第3話

 ワヒネの崖から戻った僕たちは、宿で泥のように眠りこけた。

 

 目が覚めたとき、雨はやんでいた。

 世界はずっと昔から夕暮れだったかのように、静かで、どこかほっとする気配をただよわせている。

 

 薄いマットレスのベッドの上で、僕は大きく伸びをした。首藤は横でまだ眠っている。安曇は、いなかった。そう思ったとき、庭の隅、カヤツリ草が生えたところに、安曇を見つけた。ブブを相手に遊んでいる。

 安曇と声をかけようとしたとき、ブブが大きな声で吠え始めた。ブブは庭先に顔を向けている。

 ブブの視線の先に、男と子どもの姿が見えた。ワヒネの崖で会った二人だ。

う~んと唸り声を上げて、横で首藤が起き上がった。


「お、やって来たな」

 首藤はそう言って笑顔になり、向かってくる二人に手招きした。

「来ると思ってたよ。あいつは情報を売りたいんだ。俺はそう踏んでた」

 僕は見上げるような気持ちで、首藤を見た。首藤は他大学に在籍したのち、二浪の末に僕と同じ大学に入学した。年齢は四歳上。大人なのだ。情報とは金で買うものと理解している。

「美月さんに連絡しよう」

 もし、崖の男がやって来たら、すぐにスマホで知らせる約束をしてある。

 と、僕がスマホを取り出したとき、安曇に制された。

「美月には言うな」

 首藤を振り返ると、残念そうな表情をしたものの、異を唱えない。

 僕はスマホをポケットにしまった。たしかにここで美月さんが登場したら、リーダーシップは彼女に取られ、僕たちはまた荷物運びになってしまう。

 安曇の合図で、男が家の中に入ってきた。昼間会ったときより、腰が低く見えた。少年は相変わらず怯えた目で、彼の後ろに控えている。

と、庭からブブが駆け込んできた。ブブは少年に興味津々だ。少年は顔を上げて父親の許しを伺ってから、嬉しそうにブブを抱き上げた。おかげで、少年の緊張はすっかりほぐれたようだ。

 ブブと少年が遊べるように、僕はリュックの中から拳大のボールを出した。握力をつけるために、暇になると握るボールだ。

 ボールを投げてやると、ブブは弾けるように駆け出し、少年も後を追って庭へ出て行った。


「よく来てくれた」

 首藤は男のために部屋の中の荷物を脇へどけ、座る場所を作った。そしてリュックの中から、マンガレバ島の空港で買ったミネラルウォーターのペットボトルを出し、男にすすめた。

 男は笑顔でペットボトルを受け取ると、すぐに蓋を開け、ごくごくと飲み始める。

首藤が切り出した。

「俺たちにはわずかな情報しかない。UMAがどのあたりにいるのか予想はついているんだが、確信が持てなくてね」

 男は黙ったまま、顔に取って付けたような笑顔を貼り付けて、僕たちを見回した。いつのまにか、安曇も僕の後ろに立って事の成り行きを見守っている。

「もし、確かな情報をくれるんなら、報酬を渡してもいい。ただ」

 首藤は先を頼むと言うように、安曇を見やる。安曇が引き取った。

「僕らは学生なんです。ここまで来るのに、アルバイト代は使ってしまって」

 男はやっぱり笑顔のままだ。

 庭から少年が戻ってきた。ブブを抱いている。

「あなたの息子ですか」

と、安曇が言った。

「わたしはアリキ。この子は息子のポエだ」

 やっぱり親子だったのだ。ということは、ワヒネの崖でいっしょにいた女は、娘なのだろう。男の娘にしては少年と年が離れすぎているように思えるが。

 そう思ったとき、首藤がすかさず訊いた。

「さっきいっしょにいた女性は、娘さんですか」

 ふいに、アリキの表情が好色そうに緩む。

「ヘレ。あれはわしの妻だ。三度目の妻だ。結婚して二年になる」

「ずいぶんと若い奥さんですね」

「そう。十八になったばかりだ。だが、この島の女は、十六で結婚するのが普通だ。ヘレも十六で結婚した」

 島には、現代人が理解できない因習があると、ニックが言っていたのはこのことだろうか。

「僕はシュドウといいます。こいつは、ナガオ。後ろにいるのが、アズミ」

 アリキが腕を差し出し、首藤が応えて握手となる。僕と安曇も、順に手を出した。握ったアリキの手は、大きくて、少し湿っていた。手の甲に、蛇に似た奇妙な形の刺青がある。

 だが、アリキはそれきり黙ってしまった。サラサラとヤシの葉が揺れる音だけが、聞こえてくる。

「ねえ、アリキさん。僕らは」

 痺れを切らしたように首藤が声を上げたとき、アリキが首藤を遮った。

「島には踏み入れてはいけない場所がある」

 そう言ったアリキの目は澄んでいて、僕らを萎縮させるに十分だ。

「言い伝えがあるのだ」

「それはどんな」

 安曇が訊く。

アリキは、静かに語り始めた。



 遠い、気の遠くなるほど遠い昔の話だという。

 当時、ラパ・マケ島は、たわわに果実のなる木と色とりどりの花が咲き乱れる美しい場所だった。人々は豊かに平和に暮らしていた。


 あるとき、巨大な船が何艘も水平線に現れ、たくさんの白い顔をした者たちがやって来た。彼らは大きくて力があった。真っ赤な槍を持ち、長い脚を持つ生き物を連れていた。

 彼らは島に上がると、島民たちに襲いかかった。長い脚を持つ生き物にまたがって、島中をくまなく走り回り、島民を見つけると、真っ赤な槍を打つ。真っ赤な槍は、まるで生きているかのように、的に向けて執拗に追いかけてきた。

 島民たちはパニックを起こし、島中を逃げ回り、隠れるようになった。

島にはいくつもの洞窟があった。山肌にも海岸にも、深く入り組んだ洞窟が口を開けていた。

 島民たちは鼠のように洞窟で暮らし始めた。奥深い場所に隠れ、食べ物が必要になると、夜のうちに洞窟から出て魚を獲りにいった。

 洞窟での暮らしは、何年も何年も続いたという。洞窟の迷路のような道は、少しずつ整えられ、やがて小さな町のようになった。

 島民たちは、闇の中で命をつないでいった。老人が死に、子どもが生まれた。

生まれた子どもは太陽を知らなかったという。流れていく白い雲も、明るい稲妻もうねる波も、果実のなる木も子どもたちは知らなかった。ときおり風に乗って流れてくる香りで、子どもたちは外の世界を感じるしかなかった。老人たちが話す美しい島の風景を想像するしかなかった。


 ある年、島民の長である男の妻に、元気な双子が生まれた。男の子と女の子だった。

 島では双子の誕生は幸運の前兆だと信じられていた。

 薄暗い洞窟の中で、双子の誕生を皆で祝った。

 幾年かが過ぎ、二人は順調に成長していった。兄のほうはたくましく勇気のある男に、妹のほうは、美しく優しい乙女になった。

 いつかは洞窟を出たいと願う島民たちの意を得て、双子は白い顔をした者たちに反撃するチャンスを伺っていた。

 様々な計画が立てられ、戦いの準備は進められた。洞窟の中は要塞のように整えられ、真っ赤な鎗に対抗する武器も造られた。女たちは子どもを育てながら武器を造り、男たちは戦闘の訓練を繰り返した。

 数十年に一度と思われる大きな嵐が島を襲った。幾日も雨が続き、風が強く吹いた。風がようやくやむと、次には日照りになった。幾日も雨が降らず、水がなくなった。

 双子は、戦いのチャンスが到来したと感じた。なぜなら、白い顔を持った者たちが、嵐の後に続いた日照りや渇水で疲弊したからだ。

 双子の指令によって、戦いの火蓋は切って下ろされた。

 過酷で無残な戦いが長く続いた。敵の数も減っていたが、島民たちも少なくなった。戦える男たちの数は激減し、蓄えてきた食料も尽き始めた。戦いによって、島の緑はほとんど焼き尽くされ、そのために、ますます食料確保が難しくなった。

島を巡っての最後の戦いの日、双子の男が率いる部隊が、白い顔の者たちと決戦を迎えた。満月の夜だったという。明るい月が島を照らし、島は美しく輝いていた。

 山の中腹で炎が上がり、アザラシの皮で作られた太鼓が鳴り響いた。

 真っ赤な鎗が飛び交った。長い脚を持つ生き物にまたがった敵は、見通しが利いた。島民は次々と捕らえられ、残った者は海岸まで追い詰められた。逃げる部隊は、わずか数人となり、双子を先頭に波しぶきが散るように走ったという。

波の迫る海岸を走り続け、とうとう双子たちは行く手を塞がれた。海岸が尽きたのだ。片側に迫った岸壁があるばかりの、陸地の端だった。

 双子たちの手に、もう武器はなかった。双子たちは幾人かの味方とともに、いくつかの岸壁に開いた穴に隠れた。

 追っ手がやって来た。

 姿を消した双子たちの隠れ場所を見つけるのは、難しくなかった。穴に身を隠さなければ、海に飛び込むしかない。

 月の光の中、岸壁に開いた穴に向けて、真っ赤な鎗が射し込まれた。

 悲しいのは、人々が仲間を売ったことだ。

 自分が助かるために、味方の潜む穴を教えたのだ。

 一人また一人と、味方に裏切られて槍に倒れていった。そして海の藻屑と消えていく。

 双子の兄が隠れた穴に鎗が向けられたとき、妹は我慢ができなくなった。他の者のように、兄を密告したのではない。兄を敵の手に渡す前に、自分で死なせてやろうとしたのだ。

 だが、声を上げようとした妹は殺されてしまう。敵の真っ赤な槍に刺されたのではない。同じ穴にいた味方の男に、喉を掻き切られたのだ。

 妹のあらがいも虚しく、やがて兄は敵の手によって海に落ちた。妹も穴の中で息絶えた。

 戦いは終わった。

今、島に残る島民は、その穴にいた先住民の子孫なのだという。


 アリキはその黒々とした目を見開いた。

「そして、島には呪いが残った。兄を助けようとして死んだ妹が、後ろめたき者には死んだ者の声が聞こえるだろうと呪いをかけたのだ」

「後ろめたき者」

 青ざめた表情で、首藤が呟く。

「味方を売った者は、死んだ者の声が聞こえるんだ」



 アリキの長い話が終わった。

アリキはゆっくり僕たちを見回した。

「あのワヒネの崖にも島の者たちが隠れた穴がいくつもある。島の者は誰も近づかない」

 ひどく疲れを覚えた。アリキが語った妹の呪いの話は、どこかで聞いた憶えがあるようなありきたりな話だったが、何か後を引く嫌な感じがあった。

 実際、あの崖地に足を運んだせいかもしれない。霧にまとわりつかれるように、漠とした不安が胸に巣食っている。

 安曇が咳払いをしてから、アリキに顔を向けた。

「わかりました。僕らは、島の掟に逆らうつもりはありません。僕らはスケイルマンを探しにこの島へやって来たんです。僕らはどうしても、不思議な生き物を見つけたい。島の人々の中で、スケイルマンを見たという人の話を聞いたことはありませんか」

 アリキは真っ直ぐ前を向いたまま、何も言わない。日に焼けた皺の濃い肌に、黒く輝く星のような目。年齢は四十歳ぐらいだろうか。いや、もっと若いのかもしれない。無駄な肉のついていない身体は強靭そうで、陽の下での過酷な生活を連想させる。

 僕たちは馬鹿げた問いを繰り返しているのだろうか。この島にあるのは、天と地のバランスが取れた美しい自然の賜物だけなのだろうか。ネットにアップされていたような、異形の禍々しい姿をした「何か」は存在しないのか。

 重たい雰囲気に包まれたところを、救ってくれたのは、ポエだった。

「とうちゃん、洞窟に」

 意外にもポエの英語は島の訛りがない。

「スケイルマンの噂があるんだね?」

 首藤が顔を輝かせて、ポエに顔を向ける。

 アリキが首を振った。

「ただの噂だ。島にはいろんな噂がある。島の西側の浜辺に、日の出のときいくつもの死体が流れてきたとか、森の洞窟には、何十年も宝といっしょに埋められている男がいるとか。どれもたわいない馬鹿話だ。酒を飲むと、島の連中はそんな話をするのが好きなんだ」

 そんなアリキを無視して、首藤がポエの小さな手を取った。

「お兄ちゃんたちに話してくれないかな。不思議な生き物を見た者がいると、聞いたことがあるの?」

 父親の目を盗み見ながら、ポエは頼りなく頷く。

「それは、どこだろ?」 

「怪物を見たやつがいるって、森の奥の洞窟で」

「洞窟?」

 首藤の声が裏返った。

「おい、聞いた? いままでネットに、誰もこの島の洞窟はアップしてないよな」

 ああ、ああと僕は興奮して応えた。

「森の洞窟って、どのあたり? な、この地図で教えてくれないかな」

 首藤は傍らにあったスマホを取り上げ、素早く地図アプリを作動させた。島の地図が表示されると、少年の顔の前に掲げてみせる。  

「今、僕らがいる場所はここなんだ」

 首藤が指で画面上の一点を指した。この宿の場所だ。

「その洞窟っていうのは、こっち? それとも、もっと西のほうかな」

 困った表情で、少年は父親を見た。

 アリキはスマホを一瞥すると、

「その、川の北側だ」

と、吐き捨てるように言った。

 アリキの示した川というのは、すぐに見つかった。この島にはいくつもの滝がある。島にそびえる火山が、左右に滝を形成しているのだ。

 アプリの地図には、洞窟の場所までは記されていない。

「行ってみる価値はあるよ」

 画面上の、おもしろみのない地図でも、見つめていると気分が高揚してきた。退屈な長い飛行時間。白人だらけの、小洒落たカフェのあったタヒチ島。いままでは、冒険と呼べる時間などなかった。それがここにきてようやく、謎や未確認という言葉が現実味をおびてきた。

 首藤は少年の手を上下に振って、ありがとうと繰り返す。アリキが笑って、少年の手を取った。

「くだらん噂を流すんじゃない。あの洞窟は観光客がふらりと行けるような場所じゃないんだ」

「アリキさん」

洞窟に不思議な生き物がいるという噂を、僕らは聞き流せなかった。

「僕らを案内してもらえませんか」

馬鹿者を見るような目つきで、アリキは僕らを見回した。

「僕らにはガイドが必要なんです」

 僕もアリキに頭を下げた。安曇も僕に続く。

 アリキは渋面のまま、頷いた。

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