第8話 五日目

 翌朝、僕たちは陽が上ってすぐに、島の反対側の海岸まで戻った。昨晩の激しかった嵐のおかげか、空も海も透明な美しさに輝いていた。

 まだひんやりとしている砂浜に座って、僕らは沖を見つめ続けた。


 船がやって来たのは、太陽がほぼ真上に近く上ったときだった。

 水平線にぽつんと、小さな点のように何かが見えた。それが雲の欠片でもなく鳥でもないとわかったとき、僕らは飛び上がって喜んだ。ああ、これで助かったと、大げさじゃなく安堵した。


「おーーーい」

「ここだぞーーーー」

「こっちよーー」

 じれったいぐらい、船はゆっくり近づいてきた。昨日僕らが乗った船だ。

 やがて、船の上から手を振る男の姿がはっきりと見え始めた。アリキだ。

「あいつ、笑ってるよ」

 安曇が憎憎しげに呟く。実際、手を振るアリキは、笑っているとまでは言わないものの、暢気そうに微笑んでいる。とても、妻が急病になった男の表情とは思えない。

 昨日、安曇が言ったとおり、アリキは美月さんの指示通りに動いているのだろうか。

 珊瑚礁の向こうの深い場所に、船は錨を下ろした。小さなボートが出され、アリキが漕いでくる。

 安曇がはじめにボートに乗り込み、次いで、美月さんと僕、そして首藤が乗った。

 来たとき、首藤は、美月さんのボートの乗り降りをかいがいしく世話していた。それが、なぜか、今は沈んだ表情でまるで美月さんを無視するかのようだ。乗った瞬間にぐわんとボートが揺れても、首藤は美月さんに顔を背けたまま、端に寄る。

 船に乗り込んでからも、首藤は美月さんを無視し続けた。黙ったまま、一人船室に行ってしまった。

 遠ざかっていくアンダーソン島を見納めていた僕は、そんな首藤が気になった。

デッキで過ごす美月さんを置いて、僕は安曇の袖を引っ張った。

 安曇は眠たげな目をして振り返った。

「首藤の様子が変だと思わない?」

「疲れてんだろ」

「それだけじゃないと思うんだ。なんか、いつもと違うよ」

 僕の真剣な表情に、ただごとではないと感じとったのだろう。安曇は僕といっしょに船室へ向かった。

 

 簡易ベッドのある部屋は、階下のボイラー室のすぐ横にある。波は穏やかで、手すりを掴まなくても歩くことができた。

 船室のドアは開いていた。首藤がベッドに座っているのが目に入った。

「首藤」

 首藤は弾かれたように顔を上げた。その表情に、僕らは胸をつかれた。こんな首藤の表情は見た憶えがなかった。眉間に皺を寄せ、唇を固く結んでいる。まるで、たった今、苦いものを飲み込んだかのようだ。

「どうしたんだよ」

 安曇が訊いた。首藤は昏い目でドアに向けて顎をしゃくる。安曇は戸惑ったまま、ドアを閉めた。

 

「俺、降りるわ」

「降りるって、何をだよ」

 安曇が訊いた。

「だから、スケイルマン探しを止めるってこと」

「何言ってんだよ、おまえ」

「悪いけどさ、俺、あんなの耐えられないから」

「あんなのって、なんだよ」

 安曇は喧嘩腰だ。

「美月さんと出かけたとき、聞こえてきたんだ」

「聞こえてきたって、何が?」

 僕は言いながら、ぞわりと背中に冷たいものを感じた。それぐらい、首藤の声は重い。

「声だよ」

「声?」

 安曇が目を光らせる。

「鳥かアザラシの鳴き声かと思ったんだ。でも、もっとなんていうか、感情があるっていうか、切ない……」

 そして首藤は、両手で顔を拭ってから、

「人間の声なんだ、あれは、絶対人間が泣いている声なんだ」

そう言って、僕と安曇を見据えた。

「人間?」

 安曇と僕は同時に叫ぶ。

「女だと思う」

 安曇がプッと吹き出した。

「聞き違いだよ。なんであの無人島に人間の女がいるんだよ。おまえ、美月にボーッとして変な声を聞いちゃったんじゃないの?」

「違う!」

 首藤が目を剥いた。心底怯えているのがわかる。

「聞き間違いなんかじゃない! たまらなくなって逃げようとしたら、美月さんが言ったんだ。あれは恨みを持ってる者の声だって」

「恨み?」

 安曇の声が裏返った。

「恨みって誰にだよ」

「俺に」

 首藤は深刻な目で答える。

「実は俺、おまえたちのUMA探しに参加したのは、逃げるためだったんだ」

「逃げる? 何から?」

 訊ねる僕に、首藤は恨めしそうな目を返す。

「何もかもからだよ。大学からも九州の実家の親からも。もうたまらなかったんだ」

「何があったんだよ」

「生まれるんだ、もうすぐ」

「えっ?」

 僕は安曇と顔を合わせた。

「九州の実家の近くで、ちょっと付き合った女がいて……。妊娠しちゃったんだよ」

「おまえ、結婚するのか?」

 安曇が呆れた調子で訊く。首藤は首を振った。

「しない。できない。親は猛反対してるし、しかも、もう一人、沙耶香が」

 首藤は声を詰まらせた。指先で目頭を揉む。

「……沙耶香が由紀の妊娠を知って、自殺未遂を起こしちゃって」

「ちょ、ちょっと待てよ」

 安曇が僕を振り返りながら言った。

「わけがわかんないよ。整理させろ。その沙耶香ってのは誰なんだよ」

「付き合ってた女」

 首藤が呟く。

「由紀って女が妊娠してるんじゃないのか?」

「沙耶香は由紀の前に関係があって」

「その沙耶香って子が自殺未遂?」

 なんだか、わかりにくい。

「そう。なんというか、沙耶香とは別れ話でもめちゃって」

「それなのに、由紀って子と親しくなって、それでその子が妊娠したってわけか」

 頷く首藤に、安曇がため息をかぶせる。

「だったら、しちゃえばいいじゃん。その由紀って子と」

「無理だよ」

「なんで?」

 僕は訊いた。

「いや、俺、もう結婚してるから、戸籍上は」

 へっ?と、僕と安曇は口を開けたまま、言葉を返せなかった。

 まったく首藤には驚かされる。

「おまえ、結婚してんの?」

 安曇の裏声が、耳ざわりだ。

「まあ、な。今はまったく付き合いはないけど」

 首藤は四歳年上だ。結婚していてもおかしくはないが……。それにしては、大学で会う首藤は、キャンパスの女の子たちと楽しくやっていた。それも一人や二人じゃない。

 がばっと俯いて、首藤は両手で頭を抱えた。

「ともかくさ、俺、聞いたんだ。泣いてる女の声と、それから泣いてる赤ちゃんの声」


「赤ちゃん?」

 僕と安曇は顔を見合わせた。

「そう。絶対あれは、赤ちゃんの声だと思う。由紀も沙耶香も、子どもを堕ろした経験があるんだよ。恨まれてるんだ、俺。そうだとしか思えない」

 もう、呆れて言葉が出てこない。

「美月さんには聞こえなかったんだ」

 呆れた表情のまま、僕と安曇は首藤の言葉を待つ。

「聞こえたのは、俺だけ」

「ということは」

「そう。アリキに聞いた島の言い伝えを憶えているだろ? 後ろめたき者には声が聞こえるって」

「だ、だけど」

 僕は首藤を励ました。

「不気味な声を聞いたのはアンダーソン島じゃないか。ラパ・マケ島の呪いは関係ないよ」

 即座に首藤が首を振る。

「美月さんが言うにはな。アリキの呪いの話は、ラパ・マケ島を含む、この諸島全体に伝わってるらしいんだ。元々は一つの島だったものが、火山の噴火で分かれたんだってさ」

 そして首藤は、ズボンのポケットからスマホを取り出した。

「俺、削除するよ」

 首藤の指が、スマホの画面を滑る。

「いままで撮った俺たちの探索の画像を全部削除する。もう、俺は降りるんだから必要ない」

「何も削除しなくたって」

 僕は止めようとした。日本に戻ってから編集すれば、どんな場面だって使えないこともない。

「いや、削除しなきゃ嫌なんだ。この諸島が映っている画像を持っていたくない」

「もったいないよ」

 すると、首藤は顔を上げて、僕と安曇を見た。

「ごめん。俺、いままで、撮った画像、全部、美月さんに渡してたんだ」

「え?」

 僕と安曇が同時に声を上げた。

「美月さんの気を引きたくてさ」

「おまえ、裏切ったな」

 安曇が首藤を睨む。

 気まずい沈黙に包まれた。安曇は目を逸らし、首藤は俯いてしまった。

 あんなに光り輝いていた僕らの共通の目的が、空中分解してしまった。安曇は美月さんに殺されかけたと言い出し、首藤は島の呪いに怯えている。

 

 それぞれ分かれてからも、僕は悶々とし続けた。首藤が聞いたという不気味な泣き声が聞こえてきそうで、何度も船の古びた壁に目を凝らした。

 そして、美月さんとの会話も、蘇っては僕の胸を掻き乱した。

――峡くんなら、一人でスケイルマンを見つけられるんじゃない?

 首藤がスケイルマン探索から降りると言い出して、美月さんの言葉が現実を帯びてきた。もし、もしも安曇がいなくなったら、僕は美月さんと二人でスケイルマン探しを始められる。

 薄い毛布の中で、僕は闇を見つめ、それから激しく首を振った。

「そんなこと考えてはいけない」

 船が大きく傾き、僕は床の上をズルズルと這った。有難いことに、波はしばらく収まらず、僕は自分自身の悪魔の声から逃れることができた。


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