第9話 六日目 1

 昨日、船はすっかり陽の落ちたラパ・マケ島へ無事に帰還した。僕らはそれぞれ宿泊場所へ戻った。僕ら三人はメアリーさんの家へ、美月さんはリアムさんの家へ。


 目が覚めたとき、まだ体が揺れている気がした。

 もう少し眠りたい。そう思って目を閉じたとき、

「おい、起きろ!」

 肩を揺すぶられて、僕ははっきりと目を覚ました。

 顔の前に首藤がいた。


「大変だ! 安曇が帰ってないんだ」

「え」

 僕は安曇のベッドを見た。真夜中に見たときと同じように、ベッドの上でタオルケットが丸まっている。枕元に、安曇のスマホが転がっていた。

「昨日の夜、ベッドを抜け出したんだよ。それから帰って来てないみたいなんだ」

「探したのか?」

 首藤は頷く。

「この家の周りにはいなかった。一人で遠くに行くとは思えないし」

「安曇がベッドを抜け出したのは何時だったんだ?」

「十時過ぎだと思う」

 安曇のスマホをつまみ上げ、画面を見た。電源が切れている。

「警察に言うべきかな。だけど、この島に警察はいないらしいし」

 この島への渡航を決めたとき、大まかな島の行政は調べてきた。ラパ・マケ島はいまだイギリス領で、島の治安はニュージーランド警察にまかされているのだ。

「メアリーさんに役場に行ってもらって、ニュージーランドの警察へ知らせたほうがいいんじゃ」

「とりあえず、もう少し二人して手分けして探してみようぜ。案外、その辺りの海岸で、眠ってるのかもしれない」

 考えられなくもなかった。昨日は疲れていたのだ。ちょっと頭を冷やすために散歩に出たつもりが、そのままどこかで寝込んでしまったのかもしれない。

 そうであってくれと、僕は心底願った。昨晩、胸に去来したどす黒い思いが悔やまれる。

 

 首藤と宿を出ようとしたとき、メアリーさんと出くわした。事情を説明すると、島の人たちに訊いて回ってくれると協力を申し出てくれた。

 首藤と僕は、島に来た初日に、三人で歩いた海岸線に向かった。今朝はあの日と違い、晴れた空が広がり、見晴らしがいい。

「あーーずみぃ」

「おーい、返事しろ」

 僕と首藤は安曇の名を叫びながら歩き回ったが、どこにも安曇の姿は見つけられなかった。

「美月さんのところへ行ってみよう」

「そうだな。美月さんに呼び出されたのかもしれない」

 呼び出されて、そのまま……。安曇の訴えを全面的に信じたわけじゃなかったが、実際に安曇がいなくなってみると、不安が募る。


 僕らは来た道を戻った。

 美月さんが泊まっているリアムさんの家に着くと、庭越しに笑い声が聞こえてきた。リアムさんが大きな音量でテレビを見ているようだ。聞き取れない早口の英語で、誰かが騒ぎ立てている。

 庭を周り、リビングの窓から、僕らは顔を覗かせた。美月さんの姿はなかった。

 バスローブを羽織ったリアムさんは、驚いて僕らを見た。

「あの、美月さんは」

「美月なら、散歩に出かけてるよ」

 安曇と一緒なのだろうか。

 そう思ったとき、背後から美月さんの声が上がった。

「おはよう」

 美月さんは、ジョギングウエアに身を包み、タオルで首筋の汗を拭いながら、僕らに近づいてきた。

「どうしたの?」

 振り返った僕らの表情が硬かったせいだろう。美月さんの表情が曇る。

「安曇がいないんだ」

 僕は叫んだ。

「昨日の夜から帰ってないんだよ」

 美月さんは、心底驚いているようだった。もしこれが演技だとしたら、彼女はビジネスの世界に進むより、女優になったほうがいい。

「わたしも探しに行くわ」

 ポンッとタオルを庭のガーデンチェアに投げて、美月さんは僕らに付いてきた。

「首藤くんは、山の中を探して。峡くんは左の海岸線を見てきて」

 美月さんはてきぱきと指図を始めた。

「二十分後。二十分後に、船着場で待ち合わせましょう」

 僕ら三人は、リアムさんの家を出て、海岸に向かう道を走った。


 海岸に出たところで、僕は美月さんと分かれた。首藤も山へ入っていく。

 僕は安曇の名を呼びながら歩いた。

 歩くうちに、不安が迫ってきた。こんなことをしている場合じゃないんじゃないか。メアリーさんに頼んで、島の役場から、ニュージーランドの警察に知らせるべきなんじゃないか。これだけ探して見つからないとなると、事故に遭った可能性も否定できない。海岸線で足を滑らせて、そのまま波に飲まれてしまったか、僕らが知らない洞窟に落ちてしまったか。

 二十分は瞬く間に過ぎた。船着場へ行くと、美月さんと首藤がやって来た。


「いない」

 首藤は顔を歪めて呟いた。

「いないわ」

 美月さんも首を振る。

「こうなったら、島の役場に行きましょう。島の人に捜索を協力してもらうのよ。それでも見つからなかったら、ニュージーランドの警察に連絡してもらいましょう」

 首藤が頷き、僕も同意した。

 役場は山の中腹にある。

 歩き出したとき、首藤が遅れた。振り返ると、立ち止まっている。

「急ごうよ」

 僕が声をかけると、首藤は思いつめた表情で美月さんを見た。

「昨日の夜、安曇と会ってないよな?」

「わたしが? どうして?」

 振り返った美月さんが、目を瞠る。それから探るように僕と首藤を見た。

「いや」

 首藤は口籠った。まさか、安曇が美月さんに殺されそうだと思っていたとは言えないのだろう。

「安曇は夜中に出かけて行ったんだ。もし、誰かに会いに行ったとして、相手は美月さんしか考えられないから」

「アンダーソン島から帰ってきて、すごく疲れてたのよ。すぐに寝ちゃったわ」

 僕ら三人はお互いを探るように見つめ合った。首藤の目が、依然不審な色をしている。

「わたし、何か疑われてるわけ?」

 憮然とした表情で、美月さんが言い放った。


「美月さん」

 僕は思い切って声を上げた。

「美月さん、僕らに何か隠してることがあるんじゃない?」

 彼女のきれいな弓形の眉が上がった。

「安曇とのことで、何か僕らに。だっておかしいだろ? 中学のときの同級生が偶然こんな絶海の孤島で再会するなんて」

「そうだよな」

 首藤も言った。

「おかしくたって何だって、偶然は偶然なんだから」

 呆れたふうに僕らを見、彼女はため息をつく。

「わたしが安曇をこの島で待っていたと言うわけ?」

「そうとしか考えられないよ」

 首藤が美月さんを見据える。美月さんは微笑んだ。そして、甘えるような口調で続ける。

「首藤くん、ひどい。わたしが嘘をついていたって言うの?」

 首藤が瞬間言葉に詰まる。

「二人共何か思い違いをしてる。わたしが安曇に用があったとして、どうしてこんな遠くまで来なきゃならないの? 日本で済ませられない何がこの島でできるっていうの?」

「や、やめてくれよ、美月さん」

 首藤が喘ぐ。

「俺たちは君に引っ掻き回された。君は俺たち三人をバラバラにしたんだ。目的はわからない。だけど、君が僕らをバラバラにしたのは間違いない」

美月さんが、僕を振り返った。

「峡くん、なんとか言って」

 きっと、首藤のほうが正しいのだ。それなのに、僕はこれ以上美月さんを糾弾できない。

「峡! なんとか言えよ!」

 首藤が喚く。

 そのとき、海岸線の反対側の海岸線のほうへ、島民が数人駆けていくのが見えた。何やら叫びながら走っていく。

「何かあったのかしら」

 眺めている間にも、走っていく人の数は増えていった。僕らは顔を見合わせた。嫌な予感がする。もしかして、安曇が見つかったのでは? 変わり果てた姿で……。

 僕は走り出した。首藤と美月さんも続く。

 島民たちは、僕らが初日に探索に出かけた崖地のほうへ向かっているようだ。

 

 崖地に近づくにつれて、人の数は増した。三十人ほど集まっているだろうか。島民は全部で五十人足らずだから、半分以上の人間が集まっていることになる。

 崖地の大きな岩の手前で、人の輪ができていた。輪の中心から、泣き叫ぶ女の声がした。常軌を逸したような、嫌な叫び声だ。

 輪をかいくぐって前へ出た。

 泣き叫んでいたのは、アリキの妻、ヘレだった。全身を震わせながら、声を上げている。

 岩の間に、男が横たわっていた。頭が血だらけで顔の半分がえぐれて潰れている。

「いや!」

 美月さんが、両手で顔を覆い、しゃがみこんだ。

 男は、アリキだった。この崖地で出会った島の男。安曇ではなかったことに、ホッとしたと同時に、アリキの傍らで泣き崩れている息子のポエの姿に胸が痛む。

 既にアリキが事切れているのは明らかだった。アリキのまわりは血の海となっている。

 知った人間が無残な姿になっているのは見るに堪えない。

 人の輪の中に、メアリーさんを見つけた。彼女は蒼白な顔で、何やら周りの人々と話し込んでいる。


「何があったんですか」

 首藤が彼女に駆け寄って訊いた。

「詳しいことはまだわからないわ。わかっているのは、アリキが死んでしまったってことだけ」

 そしてメアリーさんは、悲しげな目で、アリキの妻のヘレを見た。

「彼女が今朝、見つけたのよ。かわいそうに」

「死因はわかってるんですか」

 首藤の問いに、メアリーさんが首を振った。

「はっきりとはわかってないみたい。みんなの予想では、多分、誰かに切られたんだろうって」

「切られた?」

 首藤が叫び、僕らは恐る恐るアリキを振り返った。ぱっくり口を開けた首筋が、たしかに何か鋭い刃物で切られたように見える。

「喧嘩か何かですか」

 首藤が震える声で続けた。

「喧嘩。そうねえ……」

メアリーさんは歯切れが悪い。

「だけど、喉を切られるなんて」

 僕らは顔を見合わせた。

 ふいに、アリキから聞いた、呪いの伝説が蘇る。隠れていた者を助けようと声を上げたせいで、喉を切られた男の話だ。

 同じだ。僕はごくりと唾を飲み込んだ。首藤も目を見開いている。

「ここは島民の間では、近づいちゃいけないと言われてる場所なのよ。どうしてこんなところにアリキは来てたんだか。魚が捕れる場所でもないのに」

 ここが呪われた場所だと教えてくれたのは、ほかでもないアリキ本人だ。だが、妙だと思った。そんな場所に、アリキはあのとき、なぜいたのだろう。そんな場所で、何をしていたんだろう。

 そしてまた、アリキは同じ場所に来ていた。そして変わり果てた姿を晒している。

「ヘレの話では、アリキは昨日の夜から帰っていなかったみたいよ」

「じゃ、彼は一人でここへ?」

「多分ね」

 集まった人々が、ひそひそと囁く声が聞こえてきた。誰もが不安げ気な表情で、この恐ろしい事態を嘆いている。異様な雰囲気だった。人々は見えない何かに怯えているかに見える。


「まさか、呪い殺されたってわけじゃ」

 首藤は呟いた。

「そう言っている人もいるわ」

 そしてメアリーさんは続けた。

「外から来た人には信じ難い話でしょうけど、島の一部には、呪いを信じてる人がいるの」

 僕はふたたびアリキの変わり果てた姿に目をやった。「呪い」という禍々しい言葉が似合う悲惨な姿だ。

「ちゃんとした捜査をすべきですよ。これは殺人事件だ」

 首藤の言うとおりだ。科学的な捜査をして、犯人を見つけるべきだ。

「そう。そうよね。だから、ニュージーランドの警察に捜査の要請をしたらしいわ。犯罪捜査として扱われるそうよ」

 そしてメアリーさんは、僕たちの背後に視線をやった。

「アズミは見つかったの?」

「まだなんです」

 首藤が答えた。

「役場の方を紹介してもらえませんか。安曇についても、捜査をお願いしたいんです」

「そうね。そのほうがいいと思うわ」

 メアリーさんは緊迫した表情で頷き、僕らを先導して人の輪を抜けた。

 メアリーさんに付いていくと、Tシャツと短パン姿がほとんどである人々の中に、  

 ワイシャツとスーツ用のズボンを履いた男性がいた。どうやら、彼が役人のようだ。スティーブンという名らしい。

 メアリーさんはスティーブンの前へ進み出ると、早口で話を始めた。僕らの状況を説明してくれているようだ。

 スティーブンは、メアリーさんの話を聞きながら、僕らにときどき視線を移し、何度も頷いた。

「だいじょうぶかな」

 僕は首藤にささやいた。島の役人だからというわけではないが、緊迫したこの状況を打破してくれそうには見えない。

 

 聞こえてくる彼らの会話から、アリキの捜査を重要視している旨が伝わってきた。当然の判断だとは思えるが、アリキはもう、亡くなっているのだ。それよりも、現時点で行方のわからない安曇の捜査を優先すべきではないのか。

 首藤も同じ意見だったようだ。首藤はスティーブンに食ってかかった。途端にスティーブンは困った表情を浮かべ、首を振る。

「アリキが誰かに殺られたのは確かだ。犯人を捕まえないと。殺人犯の捜査を最優先させる要請は変えられない」

 すると、それまで黙って話を聞いていた美月さんが前へ出た。

「安曇が見つからなかったら、島にとって大損害になるのよ」

 はっきりと、ゆっくりと、美月さんは言い放ち、スティーブンを威嚇するように睨みつけた。

「観光客が行方不明になって、捜索も満足に行われない島に、今後どこの国の観光客が来てくれるっていうの?」

 忙しなく瞬きを繰り返し、スティーブンが僕らに視線を移した。この島には、さしたる資源も産業もない。わずかではあるものの、観光客がやって来ることで島が潤っているのは確かだ。

「何もしないと言っているわけじゃない」

 スティーブンは自分に言い聞かせるように、言葉をつないだ。

「島民で捜索隊を編成しよう」

「そうしてください」

 美月さんはきっぱり返す。

「どちらにせよ、ニュージーランドの警察が、この島へ到着するのは早くても今日の夜になる。それまでに、島民たちでできる限りのことはやらせてもらう」

 この島に飛行場はないから、ニュージーランドの警察は船でやって来る。それまでに捜索隊を編成してくれるのは有難かった。

 

 捜索隊の準備に協力しようと役場に向かおうとしたとき、僕たちはスティーブンに引き止められた。

「なんですか」

 首藤が代表して、答える。

スティーブンは島民たちに背を向けて、小声になった。

「君たちには言いにくいんだが」

僕たちは顔を見合わせた。

「アズミのことだ。あまり期待しないほうがいいかもしれない」

「なぜです?」

首藤がムキになって訊いた。

「この島には、古い言い伝えが残っていてね。呪いなんてものを信じる島民が存在するんだ。外国人にはわからないだろうが」

「呪い?」

「そう。この島は呪われている、よくないことが起きると信じる連中だよ」

ディエゴ爺さんの顔が思い出された。たしか、呪いという言葉を口にしていたのではなかったか。

「そういう連中は、呪いにかこつけて、何をするかわかったもんじゃない。だから、アズミも」

「まさか」

「そうは思いたくない。だが、アリキがあんなふうに殺された。わたしには、おかしなやつが潜んでいるとしか思えないんだ」

 そしてスティーブンは、沈んだ声で続けた。

「君たちにまで何かあったら大変だ。できる限り、勝手な行動は謹んでもらいたい」

 納得できないまま、僕たちはそれぞれ頷いた。

 不安が胸に渦巻いた。

 安曇、どこへ行ったんだ?



 いつのまにか、日は中天にさしかかかっている。

 そのとき、背後から僕らを呼ぶ声が上がった。聞き覚えのある声だ。

 ニックだった。小走りに駆け寄ってくる。ニックとは、島に到着した日以来だ。

「アンダーソン島はどうだった?」

 ニックは親しげに、僕らに顔を向けた。

 僕らは首を振った。ニックは大げさな身振りで、それは残念だと言った。あまり残念そうに見えない表情だ。自分が薦めたアンダーソン島で、UMAの片鱗さえなかった事実なんて気にする様子もない。

「次の計画は立てたのか?」

 陽気な調子でニックは続ける。僕は心底うんざりした。今は、UMAどころじゃないのだ。

「未定よ。それどころじゃないの。安曇が行方不明なの」

 ニックの表情が陰った。

「だから、スティーブンといっしょにいるのか?」

 ニックは前を歩く役場の男性に視線を送ってから、真剣な表情になった。

「アズミがいなくなったのはいつだ?」

「昨日の夜よ」

「昨日の夜……」

 ニックは立ち止まって呟く。

「あんた、何か心当たりがあるのか?」

 首藤が苛立った声を上げた。


「まずいかもしれないぞ」

 ニックはそう言って、僕らの顔を見渡した。

 僕は嫌な感じがした。どうもこの男が好きになれない。

「アリキの死体を見ただろう? あれが、島民同士の喧嘩だと思うか?」

 ニックは背後の人だかりを顎でしゃくった。

「アリキが殺されたのは、昨日の晩だ」

 僕たちは一様に頷く。

「昨日は満月だった」

 ふいに、昨日の夜、真夜中に目が覚めたときに見た、明るい月が思い出された。

「言い伝え通りだ。満月の夜に、ぱっくりと喉を引き裂かれた。言い伝え通りの殺され方じゃないか」

 アリキに聞いた言い伝えが蘇る。兄を助けるために声を上げようとして殺された妹。味方によって、喉をかき切られた妹。

 そのとき、先を歩くメアリーさんに呼ばれた。急ぎなさいと言っている。

 ニックの話の続きが気になったが、時間がない。僕らは走り出した。



 午後になって風が出てきた。

 島の役場は、ヤシの木の林の中にぽつんと建っていた。島の家はどれも、ぽつんと建っている印象があるが、ここはとりわけ周囲になにもない。

 一応、役場らしく、正面玄関こそ石造りで厳しい雰囲気を醸し出しているが、建物全体は簡易な木の造りで、強い風に煽られたら吹き飛ばされそうだ。開け放たれた窓の向こうに、部屋の天井が見え、シーリングファンがカタカタと音をさせている。

 安曇の捜索に集まってくれた島民は、役場の前庭、いや、乾いた空き地に所在無げにたたずんでいた。総勢二十人ほどはいるだろうか。この島へ来たとき、いっしょに船に乗り合わせた観光客の顔も見える。

 もちろんニックもいた。依然昏い目をして、役人の説明を待っている。

 トイレに行ってくると、美月さんが建物の中に入った。その美月さんが出てくるのを待って、指示が出される。

 捜索隊は三つに分けられ、海岸と、南側と北側の山地部分を手分けして探すことになった。

 僕ら日本人三人は、それぞれの隊に分かれた。安曇の風貌をよく知る者が、隊に一人ずついたほうがいいという役場の判断だ。僕は南側の山地を、首藤は海岸線を、美月さんは北側の山地を探す隊に編成された。

 島民が三人とアメリカ人の観光客の老夫婦が二人。そして僕という六人で、役場の前から出発した。捜索時間は三時間。四時になったら、また役場へ戻るという計画だ。

 ニックは首藤の隊に入れられた。メアリーさんは、リアムさんと共に美月さんといっしょだ。メアリーさんにもリアムさんにも、ほかの島民にはない熱心さが感じられ心強かった。観光客に何かあっては大変だという緊迫感が伝わってくる。

 分かれるとき、首藤に肩を掴まれた。

「絶対見つけような」

「もちろんだよ」

 僕らは熱い視線を交わしたあと、それぞれの隊に戻った。どんなことがあっても見つけ出す。そしていっしょに日本へ帰るんだ。

 

 僕の隊の島民三人は、七十がらみの老人だった。この島で生まれて、三人とも一時期島を離れた時期があったものの、ここに戻って余生を送っているという。あまり頼りになりそうになかったが、島の地形は知り尽くしている。三人の先導で、僕と観光客の二人は山を登っていった。

 風が強いせいで、ヤシの葉が大きな音を立てて傾げ、束ねた箒の先みたいになっている。僕の不安は否応無しに膨れ上がる。

前方から、

「おーい」

と、僕を呼ぶ声がした。

 駆け寄ってみると、島民の一人が、何やら地面に顔を向けている。

 草の間に、人工的な光が見えた。陽の光を反射したレンズだ。

安曇の眼鏡だった。ウェリントン型のメタルフレームの眼鏡。

「トモダチのか?」

 島民の――たしかカウイという名のじいさんの声に、僕は大きく頷いた。

 安曇はここを通ったのだ。間違いない。

「この先には何があるんですか」

 いままでは、ヤシの木の森だった。これからも、見渡す限り同じような風景が広がっている。

「森が続いて、崖になる」

 カウイが言った。

「道はないな」

 別の島民――ミカエル――が呟く。

「そういえば」

 もう一人の島民――マヌだったか――が、何か思い出したのか訝しげな表情になった。

「ミゲル爺さんの小屋があるのはこの先じゃないか?」

 そのあと、彼らは何か言い合ったが、僕らを振り返ると、カウイが説明してくれた。

 ミゲル爺さんっていう人が、昔この先に小屋を立てていたらしい。そのおじいさんが亡くなってから、小屋は壊されたというが、ミゲル爺さんがほんとに小屋を立てたのかどうか、島民たちは疑っているという。ミゲル爺さんは風変わりな人物で、島の誰とも付き合いがなかったらしい。ミゲル爺さんはフィリピンだかインドネシアだかあっちのほうからやって来た男だという。生計は、自分の船で島から島へ物を運んで立てていた。


「そりゃ違うだろう」

 ミカエルが額の汗を拭いながら、割って入った。

「借金から逃げてきたって話だよ。海千山千の男だった。胡散臭い商売ばかりに手を出してな」

「そのミゲル爺さんは、小屋で暮らしていたんですか?」

 僕はミカエルに顔を向けた。

「いや、爺さんはそこで奇妙なものを飼っているという噂だったよ。儲けの種だと言っていたようだ。実際見た者はいなかったがな」

 そんな場所に続く道を、なぜ、安曇は向かって行ったのだろう。

「行ってみるか?」

 カウイに訊かれて、僕ははっきりと頷いた。

 安曇がここを通ったのは間違いないのだ。引き返すわけにはいかない。



 山の上へ行くにしたがって、木々はまばらになり、最後には岩だらけの地面が広がる荒涼とした風景になった。

 峠を過ぎたせいか、吹きつける風の方向が変わり、頬が冷たく感じられる。

「もう、崖になるぞ」

 カウイが言うとおり、真っ直ぐ進めば崖に出るようだった。島のいたるところで、陸地は突然終わりを告げ、急峻な崖に出くわす。

「あずみぃいいぃ」

 何度叫んでも、風の音しか返ってこなかった。見渡す限り、安曇の姿はない。いや、生き物の動く気配すらなかった。僕はポケットに入れた安曇の眼鏡に念を送った。

 安曇。どこにいるんだ?

 

 諦めて引き返そうとするカウイとマヌに、僕は食い下がった。

「小屋はどこですか?」

 島民の一方が、左のほうへ目をやった。左側は、引き返す方面とは別に、地面が削られ崖に比べればなだらかな斜面になっている。

「下っていくと海岸に出る。小屋があるとすればその先だろう」

「行ってみましょう」

「ほんとに小屋があるか、わからないんだぞ」

「それでも、行ってみましょう」

 歩き出した僕に、二人は渋々といった様子でついてきた。

 

 道があるわけじゃない。まるで産卵をするために森から海へ向かう蟹のように、岩にへばりつきながら、足を一歩ずつ下ろしていく。大学の庭で、どこかのサークルが、ボルタリングの練習をしているのを見た憶えがある。こんなことになるなら、練習をさせてもらえばよかったと思う。

 下るのを渋った島民たちだったが、実際に動いてみると、僕とは比べ物にならないほど足取りはしっかりしていた。特にカウイのほうは、息を切らす様子もない。まるで三十代の若者だ。

 最後は岩にぶら下がるようにして、僕はようやく平らな地面に足を付けた。その途端、岩を掴んで擦り切れた両手が、ふいにひどく痛んだ。右の掌の真ん中に、切り傷ができ、血が滲んでいる。Tシャツの裾で血を拭おうとしたとき、先を行くカウイが声を上げた。

「わああぁあ」

 僕は足がすくんだ。

「ど、どうしたんですか!」

「□△××」

 何やらもう一人も叫ぶ。

 石だらけの海岸を走った。と、島民二人が駆け戻ってくる。

「ダメだ!」

「行くな!」

 必死の形相で二人は叫び、マヌが、僕の腕を掴んだ。

「な、何ですか」

 そう返したとき、二人の背後に、僕は見た。

 灰色の大きなトカゲのような生き物。全長は三メートルは優にあるだろう。円を描くように四本の脚を動かしながら、こちらに向かってくる。体の表面は、象に似たぶつぶつとした皮膚で覆われていた。口から二つに割れた長く白い舌が、しゅるしゅると音を立てながら蛇のように出ては引っ込む。


「――あれは」

 恐竜か? 違う。もちろん、スケイルマンでもない。

うろが来た僕は、咄嗟に体が固まってしまった。その僕を、カウイとマヌが二人がかりで引っ張る。

「食われるぞ!」

 マヌに体を揺すぶられて、僕は目が覚めたように動き出した。緊張で頭が焼け付きそうだった。息も出来ない。

 背後から、怪物が舌を動かす音が追ってくる。その不気味な音がいくつにも重なって、思わず後ろを振り返ると、怪物は三頭に増えていた。いや、四頭だ。大きな個体の後ろに、同じ体をした子どもが付いてきている。

 懸命に崖をよじ登った。有難いことに、怪物は崖を登れないらしい。

 おそらく臭いを探っているのだろう。僕らが通った地面に、盛んに長い鼻先をつけている。

 ふたたび掌を傷つけながら、僕は恐怖と闘いながら登り続けた。先を登る島民の黒い脚だけを頼りに、彼らが足先を置いた場所へ足を運ぶ。

 落ちたら食われる。

 汗だくになりながら、僕は登り続けた。



 転げるように山を下り、役場の前に時間より遅れて戻った僕の組は、言葉少なくほかの隊に合流した。

役場の前の空き地に集まったどの顔にも、疲労の色が濃かった。安曇は見つかっていなかった。その徒労感が全員を覆っている。

首藤は役場の正面の石の階段で、呆けたように座っていた。美月さんは、地面に体育座りをして、思いつめた表情で空のペットボトルを見つめている。

「どうだった?」

 役場のスティーブンが、僕に顔を向けた。

「見つかりませんでした。でも、こんなものが落ちていたんです」

 安曇の眼鏡を、僕は顔の前に掲げた。

 首藤が駆け寄ってきた。美月さんも立ち上がる。

「ということは、安曇は峡たちが探した南側の山へ入ったのか」

「きっとそうだよ。理由はわからないが、安曇が通った道であることは間違いないと思う」

「すごい手がかりじゃないか」

 顔をほころばしたスティーブンに、カウイが険しい顔を向けた。

「大変なものを見てしまったんだ」

「大変なもの?」 

「ああ」

怪訝な表情を返したスティーブンに、カウイは言葉を噛み締めるように続ける。

「コモドオオトカゲがいた」

 スティーブンの目が見開かれた。

「コモドオオトカゲだって?」

 その声に、人々の視線がいっせいにスティーブンに向けられた。

「まさか」

「この島にいるはずがない」

「見間違いだろう」

 人々が口々に喚き始めた。

 コモドオオトカゲ。あれがそうなのか。

 僕は不気味な灰色の怪物を思い返した。コモドオオトカゲなら、ネット動画で見た憶えがある。

 だが、実際に目にしたあの生き物は、もっと獰猛で恐ろしかった。おそらくうろが来てしまったせいでそう見えたのだろう。

 美月さんがすぐさまスマホに顔を埋め、ウィキペディアの検索を始めた。

「この島にコモドオオトカゲがいるのはおかしいわよ。コモドオオトカゲの生息地はインドネシアなんだから」

 そうだ。インドネシアのコモド島の名を取って付けられたオオトカゲなのだ。オセアニアのこの島にいるはずがない。ほかには、少数の動物園に飼育されている例があるだけだ。

ふいに、島民の一人から声が上がった。

「ミゲル爺の野郎だ!」

声のしたほうへ、全員の視線が集まった。

声を上げたのは、皺だらけの痩せた老人だった。おそらく、今集まった島民の中では最年長だろう。皺だらけの顔を赤くして、口を尖らせている。

「ミゲル爺は、あの怪物の卵をこの島に持ち帰っていた。これは噂なんかじゃない。わしは見たんだ」

そして痩せた老人は、ほかの老人たちを見やる。

「おまえたちも見ただろう?」

島民の老人たちの表情が曇った。老人たちは言い返さない。

ようやく、老人たちの一人が口を開いた。

「だが、全部死んでしまったはずだ」

「そうだ。ミゲル爺さんが死んでしまってから、生き残れるはずがない。あの辺りに餌はないんだ」

「そのミゲル爺さんが、コモドオオトカゲを飼育していたっていうの?」

 美月さんが、鋭く言い放った。

 曖昧に老人たちは頷く。

「聞き捨てならないわ。コモドオオトカゲは国際自然保護連合が作成したレッドリストに入っているのよ。密猟は禁止されてるわ」

「すぐに死んでしまったと聞いてるぞ」

 スティーブンが顔を歪める。スティーブンも知っていたのだ。島では公認の噂だったのだろう。

「まさか、そのときの卵から増えて……」

 美月さんが表情を曇らせる。

「いつ頃の話なんですか」

 僕はカウイに顔を向けた。

「十年ぐらい前だろう。ミゲル爺さんが死んだのは、六、七年前になるから」

「コモドオオトカゲは、三年から五年で成長し、寿命は長くて五十年とあるわ」

 スマホにふたたび顔を埋めた美月さんが続ける。

「もし、ミゲル爺さんのオオトカゲがそのまま育っていたとすると、カウイたちが個体を見た可能性は十分考えられる」

「誰かが育てていたってわけか? そんなことが知れたら、大変なことになる」

 スティーブンが、黒い巻き毛の頭を掻きむしった。

「ちょっと待ってくれ!」

 首藤が叫んだ。

「じゃあ、安曇は、そのオオトカゲの生息地に向かっていったっていうのか?」

「安曇が向かったと思われる先に、生息地はあった」

 僕が言うと、

「ミゲル爺さんの小屋が建っていた場所だ」

と、カウイが答える。

「なあ、そのオオトカゲは、人も食うんだろ?」

 首藤がカウイに向かって言い放つ。

 みんながギョッとした顔で、首藤を見た。

「俺たちの友達は見つかっていない。もし、安曇がそのオオトカゲに殺られたんだとしたら」

「そんな」

 美月さんが呟き、目を剥いた。

もうすぐ陽が暮れる。僕は紅くなった空を見上げた。


 すっかり夜の帳が島を包んだ頃、ニュージーランド警察が島に到着した。真っ暗な海の上に、サーチライトを照らしながらやって来る様子は、物々しく威厳に満ちている。

僕と首藤は、すぐさま宿を飛び出した。アリキの捜査も大切だが、僕らとしては安曇の搜索を警察に優先してもらいたい。警察に直接掛け合わなくては、役場のスティーブンンにまかせておくのは不安だった。

宿を出ると、山に入る道でメアリーさんがうろうろと歩いているのが見えた。ディエゴ爺さんもいる。

「どうかしましたか」

 首藤の声に二人が振り向いた。メアリーさんは、泣きそうな表情だ。

「ブブが見当たらないのよ」

「ブブが? いつからですか」

「昨日の夜よ。夕方にはいい子でいつものペットフードを全部たいらげたのに。それから姿が見えないのよ」

 そういえば、昨日今日と、ブブの吠える声を聞いていない気がした。安曇のことで頭がいっぱいで、気にも止めていなかったが。

「どこを探しても見つからないの。そんなに遠くへ行くような子じゃないのに」

「リードを外してたんですか」

「リードは家の中では付けてないわ。あなたたちも知っているでしょう?」

たしかに、いつだってブブは家の中を自由に走り回っていた。庭でも、リードにつながれているのを見た憶えはない。

ふと、安曇が庭でブブと遊んでいたときの様子が蘇ってきた。安曇は僕や首藤よりも、犬好きだった。

「ブブがいなくなったのは昨日の夜なんですね?」

 僕はもう一度確かめた。

「そうよ。間違いないわ」

「なんだよ、峡」

 首藤が苛立った声を上げた。首藤の気持ちはわかる。早く警察の向かった役場へ行きたいのだ。犬のことなんかに構っている暇はないと顔に書いてある。

「安曇もいなくなったのは昨日……」

 僕が呟くと、ディエゴ爺さんが声を上げた。

「アズミというのは、あんたらの仲間かね」

「ごめんなさいね。ディエゴはアズミが行方不明だって知らないのよ。羊がいなくなって以来ふさぎこんで家から出てなかったから」

 メアリーさんがすまなさそうに言う。

「外に出る気力を失くしていたんだが、昨日あんたらの仲間がうちに来て」

「え」

 僕と首藤は、同時に声を上げた。

「安曇があなたのところへ来たんですか」

 怒ったように首藤が訊くと、老人は目をキョロキョロさせた。

「ああ。ブブを探していたんだ。うちの周りをうろうろしていたから、羊泥棒だと思ってな。もう、羊はいないと言ってやろうと思ったら、若い東洋人でな。ブブを見かけなかったかと訊かれた」

安曇はブブを探しに宿を出たのか。それで歩き回るうちに、ディエゴ爺さんの家の近くへたどり着いたのだろう。 

「そ、それで、安曇がどこへ行ったか見ましたか?」

 僕は慌てて訊いた。

「見とらん。森の中へ入ってそのまま見えなくなった」

 そこから安曇は、どこへブブを探しに行ったのだろう。安曇の眼鏡は、島の南側で見つかった。ということは、安曇はディエゴ爺さんの家の前から山に分け入ったのだ。といっても、安曇の眼鏡が見つかった場所まではかなり距離がある。ブブがそんな遠くまで行くと、安曇は思ったのか。

「もう、何がどうなっているっていうの。アリキは殺されるし、アズミは行方不明。その上ブブまでいなくなってしまって」

 悲しげにメアリーさんが呟いた。

「安曇も見つかりますし、ブブだって見つけてみせます」

 空元気でも、首藤の宣言は頼もしかった。絶対に安曇を見つけるんだ。そうあらためて決意がみなぎってくる。

 だが、ディエゴ爺さんの呟きに、僕と首藤は言葉を失くした。

「この島で何かよくないことが起きているんだ。この島は呪われているから」

 そう言いながら、ディエゴ爺さんは、ポケットから石のような物を取り出して、ぶつぶつ呪文のような言葉を吐き出した。

「何ですか、それは」

 僕はディエゴ爺さんの掌に顔を近づけた。掌サイズの長方形に近い形の石だ。見ようによっては、人の顔にも見える。真ん中が盛り上がっていて、そこが人間の鼻みたいだ。

 島では土産物として、わずかながら魔除けグッズも売られているようだが、鳥の羽を束ねた物や糸で編んだキーホルダーのような物で、こんな形はなかった。

「これはな、特別な魔除けの石だ。呪いから守ってくれる」

「やめてちょうだい、ディエゴ」

 メアリーさんがディエゴ爺さんを睨みつける。

「呪いだなんて、もうそんなことを信じてる島民はいないのよ。誰が持ってきた石か知らないけど、そんなふうに島民を惑わすのはやめて欲しいわ」

「罰当たりだぞ。この石は選ばれた者だけが手にできるんだ」

ディエゴ爺さんも負けじと目を剥く。

「呪いなんかじゃないわ。人間がやったことなのよ、全部。きっと、家畜を襲っているのは――」

「犯人の目星がついているんですか」

 首藤がメアリーさんに顔を向けた。

「証拠がないからみんな口をつぐんでるけど、予想はついているわ。死んだ人を悪くいいたくないけど、わたしはアリキが怪しいと思ってた」

「アリキが? どうして」

 アリキは漁師だ。家畜を盗んでどうしたというのだろう。貧しい風体の男だったとはいえ、食べたわけでもないだろう。

「売ったんじゃないかと思うわ」

 すると、ディエゴ爺さんが、ふんと鼻で笑った。

「売るって誰にだ? あいつは事故で脚を悪くして以来、力仕事は無理だ。だから、ほかの漁師のように、貨物の荷運びの仕事ができないんだ」

 左に傾いて歩く癖のあるアリキの姿が思い起こされる。

「だからよ。ほかの漁師のように荷運びの仕事ができないから、家畜を盗むような悪さをしたんじゃないかって。そう噂されるのは、わけがあるのよ。奥さんのヘレが、ときどき、貨物船から下ろされた品を、贅沢に買っていくときがあるの。そんなお金がどこから湧いてきたんだろうって、みんな噂してるわ」

僕の胸に不穏なものが広がっていった。ニックの言葉が蘇る。アリキは呪い殺されたと言ったニック。あの酷い殺され方。そして島で家畜がいなくなり始めたこと。ディエゴが言うように、この島は今、何かよくないことが起ころうとしているのだろうか。

もし、そのよくないことに、安曇も含まれていたら。

「行くぞ」

 首藤に袖を引っ張られて、僕は歩き出した。

 安曇は見つかるだろうか。

 あと二日で、島を出る船がやって来る。



島でよくないことが起こっている。

 そう言ったディエゴ爺さんの声が、僕の胸の中で谺する。

 島は静かだった。空には、明るい満月が輝いている。雲はない。

 月の光を頼りに暗い山道を下りながら、僕は不安に押し潰されそうになった。首藤も同じ気持ちなのだろう。黙ったまま駆けていく。

 海岸では、ニュージーランド警察が下船を始めていた。仰々しい船でやって来た割には、警察官の姿は少なかった。五、六人というところだろうか。テレビで見た憶えのある、鑑識班らしき警察官の姿も見えた。大きな箱型の荷物を降ろしている。

僕と首藤は、集まった島民を掻き分けて役場のスティーブンを探した。

スティーブンはすぐに見つかった。夕方までいっしょに安曇の捜索をしてくれていた島民たちの輪の中にいる。その中心には、美月さんがいた。スティーブンと話し込んでいる。

 僕らの姿に気づいた美月さんがこちらに駆け寄って来た。

「安心して。安曇の捜索をニュージーランド警察に頼んだわ」

「よし!」

 首藤が拳を上げた。僕もうんうんと何度も頷く。

「アリキの捜査とは別に、安曇の捜索にも人員を割いてくれるって」

「よかった」

 さすが美月さんだ。行動が早い。安堵する僕と首藤に、美月さんは続ける。

「ニュージーランドにある日本大使館にも連絡すべきだって、警察官に言われたわ」

詳しい知識はないが、海外で問題を生じたとき、頼るべき場所だと理解している。

もし、これが普通の海外旅行なら、旅行会社がすべて窓口となってくれるのだろう。だが、僕らは個人旅行でこの島までやって来た。

「といってもね、日本大使館が捜索に協力してくれるわけじゃない。警察に届け出る捜索願について助言をしてくれるだけだそうよ」

「そんな」

 僕は思わず声を上げた。

「仕方ないわ。大使館は警察じゃないんだから。でも、大使館からの支援もあれば、警察の本気度も増すと思うの」

「確かに」

首藤が頷いた。

「これからどういう段取りを組むか、スティーブンと話し合わなきゃ」

「そうだな。もう一度ボランティアで組を作って」

 首藤が言いかけたとき、美月さんに制されてしまった。

「ここはわたしにまかせて。もう、大まかな段取りは、スティーブンと警察とで話し合ったわ」

「え、もう?」

「警察に連絡を取ったとき、わたしも役場に詰めていたの」

 僕と首藤は顔を見合わせた。今日の捜索で疲れ切っていた僕と首藤は、スティーブンに言われるまま、宿で待機した。美月さんはそれを押して役場に留まったのか。

「それにね」

 美月さんは、目を輝かせた。生き生きとした大きな目が、僕ら二人に注がれる。

「船頭多くして船山に上るっていうでしょ」

「何それ」

「リーダーは一人でいいってことだよ」

 首藤がおもしろくなさそうに、呟く。

「ともかく急いで捜索を始めなくちゃ」

 美月さんは、スティーブンのいるほうへ、慌ただしく駆けていく。

「なんだよ、あれ」

 首藤が舌打ちをした。首藤の不快さは理解できたが、仕方ないと思った。先に行動を移したのは彼女なのだ。

 島民の誰かが、薪の準備を始めた。バーベキューで使うコンロを持ち出して、火をくべる。すぐに赤々と大きな炎が舞い上がり、暗かった海岸を明るく照らし出した。

 島民のボランティアたちは、懐中電灯を片手に、火の周りに集まった。そのまま、所在なくスティーブンの発表を待つ。警察官二人とスティーブン、そして美月さんの話し合いが続く。

話し合いからは外されてしまったが、僕と首藤は、彼らの話が聞こえる場所で耳をそばだてた。警察は、昨日、探した場所以外にも範囲を広げると言ってくれている。ダイバーの要請もしてくれるようだ。

今日、新たに捜索する場所は、二ヶ所。アリキが遺体で見つかった崖の向こう側と、アリキの息子のポエが教えてくれた滝壺のあたりが加わる。

 聞いていた僕は不思議に思った。安曇の眼鏡を拾った場所が、捜索の対象になってない。

「まずいよ、あれじゃ」

 僕は首藤に顔を向けた。

「まず重点的に探すべきはあの辺りだろう? その先の、コモドオオトカゲのいた場所に思い切って搜索に出るべきじゃ」

「ああ、俺もそう思うよ」

「言ってくる」

 僕が駆け出そうとした瞬間、首藤に腕を抑えられた。

「待て」

「なんだよ」

 首藤はそのまま僕の腕を引っ張って、ボランティアの輪の外に出た。

「意図的かもしれない」

 首藤が囁き声になった。

「どういうこと?」

 首藤が顎をしゃくった。その先には、ボランティアの輪の中心で、采配を振るっている美月さんの姿がある。

「安曇の手がかりがあった場所から捜索するのが当たり前だろ? それなのに、さっき、聞いただろ? スティーブンがコモドオオトカゲの目撃場所に触れたとき、美月さんは言ったんだ。危険な場所へボランティアを行かせるわけにはいかない、まず、もっと手近なところを重点的に探すべきだって」

 確かに、美月さんはそう意見を述べた。この島に、違法に持ち込まれたコモドオオトカゲの存在を公にしたくないスティーブンは、すぐにその意見にしたがった。

「なんで、美月さんはそんなことを言ったんだと思う?」

 首藤の目が光る。

「なんでって」

「安曇が見つかって欲しくないみたいじゃないか?」

僕は安曇が怯えていたことを、話した。アンダーソン島で穴に落ちたのを、安曇は美月さんに落とされたと思っていると。

「まさか」

 首藤が呻く。

「安曇はものすごく怖がってたよ」

「ということは、美月さんが、安曇の失踪に関わってるかもしれないってことか?」

「そう考えてもおおかしくないよね。じゃなきゃ、安曇の発見を遅らせる彼女の意図がわからない」

 昨日今日の彼女の様子は、本気で安曇の失踪を嘆いているように見えた。それがすべて芝居だというのか。

「美月さんに問い正すべきだ」

 それは一刻も早いほうがいい。

 だが、首藤は首を振った。

「素直に話すかね。また上手い言い訳を募らせて、俺たちは煙に巻かれてしまうかもしれない」

「じゃ、どうするんだよ!」

 愚図愚図している場合じゃない。もう、安曇がいなくなって、丸一日が過ぎてしまったのだ。

「探りをいれてみよう」

 首藤が目を光らせた。

「罠にかけるんだ」

「罠? でも、どうやって」

「違う情報を流すんだ」

「違う情報」

「そう。安曇の手がかりを見つけたと言っておびき寄せよう」

 あまり気が進まなかったが、首藤の言い分にも一理あると思った。どう考えても、安曇の眼鏡を拾った場所を、捜索範囲から外すのは不自然だ。

「どこにする? 島民たちが捜索を始めてる。安曇の手がかりがあったなんて言ったら、スティーブンがみんなを引き連れてやって来るよ」

「そうだな」

 首藤は考え込み、役場へ目を向けた。美月さんが島民のみんなに捜索する場所を采配している。

「俺たちの宿に呼ぼう。今ならメアリーさんもいないし、安曇の手がかりがあったと言っても不自然じゃない」

首藤がそう言って、スマホをポケットにしまったとき、美月さんの声が響いた。



 美月さんが僕らのところへ駆け寄ってきた。

「二人共、早く組に加わってちょうだい! 首藤くんは滝壺、峡くんは――」

「ちょっといいか?」 

首藤が美月さんの声を遮った。

「何?」

「安曇の手がかりを見つけたんだ」

「え、どこで?」

 美月さんは大きく目を見開いた。驚いた表情は真に迫っている。もしこれが演技なら、彼女は相当な曲者だ。

「俺たちの宿で」

「何が見つかったの?」

「いや、それが、見つけたものが重要な手がかりになるかどうか測りかねてて……」

美月さんは、怪訝な表情になった。

彼女に考える隙を与える間もなく、首藤は続ける。

「だから、君に見てもらいたいんだ。もし、重要な手がかりになるようだったら、スティーブンや警察にも話そうと思う」

 瞬間、美月さんの目が光ったように思えたのは、僕の勘違いだろうか。美月さんは即座に言い放った。

「わかったわ。行きましょ。急いだほうがいいわ」

 スティーブンに断りを入れて、僕らはメアリーさんの家へ向かった。途中、誰も口をきかなかった。まるで、それぞれの思惑の中に沈み込んだかのように、僕らは黙々と進んだ。

 メアリーさんの家に着くと、僕らはすぐに自分たちの部屋へ入った。美月さんも続いて入ってきた。

「どれなの? 手がかりって」

 ソファとベッドしかない殺風景な部屋の中を、美月さんは見回した。蓋が開いたままのスースケースや転がったペットボトルのほか、何も目に止めるべきものはない。

 振り返った首藤が、美月さんを見据えて声を上げた。

「ここに手がかりなんかないよ」

「どういうこと?」

 美月さんが目を吊り上げた。

「君は、安曇の手がかりが見つかった場所を、故意に外したんだろ?」

「そ、そんなことないわ。危険な場所だから」

「これからの捜索には警察も加わるんだ。危険な場所だからこそ探しに行かないと、安曇は見つからないんじゃないか? それとも」

 首藤はまくし立てる。

「君は安曇が見つかって欲しくない理由でもあるわけ?」

 ふうと、美月さんが息を吐いた。そして首藤と僕を順に見つめる。

「それが言いたくて、ここへわたしを呼んだわけ?」

「そうだよ。僕らは、君が安曇の居場所を知ってると思ってる」

「何を言ってるのよ」

 彼女は僕らを嘲笑うように、言い放った。

「どうしてわたしが安曇の居場所を知ってるわけ? どうして知っていて隠さなきゃならないわけ?」

「いい加減にほんとのことを言えよ」

 首藤が凄んだ。

「君が偶然この島にやって来たんじゃないってことは、もう、俺たち察しがついてるんだ」

「誤解だわ。わたしは偶然、この島で安曇に会って」

 首藤は大きくため息をついた。そして乱暴に美月さんの腕を掴む。

「放してよ」

 首藤はそのまま、美月さんに顔を近づけた。

 いやいやをする子どものように、美月さんは首藤の腕を振り払った。その腕を、首藤がふたたび掴む、

「だったら、なんで、安曇の眼鏡が見つかった山道の捜索を阻止したんだよ!」

「それは」

 首藤と美月さんは睨み合った。

「君が何か目的を持って、故意に安曇や峡がやって来たこの島に追いかけてきたのは明らかなんだ。安曇がどこにいるか教えてくれよ」

いままでとは違って、首藤は懇願する口調になった。過去に何があり、それがどう関係していようと、今は安曇の行方が知りたい。首藤の目はそう言っている。

「知らないの。ほんとに知らないのよ」

「じゃ、どうして安曇の手がかりがあった場所を外したんだよ!」

「――それは」

 美月さんは言葉に詰まった。視線をさまよわせる。

「言えよ! 安曇はどこにいるんだ!」

 激高した首藤の掌が、美月さんの首筋に迫る。

「やめろよ! 首藤!」

 首藤の体を引っ張った。恐怖で震える美月さんが、大きな目を見開いて僕らを見上げる。

「アンダーソン島で、安曇は君に殺されかけたと言ってた。あの大きな穴でだよ。安曇にその話を聞かされたとき、正直言って信じられなかった。だけど、君は本気で」

 そう言った僕を見つめながら、美月さんが、激しく首を振った。

「殺そうなんて思ってないわよ。わたしはただ」

「ただ、なんだよ!」

 首藤が怒鳴る。

 首をすくめた美月さんが、瞬間目を閉じる。

「安曇がどこへ行ったかなんて知らない。嘘じゃない。ほんとに知らないのよ。わたしは安曇に指一本触れてない!」

 そのとき、庭の向こうで、人工的な光が瞬いた。

 懐中電灯の光だ。

「誰だ?」

 首藤が背伸びをする。

「メアリーさんかな」

 僕も闇に目を凝らした。

「メアリーさんは、崖地の向こうへ搜索に向かったはずよ」

「だけど、ここへ登ってくるのは、彼女以外いないだろうし」

 メアリーさんの家の周りには、一軒も家はない。

懐中電灯の光は、徐々に近づいてきた。その足音も大きくなる。早く力強い足取りだ。

 お互いの顔が見分けられるほどの距離に、何者かは近づいてきた。うっすらと人影が浮かび上がる。何者かが持った懐中電灯の光が上下している。

「ニックじゃない?」

 美月さんが声を潜めた。

 確かに、その人影はニックだった。浮浪者のような風体は変わらないが、以前会ったときと雰囲気が違う。今日のニックは、どこかそわそわと落ち着かなかった。逃げるように、上へ上へと進んでいく。

 こちらの存在に気づいていないようだ。まさか、庭の端に人がいるとは思っていないのだろう。

 奇妙だった。ニックは安曇の捜索に加わってくれているはずだ。それが、なぜ、こんな場所を一人で歩いているのだろう。

僕らは息を潜めてニックが通り過ぎるのを見つめた。ニックの持った懐中電灯の光が、揺れながら進んでいく。

「そういえば」

 美月さんが、闇の中に目を凝らした。

「アンダーソン島から帰ってきた昨日の夜、ニックがわたしの宿にやって来たの」

「ニックが?」

 僕は訊いた。

この間に、ニックの姿は闇に紛れて見えなくなった。安曇の捜索には加わってくれないのだろうか。

「ニックの用は何だったんだ?」

 首藤の問いに、美月さんが口ごもる。

「なんだったかしら。あんまり憶えてないな」

「憶えてないって、つい昨日のことじゃないか」

「そう、そうだ」

慌てて付け加えた。

「UMAの出没スポットについての相談……」

「相談?」

「あ、相談じゃないわ。そう、教えてくれようとしたのよ、出没スポットを」

どこかか変だ。僕は首藤と顔を見合わせた。

「それで?」

「そのとき、ニックが言ってたわ。あんたのトモダチは犬が好きなんだなって」

「安曇のことだ」

 首藤が先を促す。

「わたしもそうだと思ったけど。特に聞き返さなかった。だって、まさか安曇が行方不明になってるとは思ってなかったから」

「それからニックには会ってないわけだ」

 すると、美月さんが慌てた様子で首を振った。

「実は今朝、ニックの小屋を訪ねたのよ」

「安曇を探す前だね」

 今朝、美月さんの宿へ行ったときを思い返した。美月さんは、散歩に出かけていたと言っていたが、ほんとうはニックに会いに行ったのだろう。

「ずいぶん、ニックと親しいんだな」

 首藤が探るように美月さんを見た。たしかに、親しすぎる。ニックと何を話したんだろう。

「スケイルマンの出現、じゃなくて出没スポットについて、ほら、少しで多く情報を集めたかったから」

 しどろもどろだ。美月さんらしくない。

「そのとき、ニックから聞いたのよ。安曇と昨日の夜会ったって」

 ふうんと、首藤は考え込んだ。

「安曇はなんでニックを訪ねたんだろうな」

「さあ、それはわからないわね」

 ようやく息ができたかのように、美月さんは余裕のある笑みを漏らす。

「で?」

 首藤が訊いた。

「でって、何よ」

「スケイルマンの出没スポットについて聞いたんだろ?」

「ああ。ああ――それね」

 大きな目が見開かれる。

「新しい場所はなかった。そう。何も聞けなかったわ」

「聞けなかった? ニックは昨日、わざわざ出没スポットを教えるために君を訪ねてきたんだろ? それで、君は詳しい話を聞きに、今朝ニックを訪ねたんだろ?」

「そうだけど。出没スポットについては聞けなかったのよ。それより重要なのは」

 そう言ってから、美月さんは早口になった。

「ニックが安曇と最後に接触した人物ってことじゃない?」

 首藤と目が合った。美月さんは何かを隠している。警戒心を緩めるな。首藤の目はそう言っている。

「ちょっと整理させてくれ」

 首藤が胸の前で腕を組む。

「アンダーソン島から戻ってきた翌朝、俺と峡は、安曇がいなくなったことに気づいた。安曇はアンダーソン島から戻ってきた夜に宿を出ていなくなった」

「ディエゴ爺さんの話によれば、メアリーさんの飼い犬のブブを安曇が探していたらしい。安曇はそのときニックに会ったんだよ」

 僕は言った。

「そう考えられるな」

 首藤の目が光る。

「ニックは、今日の午後、アリキの死体が発見されたとき、わたしたちと話をしたわね」

 美月さんが、僕と首藤を交互に見た。

「ああ。だが、昨晩、安曇と会ったとは言わなかった。あのとき、安曇が行方不明だとわかっていたのに」

「島の呪いだとかなんとかって話はしてたけどね」

 美月さんが頷く。

「ニックを追いかけよう。安曇の行方を知っているかもしれない」

 首藤の掛け声とともに、僕ら三人は、ニックが入った山道へ向かった。



 美月さんの懐中電灯が足元を照らす。

 ニックはどこへ向かっているのか。前方に見えるニックの持つ懐中電灯の光が、木々に見え隠れしながら山を登っていく。このまま進めば、山の南側へ向かう。

 だが、途中、ニックは、大きく進路を変えた。尾根へは出ずに、細く切り立った崖沿いの道へ出る。

「どこへ行くつもりなんだろう」

 首藤が呟いた。

「急いでるわね。何があったのかしら」

 美月さんが言うとおり、ニックの動きは慌てているように見えた。懐中電灯の光が、流れる水のように進んでいく。

「この道は北側の崖地へ通じると思う」

 僕は暗闇の中に目を凝らした。よくはわからないが、反対側の山へ向かっているのは確かな気がする。

 僕らは黙々と進んだ。もう深夜近い。ニックを追いかけて行けば、安曇の行方がわかると思ったものの、間違ってはいないかと不安になる。こうしている間にも、安曇が別の場所で窮地に陥っていたなら……。

 首筋に汗が滲んできた頃、ニックがはっきりと北側の崖地へ向かっているのがわかってきた。カウイやマヌたちと捜索に向かったとき、通った場所に着いたからだ。

 見覚えがあった。疲れて引き返したアメリカ人夫婦と別れた場所だ。石だらけの、荒涼とした風景が、懐中電灯の光に浮かび上がる。

「この先に、コモドオオトカゲのいる崖地がある」

僕は思わず足を止めた。

「進むのは危険だわ」

美月さんが不安気な声を上げた。

「また、俺たちを阻止しようってのか?」

 首藤が振り返って、怒鳴った。

「そうじゃないわ。ほんとに危険だと思うから言ってるのよ」

「だけど、行かないわけにはいかない」

 僕は頑として言い放った。首藤も賛同する。

「そうだ。行くべきだ」

 僕は美月さんから懐中電灯をもぎ取った。

「わかったわ。わたしも行く」

歩き出したとき、僕の膝小僧は若干震えていた。比べて、首藤と美月さんの足取りは力強かった。二人は知らないのだ。あのオオトカゲがどんなに恐ろしいのか。


点滅するニックの懐中電灯の光は、先へ先へと進んでいく。

こちらの姿には気づいていないようだ。懐中電灯の光は止まらない。

足元は、いつしか岩だらけになっていた。草木が途絶え、崖地が近いとわかる。

強い風が吹き始めた。ヒュウウと獣が泣いているような音をさせている。潮の臭いが立ち込める。

「左側に注意して。気をつけないと、崖に転げ落ちる」

 先を歩く首藤と美月さんに声をかけた。

「ニックは崖地に降りるんだろうか」

 首藤が僕を振り返った。

「まさか。降りたらコモドオオトカゲに食われるよ」

「じゃあ、あいつはどこへ行くつもりなんだ?」

 その問いに答えるように、ふいにニックの懐中電灯の光が止まった。そして光は、ふっと掻き消える。

「いなくなったわ」

 美月さんが声を潜めたまま、言った。

「急ごう」

 首藤が焦った声を上げたが、岩だらけの地面は走るわけにはいかない。のろのろと凸凹の小さな岩の山を上がったり降りたりして進む。

 ニックの姿が消えた理由がわかった。崖に面した地面は、急な下り坂になっていた。崖と平行にえぐれたようになっている。

「あ、あれ」

 懐中電灯を前方に向けた美月さんが声を上げた。

 崖の突端に、平屋の簡素な小屋が見えた。その向こうは、海だった。鏡のように平らな水面が見える。月の光が長い帯を引いている。

「ミゲル爺さんの小屋かもしれない」

 僕は呟いた。カウイたちが言っていた、ミゲル爺さんが、コモドオオトカゲを飼うために建てたという小屋だ。彼らは、その存在を信じていなかったが、ほんとうにあったのだ。

 それは、いかにも素人が建てたと思われる簡素な造りの小屋だった。月の光に浮かんだ小屋は、屋根も壁も板張りだった。その板もところどころ反り返っている。

「ニックはあの小屋に入ったんだわ」

 美月さんが言ったとおり、ポッと小屋の中に灯りが点るのが見えた。

「行ってみよう」

 懐中電灯を消し、月の光だけを頼りに小屋へ近づいていった。近づくにつれて、生臭い臭いが、風に乗って運ばれてきた。

「これは何の臭いかしら」

 不快そうに、美月さんが呟く。

「まるで、生き物を解体しているような臭いだわ」

 臭いは徐々に強くなった。嫌な予感がする。

 小屋の前まで来たとき、中から音が聞こえてきた。ドスドスと、何かを叩く音だ。そして突如湧き上がったグウォンという機械音。かなり大きな音だ。その後機械音は、ガーッガーッという音に変わった。

 小屋には一ヶ所だけ窓があった。そこからぼんやりと灯りが漏れている。

「あの音」

 首藤が小屋の壁に耳をつけた。

「ノコギリの音だ。電動ノコギリの」

「電動ノコギリ?」

 僕が思わず声を上げると、美月さんは人差し指を唇に当ててから、しゃがむように身振りで示す。

僕らは足音を忍ばせて、窓に近づいていった。

窓の下で体をすくめる。ニックに気づかれてはいない。相変わらず機械音が響いている。

首を伸ばし、窓から中を覗いてみた。

四メートル四方の殺風景な空間だった。壁は板の打ち付けで、床は土のままだ。ところどころにレンガが敷いてあるが、地面の石をどかすのが難しかったのか凸凹している。その床の上に、乱雑にいくつもの大きなバケツが置かれ、壁際に置かれた一つに、水が入れてある。

ニックの後ろ姿が見えた。大人が寝られるほどの大きさの作業台に向かって、こちらには背を向けている。手元を照らすためのスタンドから漏れる光に、床にニックの影が伸びている。

首藤が予想したとおり、ニックは手に電動ノコギリを持っていた。刃渡りが五十センチほどの大きなノコギリだ。そのノコギリから、機械音が響く。

だが、ニックが何を切っているのかは見えない。

小屋の入口のほうへ、首藤が顎をしゃくった。

小屋を回ると、板一枚の扉があり、壁の間に隙間ができている。覗いた僕らは、息を飲んだ。

ニックの足元に、大きな動物の死骸が横たわっている。おそらく羊だろう。内蔵は取り抜かれているが、体毛はそのままだ。

「ニックが羊を盗んでいたのか」

僕は首藤と頷きあった。

ニックはノコギリで羊の解体をしているようだ。

三十センチ四方の塊に切り分けられた肉は、ニックの傍らに置かれた大きなバケツの中に投げ込まれていった。それは、餌のように見えた。動物園で、大型動物に餌を与えるとき、あんなふうに大きなバケツに餌を入れるのじゃないか。

そう思ったとき、僕の中で、ばらばらだった映像が一つになった。

 首藤と美月さんの腕を引っ張る。

「何」

と、二人が同時に振り向く。

「ニックは餌の準備をしてるんだ」

 僕は囁いた。

「え」

 美月さんの目が見開かれた。

「何の餌だよ」

「ニックはコモドオオトカゲを飼ってるんだ」

「なんだって?」

「シッ」

 美月さんが首藤を制したが、遅かった。電動ノコギリの音が止み、ニックが後ろを振り返った。

「ヤバい」

 首藤がつぶやいたとき、ニックが乱暴にノコギリを作業台の上に置くと、こちらに向かってきた。

 石のように体を硬くしたまま、僕らは動けなかった。

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