの島なんだよ。まるで天国じゃん」

 首藤がはしゃいだ声を上げた。

三時間後に船に戻る約束をし、僕らは島へ探索に向かった。海はターコイズ色に輝いていた。眩しい太陽の光が降り注ぎ、それなのに、遠くの空には黒い雲が見える。雲は海面に影を落とし、雲と海の間が灰色に烟っているのがわかる。スコールが起きているのだろう。

 静かだった。聞こえてくるのは、波と風の音だけだ。妙に現実感がなかった。巨人につくられた水槽に入れられ、作り物の海を見ているみたいな。想定外の自然の雄大さとか驚異を見せつけられて、かえって現実感がない。

 船が後ろに小さくなった頃、砂浜は大きくカーブを描いて曲がり、そこからは独特の生臭い臭いがした。白い砂の上に、黒っぽい大きな塊が見えた。それが、パズルを混ぜ合わせたように一瞬崩れ、それからザザッと大きな音を立てて動いた。鳥だ。かたまって群れていた鳥が、いっせいに飛び立ったのだ。

 僕らはただ呆然と、飛び立つ鳥を見つめていた。何もかも、自分の記憶にないものばかりで、感覚で測ることができない。

 鳥が飛び立ってみると、様々な物が目に入ってきた。砂浜に打ち上げられたゴミの数々だ。その数は途方もない。

「ひでえな」

 首藤が呟いた。やはり、ここは汚染された島なのだ。入り江近くのビーチとは潮の向きが違うのだろう。


「どこまで行く?」

 ゴミだらけの砂浜を歩きたくなかった。僕は美月さんを振り返った。

「ほら、あそこに森がせり出しているでしょう? あの陰辺りがポイントだと思うんだけど」

 数メートル先に、木々が砂浜に迫っている場所が見えた。暗い影を、白い砂浜に落としている。僕らは足元のプラゴミの破片を避けながら歩いて行った。

 今日も、美月さんだけ荷物が多かった。それを僕ら男三人で手分けして運んでいる。テントを担当していた首藤が、森の手前で杭を立てた。

 ギラギラと焼け付くような太陽は、遮る物のない砂浜で容赦がなかった。ほんの三時間という短い滞在だが、テントを持ってきたのは正解だ。

 テントが出来上がると、それぞれ荷物を中に入れ、僕らは探索に出かけた。

 二手に分かれて探索を始める。

 首藤は美月さんと組みたがったが、美月さん自身の鶴の一声で、僕が美月さんと組むと決まった。嬉しかった。また、美月さんと二人きりになれるのだ。安曇も賛成した。首藤と美月さんをこれ以上近寄らせたくないという意地悪な気持ちが、安曇の拗ねた目に現れている。

「安曇たちは森へ入って。わたしたちは、海に潜る」

 シュノーケリング用の道具をかざして、美月さんは晴れやかに言い放つ。僕は焦った。潜水の経験なんかない。しかも、正直に言えば、泳ぎは大の苦手なのだ。

「だいじょうぶよ。潜るったって、深い場所には行かないわ。足の届く場所で、海の中を覗いてみるだけよ」

 しぶしぶ安曇にしたがっていく首藤を見送ってから、僕は美月さんと歩き出した。おそらく美月さんは、この島のシミュレーションも済ませているのだろう。足取りに迷いはなかった。

 

 砂の熱さが、サンダル越しに足裏に伝わってくる。喉も渇く。何度もペットボトルの水を飲み、ボトルは空になった。だが、捨てるわけにはいかない。リュックに戻し、また歩き出す。

 美月さんが目指したのは、珊瑚礁が集まっている場所だった。水の中に目をやると、表面がぶつぶつした塊が、いくつも連なっているのが見えた。そのまわりに、蛇のような海藻がゆらゆらと揺れている。海の水は、透明で美しかった。もし、浮遊するプラゴミの破片がなかったら、天国のように感じただろう。

「さあ、入るわよ」

 波打ち際で、美月さんは声を上げ、さっと着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。オレンジ色のビキニ姿になった彼女は、眩しすぎる。

「ほら、峡くんも脱いで」

 といっても、美月さんと違い、水着を着てきたわけではなかった。とりあえず、Tシャツを脱いで、上半身だけ裸になる。

「ま、いいわ。濡れてもすぐに渇くだろうし」

 シュノーケリング用のフィンを素早く履き、マスクをかぶる。

「あ、ライフジャケットは?」

「そんなもの、いらない」

 先にザブンと、美月さんが水の中に入った。オレンジ色が揺らめきながら遠のいていく。

 意を決して、僕はフィンとマスクを手に取った。膝以上に深い場所へは絶対に行かない。そう心に誓いながら。

 

 膝下あたりまでの深さがある場所まで行った。水はぬるかった。目の前に、青い物が飛び込んできた。、魚だった。何匹もいる。図鑑でしか見た憶えのないめずらしい模様をしている。

 興味をそそられると同時に、恐怖心は薄らいでいった。ゆっくりと深く水の中に体を浸していった。別の魚の群れが、リボンを流すみたいに泳いでいく。そしてまた別の群れが、後を追う。

 圧巻だった。僕は夢中で海の中を見つめ続けた。珊瑚のまわりを揺れる海藻から、遊んでるように顔を出す魚たち。キラキラと水を反射して輝く太陽。プラゴミの破片は、海の表面ほどではなかった。軽いせいで、上に集まるのかもしれない。

 クラゲだ。そう思って身を起こしそうになったとき、遠くで、叫び声が上がり、僕は弾かれたみたいに体を起こした。


「峡くーーーん」

 美月さんの声だ。

 どこだ?

 僕は辺りを見回した。

 いない。

「きょう-――ッ」

ふたたび声がした。

十メートルほど沖へ行った先で、美月さんが浮かんだり沈んだりしている。

「助けてえぇええ」

 たしかにそう叫んでいる。

 パニックを起こしそうになった。瞬間思考が止まってしまう。恐怖で脚が動かない。

「キッー」

「ウーッ」

 と、美月さんの声は途切れがちになる。

 思い切って僕は泳ぎ始めた。泳ぎにはまったく自信がないが、突っ立って眺めているわけにはいかない。美月さんが溺れてしまう。

 闇雲に水を掻いて前へ進んだ。もう必死だった。ともかく、美月さんを助けなくては。

 三メートルも進んだときだろうか。

 水を飲んでしまった僕は、ゲホゲホとむせながら、水面に顔を出した。ああ、もうダメだ。僕はここで死ぬんだ。そう思った。遠い、遠い南の島で、海の藻屑になるんだ。

 そのとき、僕の腰がギュッと掴まれた。

「わああぁ」

「峡くん!」

 美月さんだった。

「助けて! 峡くん!」

 耳元で美月さんが叫びながら、僕に体重をかけてくる。二人して抱き合いながら、沈んだ。そこから闇雲に足を掻いて水面を目指す。

「助けて!」

 美月さんは叫び、僕の背中にしがみついた。

 その拍子に、僕の体は勢いよく沈み込んだ。まさか、嘘だろ。美月さんの腕が僕の両肩を凄まじい力で押している。足掻く美月さんの脚が、僕の背中を蹴る。

 それでも僕は美月さんの体を離さなかった。無我夢中で足を掻き、水面を目指す。

 ふいに体が軽くなったと思った瞬間、美月さんの足先が勢いよく僕の目の前を浮上していった。白い足の裏がするりと上へ逃げていく。

 

 待って美月さん。

 美月さんが上へ向かったのではなかった。僕が下降しているのだ。

 そう気づいたとき、僕は必死になった。死にたくない。絶対に嫌だ。

 ああ、もう限界だ。

 そう諦めかけたとき、僕の頭はふいに水面に出た。

「グゥワッウ」

 水を吐いて、また沈みそうになり、もう一度懸命に足掻いたとき、美月さんの腕に掴まれた。見ると、彼女は顔を水面から半分ほど出して、波に揉まれている。

 だいじょうぶだ、助かったんだよと言いたいが、声にならない。水を飲んでは吐き、必死で手を動かして陸地に向かった。

 

 足が立つ場所へ来たとき、ようやく自分が生きていると実感した。這いながら砂浜を目指す。右足のふくらはぎが攣ったようだ。き

りきりと痛む。

 熱い砂の上に倒れ込んだとき、ようやく助かったと実感した。その喜びで、目尻に涙が滲んでくる。


「ありがとう、峡くん」

 横で仰向けになった美月さんが呟いた。彼女の二の腕が、ぴったりと僕の二の腕に付いている。その感触の柔らかさが、ゆっくりと僕の体に染み込んでくる。

「また、わたし、峡くんのおかげで命拾いしちゃった」

 返事をする元気がなく、僕はただ首を振った。そして、目を閉じた。心地良い疲れが、僕の全身を包んでいた。

 生きているんだ。そう思った。ずっと僕は生きていた。それなのに、気づいていなかったんだ。世界がこんなに素晴らしいと。

「ねえ、峡くん」

 美月さんが体を起こした。

「怖かった?」

 うんと、僕は素直に呟いた。

「でも、冷静だったと思う」

「まさか。ただ必死だっただけだよ。運が良かったんだ」

「死ぬかもしれないって、思った?」

「思ったよ」

「だけど、死ななかった。峡くんの判断が良かったおかげだわ」

 咄嗟の判断になんか自信はない。いつだって、その場をどうにかやり過ごして生きてきたような気がする。

 目の前に美月さんの胸元があった。オレンジ色のビキニの胸の谷間に、砂と汗が滲んでいる。小さなほくろが、鎖骨の下にある。

 触れたい。そう思ったとき、彼女が僕の目を覗き込みながら囁いた。

「峡くん。君、もしかして、ほんとの自分を隠してない?」

「え」

 眩しさに目を細めながら、僕は聞き返した。

「安曇や首藤くんに従っているけど、ほんとはもっと強い人なんじゃない?」

「そんなこと」

 胸の奥が、じんわり熱くなった。ほんとうの自分。もっと強い自分。

「安曇はあの調子で我が道を行くタイプ。首藤くんは、押しが強い。峡くんはあの二人に押され気味でおとなしいけど、ほんとは」

 そして美月さんは、瞳を輝かせた。

「三人のリーダーシップを取るべきなのは、峡くんだと思う」

「まさか」

 そんなふうに自分を考えたことはなかった。自分はいつだって、人の後ろからついていくタイプ。自分から何かをしようとした経験もないし、ましてや人を引っ張っていくなんて無理だと思っていた。

「君たち三人の中で、誰が頼れるかって――。わたしなら、迷わず峡くんを選ぶな」

 大きな目を見開いて、美月さんが僕の目を覗き込んだ。そして彼女は、キスをしかねないほど僕に顔を近づける。


「思うんだけど。峡くんなら、一人でスケイルマンを見つけられる気がする」

「え」

「安曇や首藤くんに頼らなくたって、峡くんならできる気がする」

 僕は美月さんの大きな目を見つめ返した。

 もし、スケイルマンを見つけられたとしても、日本へ戻ったとき、賞賛されるのは安曇だろう。なんといっても、サークル内で安曇はUMAマニアとして一目置かれている存在だ。安曇の冒険譚なら、みんな耳を貸すだろう。

 首藤は、あの調子で、ラパ・マケ島での十日間をおもしろおかしく話し、みんなの注目を集めるだろう。

 それに比べて僕は。

 安曇に引っ張られて、なんの考えもなく、遠い南太平洋まで付いて行った男だと、きっと誰もがそう思っているはずだ。断り切れなくて参加したのだと、そう思っている部員もいるかもしれない。

 もし、安曇や首藤がいなかったら。

 悪魔のささやきが、ふと僕の心に目覚めた。僕に向けられる美月さんの熱い瞳が、そうささやいている。

「ね、二人でスケイルマンを見つけない?」

 美月さんが、上目がちに僕を見つめた。

「――どういうこと?」

「何もあの二人がいなくたって、わたしたちで力を合わせれば、スケイルマンを見つけて、いい動画が撮れるわ」

「そんな」

 可能かもしれない。実際、動画を地道に撮り続けてきたのは僕だ。首藤は掛け声ばかりだし、安曇は理屈ばかり言っている。

「ねえ、峡くんのスマホに、洞窟へ行ったときの動画が入っているんでしょ」

「そうだけど」

「それをわたしたち二人の物にしない?」

 美月さんの目が光る。

 そのとき、

「おおーーい」

と、僕らを呼ぶ声がした。



「あっ、安曇たちだ」

 弾んだ声で美月さんが、手を振った。僕は機械じかけの人形のように、首を動かす。

 安曇と首藤が、こちらに向かって来るのが視界に入った。二人は全速力で走っているように見える。首藤が先を走り、数メートル後ろに安曇がいる。

「どうしたの?」

 走り寄りながら、美月さんが叫ぶ。

「ないんだ! 船が消えてる」

「どういうことだよ」

「知らねえよ!」

 そう言ってから、首藤はあー、疲れたと叫んで砂の上にしゃがみこんだ。

「ちゃんと説明して」

 美月さんもしゃがみこみ、首藤に顔を近づける。

「だから、船の姿が見当たらないんだよ、俺たちを連れて帰る船の姿が!」

 四人で船を降りた場所に戻ってみると、たしかに、船の姿はなかった。船が泊っていたはずの沖には、静かな波が揺れているばかり。

 僕らは呆然と、熱い砂浜に立ち尽くした。青く澄んだ空の下に、水平線がくっきりと見える。だが、ただ海があるだけで、船影はどこにもない。

「ち、ちょっとこれ、どういうこと?」

 さすがの美月さんも、狼狽を隠せなかった。

「こっちが訊きたいよ。美月、アリキにはちゃんと説明してあるんだろうな」

 安曇は苛立ちを、美月さんにぶつけた。

「当たり前よ」

「だったら、なんで帰っちゃうんだよ」

「アリキには、僕らを連れて戻ると約束したんだよね?」

 僕は美月さんに顔を向けた。

「そういう約束でお金を払ってあるわ」

「じゃ、何か、問題が起きたんだよ。だから、ラパ・マケ島へ戻らなきゃならなくなったんだろう。ヘレやポエに何かあったのかもしれない」

「そうだよな」

 息を整えながら、首藤が頷く。

「とにかく、アリキに連絡をしてみるわ」

 美月さんが、スマホを取り出して、何やら怒鳴った。それから、向こうの話を聞いているのか、ただ頷いている。

 会話を終えた美月さんは、フウーッと息を吐いてから、僕らに顔を戻した。

「奥さんのヘレに何かあったみたい。体の具合が悪いとかなんとか言ってた。興奮してて、最後はよく聞き取れなかったけど」

「で、いつ、迎えに来てくれんの?」

 首藤が訊いた。

「明日の朝にはって」

「は?」

 首藤が目を剥き、安曇がふざけんなと吐き捨てる。

「だったら、誰か代わりの人を寄越してくれないと。連絡もなく突然いなくなるなんて、ちょっとあんまりだよ」

 僕も言い募った。

「それも、無人島に人を置きっぱなしにするか?」

 首藤が怒鳴り、美月さんに訊いた。。

「ほかに、この島まで船を出してくれそうな人、呼べないのか?」

 うーんと唸ってから、美月さんは、大きな目で何度も瞬きを繰り返した。

「リアムさんに聞いてみる」

「俺もメアリーさんに連絡を取ってみるよ」

 安曇がポケットからスマホを取り出した。すると美月さんは安曇の手を制した。

「待って。安曇のスマホ、充電がたっぷりされてるでしょう?」

「ああ」

 安曇が頷く。

「もし、明日の朝まで誰も来てくれなかった場合、スマホの充電が切れるのはまずいわ。わたしのスマホだけを使ったほうがいいと思う。だって、もしもよ、もしも、明日になっても迎えが来ない場合、本格的な救助を要請する必要があるわ。この辺りの島の救急要請の管轄は、ニュージーランド警察なの。ラパ・マケ島に警察はないのよ。ニュージーランド警察に連絡しなくちゃならなくなった場合、ラパ・マケ島へ連絡するよりずっと電池を食うわ。だから、電池は大切に取っておかないと」

「それはそうだな」

 首藤が賛成した。

 その間、美月さんはリアムさんと会話を続けた。早口になっている。彼女も焦っているのだ。

 会話は長く続いた。そして、しばらく沈黙が続く。どうしたの?と目で訊くと、美月さんはスマホから顔を一旦離し、

「リアムさんが、別の電話で、メアリーさんに訊いてくれてる」

と言った。

 リアムさんの電話を待つ間は、ひどく長く感じられた。じっとりと体中に汗が滲んでくる。暑いせいだけじゃなかった。不安で息苦しい。

 会話を終えると、美月さんは僕らに顔を向けた。その表情から、別の漁師を見つけられなかったのがわかる。

「来られる漁師はいないそうよ。リアムさんに言わせると、ラパ・マケ島の漁師は漁師といっても、本業の傍らに小舟で沿岸の小さな魚を獲っているだけらしくて」

「本業ってなんだよ。あの島でほかになんの仕事があるんだよ」

安曇が美月さんに食ってかかった。安曇の苛立ちは理解できるが、この事態を招いたのは、美月さんじゃない。

「運搬の仕事に就いてるらしいわ。貨物船の荷下ろしよ」

 僕たちがラパ・マケ島へ向かったとき乗ったのも、貨物船だった。ガンビエ諸島には、自給自足ができる島はないから、物資を運ぶ貨物船は必要不可欠だ。貨物船は、島の男たちの雇用もまかなっているのだ。

「ほかの漁師たちは、今、貨物船に乗って別の島にいるみたい。彼らがラパ・マケ島へ戻るのは、早くても」


 僕ら三人は、息を詰めた。

「早くても、明日の朝だって」

「――そんな」

 安曇が呻いた。

「じゃ、どうすんだよ!」

「落ち着けよ安曇」

と、首藤が言う。

「落ち着いてなんかいられないよ。こんな無人島に置き去りにされたんだぞ。島の連中は、俺たちを見殺しにするつもりかよ」

「見殺しなんて」

 怯えた視線を美月さんが返し、僕ら三人を見回した。

「リアムさんが言うには、海が荒れると、この島で一晩嵐が過ぎ去るのを待つ漁師がいるらしいわ。それほどめずらしいことじゃないそうよ。だから、明日まで待ったらどうかって」

「冗談じゃないよ」

 安曇が怒鳴った。

「ここには危険な生物はいないそうよ。野宿しても凍死する気温じゃないし」

「笑える」

 首藤が喉を鳴らした。

「危険な生物がいないってことは、UMAもいないんじゃない? じゃあ、俺たちは何のためにこの無人島へやって来たんだよ」

 男三人の視線が美月さんに集まった。

「島民のUMAの目撃情報は、確かな話よ」

大きな目で、彼女は僕たちを見つめ返す。

「島民って誰だよ」

 安曇が目を剥いた。

「それは――」

「誰だよ!」

「ニックよ。ニックがあの島なら確実だろうって」

 彼女はしどろもどろに返事をした。彼女ほど聡明な人が、あんないい加減な男の情報を信じたとは。しかも、船を操縦してきたのは、ニック同様、ボロを纏ったアリキときている。


「ともかく、前を見ようぜ」

 沈黙を破ったのは、首藤だった。

「明日の朝までだ。明日の朝になれば迎えが来るのはわかってるんだからさ」

 そう言って、首藤はリュックをまさぐり始めた。

「飲み水と食料を、みんな出し合おうぜ」

「そうね」

 美月さんもリュックを肩から下ろす。

 僕も安曇も、二人に倣い、リュックに顔を突っ込んだ。

 ペットボトルの水が、全部で七本。ビスケットが二箱。栄養ドリンクが五本。シリアル・バーが十二本。

 まあまあの量だった。明日の朝まではなんとかなるだろう。

「問題は、夜だな」

 首藤が空を仰いで、呟いた。真っ青な空が、何か非現実的な空間を見せられているかのように、大きく美しく広がっている。

 実際、現実の出来事とは思えなかった。僕らは南太平洋の無人島に取り残されている。

 それが実感として湧き上がってこなかった。



 UMA探しどころではなくなってしまった。

 夜が来る前に、雨風をしのげる場所を確保しなくてはならない。

 水平線には、不穏な灰色をした雲が盛り上がっていた。あと数時間で、ひどい嵐になるかもしれない。

 

 砂浜で夜を過ごすよりも、森の中へ入ったほうがいいと全員の意見が一致した。

 森といっても、ラパ・マケ島とは違い、背の高い木は見当たらなかった。膝の高さに満たない背丈の低い草が、地を這うようにして密集しているだけだ。

 陽の出ているうちに、できる限り、島を巡ってみることになった。

 

 はじめは、四人ばらばらと歩いていたが、いつのまにか手をつなげるほどに固まっていた。目の前に広がるただただ荒涼とした風景が、僕らを不安にさせる。

 どこまで行っても、岩と草ばかりだった。時折、人のゲップのような嫌な声がした。そんなときは、白い大きな鳥が、ちょんちょんと歩いていた。そして、バサリと音を立てて翼を広げたと思うと、勢いよく飛び立つ。

 誰も、感嘆の声すら上げなかった。まるで、鳥たちに、僕たちの存在を気づかれたくないかのように、ひっそりと進む。

 異物だった。

 僕たち四人は砂浜に漂着した鮮やかなオレンジ色やピンク色のフロートや漁業用の網と同じく、ここに存在してはいけない異物だと思えた。

 大きな丘をぐるりと回ると、ふいに、海が目前に迫っていた。丘が波で侵食されて、海へと道筋を作ったのだろう。

 大きな波が、そこから僕らを飲み込みそうで、思わず足が震えた。

 足早に丘を登り、ふたたび草地を進む。

 いくらか気持ちに余裕が出てきた。どうやらこの島は、同じような風景が続いていると思われる。いままでどおりであれば、そう危険な場所はないだろう。

首藤が水を飲むために立ち止まったので、僕は首藤を待った。安曇と美月さんが先へ進む。

 ゴクゴクと水を喉に流し込んでから、首藤は前を行く二人を見た。

「寝る場所が見つかったら、おまえ、協力してくれよな」

「何をだよ」

「美月さんと二人っきりになりたいんだよ」

「ああ、そういうこと」

 微かな嫉妬心が沸き起こった。美月さんと二人きりになりたい気持ちは、僕にもある。だが、こんな事態になってそれどころじゃないだろう。

「日本に帰るまでに、二人の距離を縮めたいんだよなあ」

 表情は自信たっぷりだ。

 悔しくなって、嫌味の一つも言いたくなる。

「お前、女の子のことしか考えてないな」

「悪い?」

 そのとき、わあっという安曇の叫び声がした。

 僕と首藤ははじかれたように、走り出した。

 安曇と美月さんは、数メートル先を歩いていたはずだ。ところが二人の姿が見えない。

 僕は焦った。首藤も顔色を失っている。

 わずかに、地面は下っていた。ツンツンと伸びた草に足を取られながら、走る。

 走った先に、草の間から蹲った美月さんの背中が見えた。

「わあああっ」

 美月さんの前に、巨大な穴が口を開けていた。幅は三メートルほど、深さは、十メートルはあるだろうか、大地を大きな鎌で一息にえぐったような楕円形の穴だ。ごつごつとした露わな岩肌に、まばらに短い草が生えている。風は底に向かって吹き、砂埃を舞い上げている。

「安曇!」

 美月さんが蹲っていたのは、安曇の腕を掴んでいるからだった。安曇は大きな穴の壁面にへばりついていた。どうにか足場となる岩の突起に片足を乗せ、片手は美月さんに掴まり、もう一方の手は岩肌を掴んでいる。


「助けてえ!」

 安曇は必死の形相だ。

「手を離すな!」

 首藤が地面に這いつくばって、安曇の手を掴んだ。その拍子に、美月さんが前のめりにふらつく。

「危ない!」

 僕は美月さんを支えた。そしてドンッと彼女の体を押しのける。地面に倒れ込んだ彼女は、ともかくも安全な場所に横たわった。

「峡! 俺の足を掴め! 引っ張ってくれ!」

 夢中で首藤の足を引っ張った。

 徐々に、首藤の体が後ろへ下がる。といっても、二人の男は重い。僅かに、ほんの少しずつしか引っ張れない。

「もう少しだ、頑張れ!」

 首藤が声を上げる。僕は渾身の力を込めた。すでに限界が近い気もするが、とにかく引っ張るしかない。

 徐々に、安曇の頭部が穴から現れてきた。

「せえーので上げるぞ!」

 首藤の掛け声を合図に、最後の力を振り絞った。腕が千切れそうだ。

「はああーっ」

 安曇の全身が穴から飛び出した。安曇は草地を這い、一刻を争うように穴から遠ざかった。


「安曇、大丈夫か!」

 安曇に駆け寄ると、青い顔をしたまま、天を仰いで微かに頷く。

 はあはあと息を切らしながら、首藤も近寄ってきた。

「間一髪だった」

「ありがと」

 安曇の声は震え、今にも泣きそうな表情だ。無理もない。こんな穴に落ちたら、上がってくるのは至難の業だ。下手をすると、死んでいたかもしれない。

 おそらく、地盤の沈下でできた古い穴なのだろう。気をつけないと、こんな穴がいたるところに存在するかもしれない。

 恐怖がふたたび蘇ったのか、安曇はガタガタと震え始めた。

 僕は安曇の横にしゃがみこんで、安曇の手を握った。汗で濡れた掌が熱い。

「ほら、俺に捕まって」

 後ろで首藤が美月さんに声をかけていた。振り向くと、首藤が美月さんの肩を抱いている。美月さんは首藤にもたれかかった。どうやらショックで立ち上がれないようだ。

 首藤がしゃがみこんで、美月さんに自分の背中を示した。観念したように、美月さんは首藤の背中におぶさった。

「慎重に進もう」

 首藤の表情には、自信がみなぎっていた。茶々を入れる気にはなれなかった。首藤の腕力がなかったら、安曇は穴の底へ落ちていただろうから。

 僕らはゆっくりと歩き出した。美月さんを背負った首藤のすぐ後ろを、安曇に肩を貸した僕が進む。

 安曇は真っ青な顔色で僕の手を握り締めている。



 地面にできた穴は、それからも何度も見かけた。穴の大きさは大小様々だった。

 おそらく島の半分は歩き回っただろう。登ったり下ったりを繰り返し、僕らは船を降りた海岸の反対側までやって来た。白い大きな鳥が、頭上を何度も行き来した。若干、植生が変化したと思われた。いままで見てきた草の葉よりも、いくぶん幅広の葉を持つ草が生い茂る。葉の上に、殻を持ったナメクジのような生き物を見つけた。


「ここだけに生殖するカタツムリだわ」

 美月さんが、博識ぶりを披露した。彼女が事前に集めた知識によれば、この島は固有種の宝庫なのだという。依然、彼女は首藤の背中にいたが、元気を取り戻している。

 歩き始めて三時間ほど経っただろうか。丘から下り、海岸線に下りたとき、ようやく、波に削られた横穴を見つけることができた。小さいが洞窟と言える。海側から眺めると、岩と岩が折り重なっているせいで、海岸からは距離があった。おかげで水は来ていない。あまり安全な場所とは思えなかったが、今夜一晩だけなら安心して雨風を防げそうだ。

 それぞれの場所を見つけて、僕らは湿った地面に倒れ込んだ。傾いた陽がうっすらと差し込んでいる。

 

 誰も口を開かなかった。とりわけ安曇は、穴に落ちかけた衝撃からまだ覚め切らないのか、みんなに背を向け丸くなっている。

 ごそごそと、首藤がリュックサックから、ビスケットの箱を取り出した。封を開け、全員に配る。マンガレバの町で買った甘いだけのビスケットだったが、疲れた体に糖分が有難かった。

 はじめ、食欲がないと断った美月さんも、首藤に無理矢理勧められて食べるうちに、笑顔が戻ってきた。それでも、首藤に肩を預けたままだが。

 吹いてくる風は、冷たくなっていた。嵐になるかもしれない。岩の間から見える空は、ほぼ濃い灰色になっている。

「ちょっと外の様子を見てくる」

 首藤が立ち上がった。美月さんの手を引いている。

 安曇が振り返って、不審そうな目を向けた。

「雨になるかもしれないよ」

 そう言った僕に、首藤が意味有りげな視線を送ってきた。ああ、そういうこと。美月さんと二人きりになりたいのだ。

 首藤の視線を無視して、僕は寝転がった。勝手にしてくれ。

 二人が行ってしまうと、洞窟の中は妙に広く感じられた。風の音が大きくなっている。

 安曇は背を向けたままだ。

 妙に不安になって、僕は安曇に声をかけた。

「だいじょうぶ?」

 安曇は返事をしない。もう、震えてはいないが、まだショックから立ち直れないのか。

「ラパ・マケ島に戻ったら、医者に看てもらうといいよ。あの島にも、医者らしき人はいるみたいだから」

 メアリーさんが教えてくれた。高齢ではあるが、医師免許を持った男が島に住んでいると。

 ふいに、安曇が体を起こした。


「なあ、峡。二人で別の場所に移らないか?」

「え。どういうこと?」

「ここじゃない場所で、夜を明かさないかって言ってるんだよ」

「なんでだよ。ここより安全そうな場所なんか見つからない――」

 安曇が激しく首を振った。

「ここがいちばん危険なんだよ。ここにいたら、殺されちゃうよ」

「殺される?」

 突飛な言葉が飛び出してきて、僕は面食らった。


「何言ってんだよ、安曇」

「美月だよ。美月といっしょにいたら、また」

「美月さん?」

 冗談を言っているのではなさそうだ。安曇の表情は険しい。

「穴に落とされたんだ」

「え」

「美月に押されたんだ。だから、足を滑らせた」

「まさか」

「本当なんだ。美月は僕に殺意を抱いてるんだ」

「そんな」

 俄かに信じられなかった。美月さんが安曇に殺意を? いったい何のために。

「美月は俺がいたからラパ・マケ島へやって来たんだ。美月の目的は、俺たちの手柄の横取りだよ。そのために邪魔な俺を殺すのも厭わない。それがあのときはっきりわかった」

「――まさか」

「信じられない? だけどな、考えてもみろよ。俺の同級生の美月が、俺たちがやって来た南太平洋の孤島にいた。こんな偶然があると思うか? ラパ・マケは沖縄やハワイじゃないんだぞ。知り合いと偶然出くわす場所じゃない」

 たしかに、偶然にしては出来すぎている。

「あいつはスケイルマン発見に、自分の名を刻みたいんだよ。ライバルは消せってことだ」

「そこまで思うかな」

 美しい美月さんから、とてもそんな野心は読み取れない。

「きれいな顔してさ、俺たちを油断させて、その実、俺たちより用意周到で大胆なんだ。実際、穴に向かって押されるまで、僕も信じてた」

 安曇は言い募る。

「考えすぎだよ」

 どう考えても、非現実的だ。スケイルマン発見を手柄にしたくて、殺人を犯す?

「なんでアンダーソン島でと思ってるんだろ?」

「ああ」

「この島なら、ラパ・マケ島よりも更に殺人が発覚しにくいんじゃないか? ここは無人島なんだから」

 安曇が落ちそうになった穴が蘇った。世界の果てにぽっかり開いたような大きな穴。安曇が言うように、あの場所で美月さんが故意に安曇を落としても、その証拠は残らない。事故として処理されるだろう。その上、現場検証をする警察官は、ニュージーランドから呼び寄せなくてはならない。早くても丸一日はかかる。

「じゃあ安曇は、美月さんがその目的のために、わざわざ船をチャーターして、僕らを誘ったっていうのか」

「そうとしか考えられない。ニックがこの島でUMAを見たって? 嘘に決まってる。この島にUMAがいないと、美月はわかっていて俺たちを誘ったんだ」

 今日僕らは、島のほとんどを歩き回った。たしかに、UMAの片鱗すら――もちろん、UMAの存在を信じるとしてだが、見つけられなかった。

「こんな目にあわせやがって」

 安曇は洞窟の入口を睨んだ。

「おかしいと思ったんだ。船が勝手に戻っちゃうなんてな」

「だって、それは、アリキの奥さんが急病で」

「そんなの、美月が言ってるだけだろ?」

 だが、僕らは電話で話す美月さんを見ている。美月さんの慌てぶりも、演技とは思えないが。

 といっても、スマホから相手の声が聞こえたわけじゃない。リアムさんとの会話も、美月さんから伝え聞いたのだ。

「俺は、美月が仕組んだと思ってる。アリキと示し合わせて、一旦島を離れて、明日迎えに来るように言ったんだ。一日ここで過ごして、俺を殺【や】るチャンスを伺ったんだ。殺人を実行するには、俺たち四人だけになれる場所が必要だった。なぜならね、美月が俺を殺しても、おまえや首藤が疑わないと思ってるからだ」

「どうして」

「おまえたちはすっかり美月にたぶらかされてるからだよ」

 安曇は拳を握り締め、呻く。

「美月の思い通りにはさせない」

 ゴゥッと不気味な音が響き、僕と安曇は思わず洞窟の入口を見た。雨が激しく降り出していた。不気味な音は、雷のようだ。

 パシャパシャと水が跳ねる音が響いて、洞窟の入口に、首藤と美月さんが姿を現した。


「ひどい、スコール」

 美月さんが、叫びながら走ってきた。すぐ後ろを、首藤も駆けてくる。

 気まずい表情で僕は二人を迎えた。安曇はふたたび背を向けて横になってしまった。

「稲妻で空が明るいくらいよ」

 リュックからタオルを取り出した美月さんは、楽しげな表情だが、たった今安曇から聞いた話の後だ。美月さんの雨に濡れた美しい横顔が、貼り付けられた仮面に思える。

「なに?」

 見つめる僕を、美月さんが振り返った。

 なんでもないと応えたとき、美月さんの背後で僕を見つめる首藤に気づいた。

 美月さんに反して、首藤は昏い目をしている。思惑どおり美月さんと二人きりの時間を過ごしてハッピーなはずの首藤は、ちっとも楽しそうじゃない。ぷいと背を向けて、乱暴に着ていたパーカーをリュックの上に投げる。

「どうしたんだよ、首藤」

「疲れた、寝るよ」

 仰向けに横になると、首藤は目を閉じてしまった。

 ふたたびゴウッという雷の音が響き、洞窟の中が瞬間明るくなる。

「キャッ、怖い」

 美月さんが叫んだが、返事をする者はなかった。

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