第10話 六日目 2

「おまえたち、どうしてここにいる」

 

 初対面のときのニックとは別人のようだった。ホームレスのような風体は同じだが、それがかえって凄みを増す。

「何しに来た」

 前へ踏み出した途端に、生臭い臭いに圧倒される。海岸で嗅いだアザラシの生臭さとは違う、もっと油っぽくて粘りのある臭いだ。横で美月さんが呻いてから、両手で口を塞ぐ。

「安曇はどこにいる」

 首藤が訊いた。

「アズミ?」

「俺たちの仲間だ」

「ああ、そういえば、いなくなった日本人がいたんだったな」

「昨日の夜から行方がわかっていない」

 だが、ニックの表情は変わらない。

「安曇はどこだよ」

 僕は声を上げた。

「安曇が行方不明になる前に、あなたは話をしたでしょう?」

 美月さんが叫ぶ。

 ニックは不敵な笑顔になった。

「俺の家を訪ねてきたんだ。犬を探していると言っていた。メアリーのところの小さい犬だ」

「それで?」

 美月さんが訊く。

「あんな犬、知らないと言ってやったんだ。ところがあの日本人、俺の言うことを信じなかった。犬は俺の家に入ったといって聞かないんだ」

 安曇はブブがニックの家に入ったのを見たのかもしれない。

「すごい剣幕だったよ。犬を返せと怒鳴りやがった。それで、UMA出現スポットを案内してやろうと提案したんだ。ガイド代を払えば、犬の行方もついでに教えてもいいと話した」

「あんた、ブブの行方を知ってるのか?」

 首藤が詰め寄った。咄嗟にニックは電動ノコギリを手にする。

「あんな犬、どうだっていいじゃないか。大体な、この島で犬を飼うとはお笑い草だ。この島は、人間の食う物だって満足に手に入らないんだ。食料のほとんどを、貨物船から買っているのを知っているだろう? それを、あんなちっぽけな犬のために、あの女は人間様と同じ食事を与えてるんだ」

 ふと僕は背筋が寒くなった。ニックは島の家畜を盗んでいる。おそらく、盗んでいるのは家畜だけではないのだ。目的は、コモドオオトカゲの餌にするためだ。それなら、犬だって餌になる。そして人間も……。

 

 僕はバケツの一つ一つを見ていった。どのバケツにも、動物の死骸が入っている。すぐに羊とわかるものが数個。他は見当もつかない。

 ディエゴ爺さんが言っていた。この島で、何かよくないことが起きていると。ディエゴ爺さんは、それを呪いだと言っていたが、ニックの仕業だったのだ。

「あんた、ブブを餌にしたな!」

 気が付くと、僕は叫んでいた。

「ブブだけじゃない。島の家畜を盗んだのもあんただろ!」

 ニックの表情が強張る。

「なぜ、あんたが家畜やペットを盗むのか? あんたはコモドオオトカゲを飼育してるんだろ!」

 ニックが一歩下がった。電動ノコギリを手にしたまま、目を怒らせる。

「ミゲル爺さんという人が、コモドオオトカゲを飼育し始めたってのは本当だったんだな。島の人たちは、ミゲル爺さんが死んでから、コモドオオトカゲもいなくなったと思ってる。だけど、あんたが引き継いでたんだ」

 ふんと、ニックが鼻を鳴らした。

「それがどうしたっていうんだ?」

「無謀だわ! コモドオオトカゲをここで飼育するなんて!」

 美月さんの叫びに、ニックは目を剥く。

「無謀だと? 俺はあいつらを生かしてやってるんだぞ! 餌はアリキが調達してくれたよ。やつは家畜を盗むのがうまいんだ。わずかな報酬でもあいつは張り切って仕事をこなしてくれたもんだ」

 メアリーさんの予想は当てっていたのだ。アリキは島民の家畜を盗み、ニックに売っていたのだ。

「この島にコモドオオトカゲの食料はないわ。もし飢えて、島民を襲ったら? コモドオオトカゲは毒を持っているのよ!」

美月さんの言うとおりだ。コモドオオトカゲの歯には、捕食されたものを敗血症に至らしめる菌がある。

 ふふっと、ニックは嫌な笑い方をした。

「俺がいる限り、あいつらは生き延びるだろうよ。俺はな、ミゲル爺さんが残した一対のコモドオオトカゲを引き継いだ。やがて、この雄と雌から卵が生まれた。俺は大切に大切に育ててやったんだ」

 そしてニックは、苛立った目で傍らのバケツを見た。

「おまえらなんかと話している暇はないんだ。今日はまだ餌を与えていない。あいつらは腹を空かせて俺様が来るのを待っているんだ」

「なんのために」

 首藤が呻いた。

「あんた、なんでそんなことをしてるんだ? 島の家畜やペットを盗んでまで、なんであんな怪物を飼ってるんだよ」

「怪物じゃない!」


 ニックが怒鳴り声を上げた。

「俺はこの島を征服する王となるんだ。大トカゲどもを従えて、この島に君臨するんだ。大トカゲたちは、俺の手下となって動くだろう。ケチな島民たち、とりわけ移住してきた外国人たちを貪り食って、俺の邪魔をする者は一掃される」

「あんた、何を言ってるんだ?」

 だが、ニックはもう、首藤の顔を見ていなかった。僕の顔も美月さんの顔も見ていない。ギラギラと輝く目は虚ろだ。

「――あんた、狂ってるよ」

 ふたたびぞわりと背筋に怖気が走る。狂った男なら、安曇を大トカゲに差し出したっておかしくない。

「安曇はどこだ?」

 僕はニックに迫った。もう、我慢ができない。こんな狂った状態はたくさんだ。

「安曇を出せ!」

 途端に、ニックが電動ノコギリを作動させた。鋭い刃先が動き始める。こんなものに襲われたらひとたまりもない。

 そのとき、背後で美月さんが叫んだ。

「ノコギリを捨てなさい!」

 ニックの表情が歪み、すぐさま、ノコギリの歯が止まった。

 僕は後ろを振り返った。

 美月さんがピストルの銃口をニックに向けている!

 いや、あれは本物のピストルじゃない。UMA探しに出かける日、美月さんが見せてくれたエアガンだ。美月さんは、着ていたパーカでエアガンをくるみ、銃口の部分だけをニックに見せている。


「手を頭の後ろで組みなさい!」

 ニックが言われたとおりに、手を頭の後ろで組んだ。すっかり本物の銃だと信じているようだ。

「安曇はどこ? 言わないと撃つわよ」

 ニックが激しく首を振った。

「撃たれたいの?」

 美月さんが叫ぶ。この間、僕と首藤は、ただ呆気に取られて事の成り行きを見ていた。美月さんの真に迫った芝居に圧倒されている。

「ほんとに知らないんだ。俺の家の前で別れたきりだ」

「信じられないわ。あんたがもし、安曇を大トカゲの餌にしたんだったら」

 そう言ったとき、ニックが叫んだ。

「俺がどうしてあの日本人を殺さなきゃならない? あの日本人は、俺やアリキにとっていいカモだったのに!」

「カモ?」

 僕と首藤は顔を見合わせた。美月さんが畳み掛ける。

「カモってどういう意味よ?」

「俺とアリキはあの日本人を、UMAの出没スポットに連れて行こうと計画していたんだ」

「なぜ安曇だけに?」

 僕は不審に思った。安曇は僕と首藤に内緒で、自分だけでUMAを見つけようとしていたのだろうか。


「あのアズミという男が、見つけたくて焦っていたからだ。どうやら、あんたより」

 そう言って、ニックは腕を頭の後ろで組んだまま、美月さんを顎でしゃくった。

「あんたより先に見つけたかったようだな」

――美月の思い通りにはさせない。

 安曇の声が蘇る。安曇はアリキに独自に接触して、UMAスポットを教えてもらうつもりだったのだ。

「じゃ、安曇はアリキと?」

 そう呟いた美月さんは、不安な目で僕と首藤を見た。無理もない。アリキは惨殺されている。アリキと接触したのが安曇だったなら、安曇は殺人犯として疑われてしまう。

 ニックが薄笑いを浮かべた。

「あの日本人が俺と別れたあとアリキに会ったのなら、アリキはあいつに殺られたのかもしれねえ」


「ふざけるな!」

 首藤が怒鳴った。

「なんで安曇がアリキを殺さなきゃならない?」

「おそらく、バレちまったんだ。それで喧嘩にでもなったんだろう」

「バレた? なんのことだよ」

 ハッハッとニックは声を上げて笑った。

「おまえらにスケイルマンの正体を教えてやろう。スケイルマンは、アリキだ」

「ニック、黙って!」

 美月さんが叫んだが、ニックは構わず続ける。

「俺たちはUMAがらみの観光客が来るたび儲けさせてもらったよ。俺が出没スポットへ連れて行く。その前に、アリキがその場所でスケイルマンに扮装して待機するってわけだ」

「なんだって?」

 僕と首藤が同時に声を上げた。

「じゃあ、あんたが教えてくれた崖地で見たスケイルマンも、洞窟で遭遇したスケイルマンも、あんたらのヤラセってことかよ」

 脱力したように、首藤が呟く。

「もしかして、アリキの息子のポエが洞窟のことをしゃべったのも、あれもヤラセだったのか?」

「全部計画通りだよ」

 ニックが高らかに笑った。

「おまえら、まさか本気でスケイルマンがいると信じてたのか?」

「知ってたの?」

 美月さんを振り返った。目を逸らした美月さんが唇を噛む。

「その女が知ってたかどうかだって? この計画を考えたのは、その女だよ。そいつは、日本から来るおまえたちを騙そうと俺とアリキに持ちかけてきたんだ」


「まさか」

 首藤が美月さんを見つめる。

「アンダーソン島のあの声……。まさか、あれも」

 ふたたびニックが笑い声を漏らし、美月さんに顔を向けた。

「あんたの言ったとおりだ。後から来る日本人は騙され易い」

「なんだと!」

 首藤が怒鳴る。

「おまえらのその美人のオトモダチは金持ちだな。アリキがスケイルマンに扮するたびに、たっぷり謝礼をくれたよ」

「君が全部仕組んだのか?」

 事態が理解できない。次々と、想定外の事実が明らかになる。

「もしかして、俺が聞いた女の声も」

 美月さんが無表情のまま顔を背ける。

「あれも仕組んだのか?」

 美月さんが頷いた。

「アリキに頼んで、わたしたちが探索している間に、あの場所へボイスレコーダーを隠してもらったのよ」

「ボイスレコーダー……」

「日本で事前に録音しておいたのよ。若い女性の声を。あの場所に着いてから、君にばれないように電源を入れたの」

「だけど」

 僕は訊いた。

「首藤が女の声に怯えるとどうして知ってたの?」

 他の声なら、首藤もあれほど怯えなかっただろう。首藤の中にある罪悪感を声は露呈させた。


「もしかして」

 首藤が呻く。

「君、俺のこと、調べてきたわけ?」

 ごめんねと言うように、美月さんが首を傾げる。

「この計画を立てたとき、安曇を出し抜くには、安曇の仲間も調べておかないとうまくいかないと思った。調べるのは簡単だったわ。首藤くんのツイッターに、出身高校の話題があったでしょう? そこから同じ高校出身の人を探して噂を仕入れたの」

「じゃ、僕のことも?」

 申し訳なさそうに、美月さんは頷いた。

「でも、あんまり使えそうなネタは仕入れられなかったけど」

 使えそうなネタ。たしかに、僕のような平凡な人生では、脅しに使えるネタはないのかもしれない。それが良かったのか、悪かったのか。


「なんのために? なんのためにそんなことを」

 首藤が怒鳴り、美月さんの肩を掴む。

「理由を言えよ。なんでこんな手が込んだことをしたんだよ!」

「離して!」

 振り払われた腕を、首藤は呆然と下ろした。

「どうしてだよ、どうしてそんなこと」

「わたしはね、君たちみたいな夢見るおぼっちゃまじゃないの。採算が取れない案件に大金をかけたりしないわ」

「採算が取れる?」

 僕が呟くと、美月さんは不敵な笑みを浮かべた。

「そうよ。この島でUMA探しをするためにどのくらいの費用がかかっているか、君たちもよくわかってるでしょ。ましてわたしは、君たちよりも個人でここに来ているから、もっと費用は嵩んでるのよ。手ぶらで帰るわけにはいかないわ」

「だけど、君は金持ちなんだろ? マッチングアプリ事業を成功させた起業家なんだろ?金はたっぷりあるはずじゃないか」

「その事業、売却したって話だよな?」

 首藤が僕の問いに続いた。

「かなりの額で売れたんだろ? それからまた新しいアプリを開発したって。それなのに、なんでそんなに金に執着してるんだよ」

「あのね、事業には、うまくいくものもあれば、うまくいかないものもあるの」

 目が血走っている。

 ふと、深刻に金に困っているんじゃないかと思えた。もしや、なりふり構っていられないほど、金が欲しいのか?


「もしかして、うまくいってないの?」

僕の疑問に、美月さんは瞬きを繰り返す。

「金に困ってるんだな?」

首藤が言う。

「借金があるとか?」

 当たりだ。美月さんの視線が泳ぐ。

「いくら、あんの?」

 僕も目で問う。

「六千万」

 ぽつりと呟き、視線を逸らす。だが、すぐさま大きな目で見据えられた。バサリと長い髪を払って、エアガンを握り直す。

「わたしはね、今をときめく女性起業家なのよ。この若さで、成功した女なのよ。失敗するわけにはいかないの。なんとしてでも、会社を潰したくないの」

 荒くなった息を、美月さんは整える。

「起死回生のアイデアを探してたときよ。偶然、中学の同窓会があったの。それで、安曇がこの島を目指してると、スケイルマンとか呼ばれている謎の生物を探していると、同級生から聞いたのよ。おもしろいと思った。これはいけると思ったわ。謎の生き物を捕らえる大学生を撮ったら、人気の動画になるとひらめいたの」

「だから、この島へ」

 どこにいても、何をしていても、動画撮影をしている美月さんの姿が思い出された。僕らを執拗に撮影していた。あれは、金になる動画を撮るためだったのだ。

「大変だったわ。準備期間が短くて。わたし、君たちと違ってなんでも用意周到にしなきゃ気がすまないから」

「金のために、偽のスケイルマンをでっち上げたのか? アリキやニックと仕組んで、俺たちにスケイルマンの片鱗を見せたのか?」

 首藤の声は怒りで震えた。

「わたしが始めたことじゃないわ。ニックとアリキはスケイルマンに扮して、観光客たちに見せてたのよ。それをイギリス人の大学生がネットにアップしたんだから」


「なんでそんなこと」

 首藤が呻く。

「なんで? 観光客を呼ぶためよ。そうでもしなきゃ、こんな孤島に誰が来てくれるの? UMA騒動が持ち上がってから、島にはたくさんの観光客が来てくれた。空家同然で困っていた家は、宿泊施設として有効活用できるようになった。わずかだろうけどお土産だって売れただろうし」

「ちょっと待てよ」

 首藤がムキになった。

「チリ人の漁師の動画はどうなんだよ。あれはこの島の画像じゃない。チリまでニックやアリキが行ったって言うのかよ!」

「どこにでもいるってことね。でっち上げをする人間は」

 美月さんが鼻で笑う。

「目を覚ましてよ。スケイルマンなんて、い・な・い・の」

 そうかもしれない。UMAなんて、元々誰かのでっち上げかもしれない。ヒマラヤのビッグ・フットもネス湖のネッシーも。

 だけど、誰もそれらのUMAが存在すると証明できないが、存在しないとも証明できないじゃないか。人間が足を踏み入れてないどこかに、人間がいまだ知らない未知の生物がいる。そう思っていた。思いたかった。

 そして、もう一つの僕の甘い夢は、完全に打ち砕かれた。


 美月さんと二人でスケイルマンを見つけ、ヒーローになるという夢。


 ハハハッと、ニックの笑い声が響いた。

「アリキが、またあんたに金を要求しただろ?」

 ニックが美月さんに言う。

「だが、あんたは支払わなかった。だから、アリキはおまえらの仲間のアズミに、絶対にスケイルマンが見つかる場所を案内するとでも言ったんだろう。だが、そんな場所は有りはしな――」

 ニックが言い終わらないうちに、ドドドッと地響きのような音がした。

「何?」

 美月さんが怯えた声を上げた。地面を叩くような音だ。音は徐々に近づいてくる。

「ヤツらがそろそろ腹を空かせてる時間だ」

「大トカゲなのね? だから、あんたはここへ通じる道を捜索させてはいけないと言ったのね?」

「それが、捜索ルートから、安曇の眼鏡が落ちていた道を外した理由なのか?」

 首藤が目を剥いた。

「そうよ。ニックに言われたの。ここへ通じる道へ、島民たちを寄越してはいけないって。だから仕方なく。何か理由があるとは思ったけど、まさか大トカゲを飼ってたなんて」

 やはり、美月さんは、僕が安曇の眼鏡を拾った道に島民が近づかないように仕向けたのだ。安曇の発見が遅れるかもしれないのに。だから仕方なく。ほんとうだろうか。僕は美月さんをさらに信じきれない。

「この小屋の裏手に、崖地から続く道がある。あいつらは俺が来ると、その道をやって来る。小屋の裏には餌場がある」

 そしてニックはしたり顔になった。

「さあ、どうする? 俺をその銃で殺しちまったら、あんたらは大トカゲの餌食になるぞ」

 ドスドスという足音が大きくなった。何頭いるのか。二、三頭とは思えない足音だ。

 僕らの逡巡をいいことに、ニックはふたたび電動ノコギリのスイッチを入れた。ガーッという電気音が大きく響く。同時に、大トカゲのものと思われる足音も近づいてきた。この機械音が餌の時間の合図となっているのだろう。

「さあ、俺は仕事に取り掛かるぜ。かわいいあいつらのためにたっぷりと」

そのとき、ドンッと激しく背後のドアが叩かれた。

「なんだ?」

 ニックの表情が青ざめた。

 ドスッドスッと、ドアが押される。


「まずいわ。きっとここまで来たのよ!」

 美月さんが叫んだ。

「おかしいぞ! あいつらは小屋の餌場に向かうはずだ!」

ニックにも想定外の出来事らしい。ノコギリの歯を動かしたまま、呆然と立ち尽くす。

「大トカゲが来たっていうのかよ!」

 叫んだ首藤を無視して、美月さんが小屋にある唯一の窓に走り寄った。

「来てるわ! 来てる。何頭いるのよ!」

 美月さんが向けた懐中電灯の光の先に、不気味な黒い影が見えた。コモドオオトカゲだ。一、二、三、四頭。いや、まだいる。その後ろにも影は迫ってくる。

 ガンッとノコギリを投げ捨て、ニックも窓に走り寄った。

「なぜだ!」

 ニックが金切り声を上げた。

 ガスッ!

 ドアに大トカゲがぶつかる音が響いた。


「逃げなきゃ!」

 美月さんも金切り声を上げる。

「どこへ逃げるっていうんだよ! 出口のドアには大トカゲが来てるんだぞ!」

 首藤が泣きそうに叫ぶ。

「窓だ!」

 僕は叫んだ。

「窓から逃げよう!」

 開け閉めのできない、格子に硝子をはめ込んだだけの窓だった。硝子はすぐに割れた。そのまま力を込めて、格子ごと突破らう。

「無理だろ! 下にはあいつらがやって来るぞ!」

 首藤が叫んだが、僕に続いて窓に足をかけた。

「ワーッ」

 叫んだのは三人同時だった。

 小屋の入口に集まっている。象のような肌をした何頭ものコモドオオトカゲだ。頭部をぐらぐらと揺らしながら、小屋のドアを押している。

 その中の何頭かが、鼻先を僕らのほうへ向けた。

 まるで尻に火を点けられたみたいに、僕らは窓枠に足を掛けた。そのまま体を上に持ち上げる。


「屋根へ、屋根へ登るんだ!」

 僕が叫んだと同時に、ドドッと音がして、背後のドアが蹴破られた。その瞬間、わわああとニックが叫ぶ。

 何頭もの大トカゲが小屋の中に入り込んできた。灰色の玉のように、いっせいに餌をめがけて走り回る。

「無理! ズレ落ちそう!」

 屋根の端に手をかけた美月さんが泣き声を出す。

「いいから、上に!」

 首藤が叫びながら、美月さんの体を持ち上げた。その拍子に美月さんの体が上へ上がる。続いて、足を大きく開いてバランスを取った首藤が、勢いよく体を持ち上げた。そのまま屋根へ上がる。

「ヤバい! 首藤! 助けてくれ!」

 僕は叫んだ。窓の下に、一頭が近づいている。

 屋根に上がった二人が、僕の両手を取った。

「手を放すな!」

 もう、ダメだ。足先が大トカゲに食われる!

 

 そう思った瞬間、僕の体は窓枠を超えて屋根にたどりついた。

 屋根は簡易な板張りだ。何度も滑り落ちそうになりながら、てっぺんを目指す。

といっても、そう勾配のある屋根ではない。

 荒い息を吐きながら、ようやく屋根のいちばん高い場所にたどり着いた。 

 その途端、

「あっ」

と、首藤が叫んだ。

「おい、あれ」

 怯えた首藤の声に、愕然とした。僕らと同じように、大トカゲが窓を伝ってこようとしている。

「コモドオオトカゲは木登りが得意だと何かで読んだ覚えがあるわ」

 美月さんが震えながら叫んだ。

「登ってくる!」

「美月さん、銃!」

 首藤が叫んだ。

 あたふたと美月さんが銃を構えた。屋根に顔を出した一頭をめがけて撃つ。

 プシュッと銃声が鳴り響いたが、エアガンでは迫力に欠ける。だが、銃声に驚いた大トカゲは、そのまま地面に転がり落ちた。

「やった!」

 喜んだのも束の間、また別の一頭が顔を出した。

「撃て! 撃ちまくれ!」

 プシュッ! プシュシュシュッ! 首藤の急き立てる声とともに、銃は連射された。そして銃はふいに静かになった。弾がなくなったのだ。


「どうする?」

 首藤が僕を振り返る。

「どうするって」

「逃げましょ!」

「どこへ逃げるんだよ!」

 首藤が怒鳴る。

 そのとき、小屋の中で悲痛な叫び声がした。人の断末魔の叫び声だ。

「ニックが殺られたんだわ」

 美月さんが蒼白な顔で呟く。その間にも、不気味な重い足音は途絶えなかった。大トカゲたちが、ニックにむしゃぶりついているのかもしれない。美月さんが意を決したように、小屋の周りを懐中電灯で照らした。


「いい? ここから飛び降りて、あの岩まで走るわよ」

 七メートルほど先に、大きな岩がある。その先から崖を登れば、上へ逃げられる。 

 大トカゲに、あの崖を登るのは無理だ。

「飛び降りるって、下にはあいつらが」

 僕の問いに、美月さんはカッと目を見開いた。

「見て! 大トカゲたちは、餌を求めて小屋の中に群がり始めたわ。多分、ニックから流れ出した血の臭いに誘われているのよ」

 ぞっと寒気がした。ニックはどんな姿になっているだろう。電動ノコギリで解体していた羊のように、彼の体も無残な目に遭っているのか?

「今がチャンスよ。飛び降りて、走って逃げるのよ!」

「だめだ。すぐに追いつかれる。あいつらの足は速い」

異を唱えた首藤を、美月さんが睨みつけた。

「だったら、ここに残ればいいわ。あいつら、小屋の中の物を食べ尽くしたら、きっと屋根に上がって来るわよ」

「おまえの言うことなんか信用できないよ!」

 とうとう首藤がキレた。

「俺らを騙そうとしたくせに。信用しろって言うほうが無理だ!」

「今はそんなこと言ってる場合?」

 選択枝はないのだ。

「いい? 飛び降りたら、真っ直ぐ走らないこと。ジグザグに走るの」

 早口で美月さんがまくし立てた。意味がわからない。首藤が訊いた。

「なんでだよ。そんな走り方じゃ追いつかれるぞ」

「コモドオオトカゲの目は顔の両脇に付いてるの。だから、死角があるのよ。ジグザグで走る獲物は追えないわ」

 さっきまで怯えていた美月さんは、すっかりいつもの強気を取り戻していた。ニックの断末魔の声を聞いて覚悟が決まったのかもしれない。

「ともかくあの岩まで走るのよ!」

 そう言った途端、美月さんが屋根から飛び降りた。

「行けよ、首藤」

「おまえこそ」

 そう言いながら、僕らは同時に飛び降りた。お互いの表情がはっきり見えなかったのが幸いだ。見えていたら、さぞかし情けない顔をしていただろう。



「痛っ」

 地面に飛び降りた途端、足首に激痛が走った。まずい。捻挫したか。だが、起き上がることはできた。その途端、生臭い臭いに吐き気が襲ってくる。

「ワアアアァ!」

 首藤が転がりながら離れていく。

腰を抜かしそうになった。目の前にいる! 真っ黒で大きなトカゲ!

 中腰のまま、後ずさりし走り出した。すぐさま黒い影も追いかけてくる。

 視界の先には、美月さんの懐中電灯の光があった。それを目印にひた走る。首藤はどっちへ走ったのかよくわからない。

 光は左右を行ったり来たりした。ジグザグに進んでいるのだ。そうだ。ジグザグに走らなければ。右に向かって走った。そして左へ。だが、後ろの影は執拗に追いかけてくる。


 おかしい。なぜ、追いかけてくる?

痛みが走った足首に手をやった。ぬるっとした感触を指先に感じた。血だ。大トカゲはこの血の臭いを追っているのだ。

 それからどんなふうに走ったのかわからない。気がつくと、崖下に来ていた。頭上に、徐々に遠ざかる懐中電灯の光がちらつく。


 頭の中が真っ白なまま、登り始めた。何度も足を滑らせながら、そのたび岩にしがみついた。

 息が切れそうになったとき、ようやく平らな地面に触れた。崖上にたどり着いたのだ。

「首藤! 美月さん!」

 叫んだ途端、前方から返事があった。

「峡!」

 首藤だ。美月さんは、返事の代わりに懐中電灯を掲げてくれた。その光に向かって這っていく。

 力が尽きそうになったとき、首藤の腕に引っ張られた。

 

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