第2話
予想に反して、宿泊先は、快適そうなアメリカ風の平屋だった。玄関の前には白くペンキが塗られたコテージがある。芝生が生えた庭も見える。
メアリーさんによると、島のほとんどは十数年前から、アメリカ風の家屋に変わったらしい。観光客誘致のためだ。
インフラも大幅に整えられたらしい。地球の果ての島で、驚いたことにネット環境が行き届いているのだ。おかげで、パソコンやスマホを使うのに何の不便もない。
なんだか冒険にふさわしくない場所のような気がするが、これが現実だし、有り難くも思う。やっぱりネットがつながるのは安心だし、位置情報が得られるのは、心強い。多分、地球上にはもう、ネットがつながらない場所なんてないのだろう。
メアリーさんに部屋に案内された。簡素だが、板張りの気持ちのいい部屋だ。窓際には葉の大きな観葉植物も置かれ、見ようによってはちょっとしたリゾートホテル気分になれる。
「ベッドは二つしかないの。一人はソファベッドで寝てね」
ソファベッドといっても、大きなサイズで、僕らに文句はなかった。それから、シャワーの使い方や朝食の説明を受けた。絶海の孤島とは思えない充実ぶりだった。貨物船を降りた僕らには、何もかもが満足できる待遇だ。
「じゃ、寛いでちょうだい。わたしは友達の家に招ばれているから」
島民は五十人ほどしかいない。そのほとんどが友達なのだそうだ。久しぶりの帰島は、友達との約束でスケジュールはいっぱいなのだと言う。
彼女がブブを抱き上げ踵を返そうとしたとき、
「ちょっといいかい」
太い男の声がしたと思うと、バタバタと足音をさせて、玄関から人が入ってきた。
「ディエゴじゃないの」
入ってきた老人は、肩で息をしている。僕らを認めて、「すまないが、ちょっといいかね」
と挨拶してから話し始めた。
荷物の整理をしながらでも、老人の話は自然に耳に入ってきた。どうやら、飼っている羊が盗まれたらしい。
「まあ、またなの?」
「もう、生きる気力を失くしそうだよ」
深刻な様子に、僕らも思わず顔を見合わせる。
「一頭がいなくなって、せっかく檻も頑丈なものに取り替えたっていうのに」
老人は肩を落とす。
「元気を出して。きっと見つかるわよ」
と、メアリーさんが慰めるが、老人は首を振るばかりだ。
「役場はいくら言っても手を打ってくれない」
それから老人はしばらく愚痴をこぼした。ここは自然が手付かずで素晴らしい場所だが、行政がなっとらん云々。
メアリーさんが根気よく相槌を打っていると、やがて気持ちが収まったのか、老人は帰っていった。
「彼はね、ニュージーランドにあるわたしの娘婿と同じ会社に勤めていて、そこを定年退職してからこの島に移住してきたの。一人で暮らしているのよ。羊を飼うのを楽しんでいたのに」
老人の寂しげな後ろ姿を見送りながら、メアリーさんも肩を落とす。
首藤が訊いた。
「こんな小さな島なのに、羊泥棒がいるんですか」
するとメアリーさんは、うーんと首を傾げた。
「檻が壊されているっていっても、人間の仕業だとはっきりしているわけじゃないの。風が強い島でしょう? 余程頑丈な檻を作らないと壊れ易いし」
暗に、老人の素人仕事を責めているふうがある。だが、いくら風が強いといっても、檻までなぎ倒すものだろうか。
「ただ、友達が言うには、この四、五年、家畜が盗まれることがちょくちょくあるらしいわ」
「島の人は限られてるんだから、犯人はすぐに見つかるような気もしますが」
「そうねえ。でも証拠がなくちゃ名指しはできないし」
もしかして、島民の間では、犯人の目星がついているのでは。僕はそう思ったが、何も言わなかった。観光客が口を出す問題じゃない。
メアリーさんが部屋から出ていくと、僕たちは早速着替えを始めた。
日本であらかじめ見当をつけてきたのは、島の港に近い海岸線と、港とは反対側の絶壁の下。ユーチューブで見た目撃情報から割り出した場所だ。
はじめは、港に近い海岸線を回ってみることにした。
心配なのは、空模様だった。空には見渡す限り、黒い雲が掛かっている。
「行ってみようよ。時間は限られてるんだから」
安曇が決断して、僕たちは宿を出ることにした。
リュックにペットボトルの水と、日本から持ってきたシリアルバーを入れ、水の中に入る場合に備えて、水着と水中メガネも押し込んだ。
当地に来るにあたって、未開地で冒険を試みた人が書いたドキュメンタリー本を何冊か読んだ。だが、どれも僕たちの旅には当てはまらなかった。僕たちは探検をするのでも、学術調査をするのでもない。UMAの動画を撮りたいだけだ。動画を撮るのはスマホでじゅうぶんだし、火を起こす技術なんてのもいらない。
いままで履いていたサンダルを、岩場を歩くための靴に履き替え、三人並んで山を下った。相変わらず強い風が吹いている。ヤシの葉が、不穏な音を立てて揺れている。
島民とは出会わなかった。この天気だ。誰もが家の中に籠っているんだろう。海にも船影はない。島民の中には、少なからず漁で生計を立てている者もいると聞いた。この天気では、舟を出すのはためらわれるだろう。
港は、さびしいばかりの風景だった。船が去り、島民たちが引き上げてしまった桟橋は、まるで流刑地そのもの。ほんとうの流刑地など知らないが、こんなところに流されたら、誰だって絶望するに違いない。
そろそろ正午に近い時間だというのに、空は明るくなりそうになかった。
「どっちへ行く?」
首藤が左右の海岸線を見比べている。
どちらへ行っても、断崖絶壁には変わりなかった。切り立った岩の裾に、幅二メートルほどの石ころだらけの海岸が伸びている。
「ひとまず」
安曇が言いかけたとき、首藤が声を上げた。
「あれ? あそこにいるの、美月さんじゃね?」
右手の海岸を先へ進んだところに、白いパーカー姿が見えた。曇り空の風景の中に、真っ白なパーカーがくっきりと浮かんで見える。傍らに、白人とおぼしき男の姿が見えた。そして、石ころだらけの海岸の上には、何やら機材が置かれている。
「美月だ」
安曇がおもしろくなさそうに呟いた。
「あいつ、また登場かよ」
「いいじゃん。大歓迎!」
駆け出した首藤が、
「おーーい」
と手を振った。
振り返った美月さんは満面の笑顔になり、それから腕を高く上げて手を振り返す。
自然と、僕たちは彼女のほうへ引き寄せられていった。
近づいてみると、地面の上に置かれた機材は、どれも値が張りそうな物ばかりだった。撮影用のビデオカメラやアクションカメラ。このアクションカメラは防水性が優れていて、水場の撮影にはよく使われる。この島に来るにあたって、安曇が購入を検討したが、高額なため断念した。といっても、僕たちには使いこなせやしないだろう。
「これから探索?」
機材の調整をする美月さんに、首藤が声をかけた。
「そうよ。彼が」
と言って、傍らの白人男性を一瞥する。
「スケイルマンの出没スポットを教えてくれたの」
男が僕らに向き直って、手を差し出してきた。
「ようこそ。ラパ・マケ島へ」
背の高い痩せた男だった。歳はおそらく初老といってもいい年齢。トーストしすぎた食パンみたいに、シミだらけの肌をしている。白髪混じりの金髪を頭の後ろで一つに束ね、顎には髪と同じく白髪混じりの長い髭がある。よれよれのTシャツに短パンという出で立ちだ。
「ニックだ」
男の笑顔は人好きのするものだったが、男が放つ魚が腐ったような臭いには閉口した。もし海辺で出会わなかったら、間違いなくホームレスだと思っただろう。
いちばん英語が得意な首藤が、ハローと即座に応えたものの、一瞬、握手を躊躇したのが見て取れた。無理もない。ニックの掌には、茶色い肉の破片のようなものがこびりついている。
結局手を引っ込めてしまった相手に気を悪くするふうもなく、ニックは僕らを当分に見た。
「君たちも、スケイルマンを?」
「まあ、そんなところです」
首藤が答える。
美月さんによると、ニックはイギリス人だという。十数年前にニュージーランドに移住し、それからこの島へ来た。島に来て、六年になるらしい。
「島のガイドをしているの。だけど、ただのガイドじゃない。彼はUMA出没スポットに詳しいガイドなのよ。小さな島だからといって、闇雲に探しても無駄だわ。その上、この島には、現代人が理解できない因習が残っているの。島民たちの反感を買わないようにしながら、探索をするのがコツなのよ。島民たちに嫌われたら、危険な天候や場所を教えてもらえない。それでは、目的は達成できない」
「現代人が理解できない因習ねえ……」
安曇が疑わし気な目でちらりとニックを見た。信用できないようだ。
「そんなもの、ほんとうにまだ残っているのかな。この諸島の中で、この島はネットがつながるほどインフラが整っている場所でしょ。そんな島で、現代人が理解できない因習なんて」
首藤も声を上げた。
「そうだよな。確かに絶海の孤島ではあるけど、ここは地図上の距離ほど、現代から遠ざかっているわけじゃないよな。メアリーさんも言ってたように、島民はほぼニュージーランド人と暮らし方が変わらないんじゃないの」
僕も二人の意見と同じだった。冒険を夢見てやって来たわりには、なんとも夢のない話だが、そうでなければ来る気にはならなかった。本物のサバイバルなんて、現代人にできっこない。ましてや僕たちに。
「で、実際、見つけた人はいるの?」
そう言った安曇には、期待の欠片もない。
美月さんがすかさずニックを示した。ニックは深く頷き、自分の胸に両手を当てる。
「あなたが見つけたんですか!」
思わず声を上げた僕に、男はドヤ顔で頷く。
美月さんも、誇らし気に付け足した。
「見つけた経験がなくちゃ、ガイドとしても失格でしょ?」
安曇がすかさず訊いた。
「ネットにアップしたんですか」
ネットに出ているなら僕らも目にしているはずだが、それらしき動画を見た覚えはない。
男が難しい表情になった。
「UMAというのは、見つけた瞬間に写真を撮ったり、音声を録音したりできるもんじゃないんだよ」
そうかもしれない。実際にUMAを見つけたら、誰だって慌ててしまうはずだ。ヤラセじゃない限り、証拠を持ち帰るのは生半可なことじゃないんだろう。アップしていないからといって、ニックをただの胡散臭い男だと判断すべきじゃないかもしれない。
「見ての通り」
美月さんが、日本語で僕たちに言った。
「彼はあんまり裕福とは言えないわ。だから、スケイルマンの証拠集めをしようにも、手立てがないのよ。スマホ一つ持ってないんだから」
僕はニックの足元を見た。ビーチサンダルの鼻緒部分のゴムが千切かけている。
「だけど、彼の情報はアテになるわ。だから、彼に情報を提供してもらって、こちらは機材を提供してスケイルマンを見つける。合理的な方法でしょ」
「タダじゃないんだろ?」
安曇が口元を歪めて、訊く。
「そりゃそうよ。だけど、高額ってわけじゃない。その日のビールにありつければ満足な暮らしぶりだから」
首藤が安曇の腕を引っ張った。
「なあ、俺たちも彼女に同行させてもらおうよ」
はあ?と、安曇が呆れた表情を返す。
「あの男の情報があてになるかならないか、行ってみなきゃわからないだろ? 俺たちで推測した場所よりはマシなんじゃないの?」
それは言えている。首藤は美月さんと近づきたいだけなのかもしれないが。
そうだなと、安曇が胸の前で腕を組んだ。僕らのリーダーは安曇だ。
「おい、峡!」
首藤に肩を掴まれた。
「おまえも美月さんに同行させてもらったほうがいいと思うだろ?」
「あ、ああ」
「なんだか不承不承って感じだけど?」
美月さんがからかうように言った。
「そんなことないよ。よければ」
安曇はかしこまって、美月さんに顔を向けた。
「僕らも同行させてくれないかな」
きらっと美月さんの目が光った。
「そうねえ」
と、間を持たせる。
「お願いしますよ」
首藤がふざけた調子で、胸の前で掌を合わせた。
「いいわ。安曇は中学の同級生。こんなところで再会したのも何かの縁なんでしょ。それに」
足元の機材の一つを持ち上げて言い放った。
「君たちがいてくれれば、何かと助かるわ」
「話は決まったか?」
僕らの日本語のやりとりをニヤニヤ笑いながら聞いていたニックが、ポンと僕の肩を叩いた。美月さんが振り返って、そっとニックにNZドル札を二枚渡す。ざっくり二百円もしない。
「この海岸線を西にまっすぐ行った場所に、岩場があるんだがね」
ニックは顔をほころばせて右手の海岸線を指差した。
「溶岩が固まった大きな石がゴロゴロしている場所だ。ワヒネの崖と呼ばれている」
「ワヒネ?」
僕が聞き返すと、ニックはしたり顔になった。
「マオリ語で女という意味だ」
「あなたはそこで見たことがあるんですね?」
安曇が訊くと、ニックははっきりと頷く。ワクワクしてきた。僕らは運がいい。こんなに早く、UMAの情報を仕入れられるなんて。
「さあ、行きましょ。目指すのは、ワヒネの崖よ!」
美月さんの号令で、僕たちは出発することになった。手分けして、撮影用の機材を持つ。
僕はパソコンやマイクを入れた銀色のケースを持ち、首藤は脚立と照明器具を。安曇はカメラを手に取った。まるで、プロの撮影隊だ。
美月さんは足取りも軽く先頭を切って歩き出した。ぐんぐん距離が広がる。荷物といえば、耳に付けたピンマイクだけなのだから早く歩けるはずだ。
その威勢のいい後ろ姿を、安曇が恨めしそうに見つめた。
「君たちが助けてくれると助かるわ、か」
胸の前で×印に下げた二つのカメラを、ピンと指で跳ねる。
「まるで、助手扱いじゃね?」
「そう拗ねるなって」
首藤が囁く。
「気をつけないと、手柄は全部あいつに取られるぞ。だから俺は美月といっしょに探すのは嫌だったんだ」
「今更そんなこと言うなよ」
まあまあと、僕は安曇をなだめにかかった。
「これから僕らの存在感を示していけばいいじゃないか。彼女が言うように、小さな島とはいえ、海岸線の探索は結構時間がかかる。人数がいたほうがいいよ」
「甘いんだよ、峡は」
安曇はそう言って、ぷいと横を向いたまま先へ進んだ。
「なあ、まだかよ」
首藤がうんざりした声を上げた。
着替えたばかりの首藤のTシャツは、汗でぴったりと肌に吸い付いている。
歩いても歩いても、同じような石ころだらけの海岸線が続いた。帯のようにつながる白い波と、岸壁からひょろりと顔を出しているヤシの木。南太平洋らしい風景ではあるが、それは空が青く晴れていればこそ。
空には依然雲が立ち込めていた。不穏な灰色の雲だ。ここはホテルや土産物屋が並ぶビーチじゃない。人っ子一人いない見知らぬ海岸で、飲み込まれそうな海に抗いながら歩くのは恐ろしい。
僕たち男三人の重い足取りとは対照的に、美月さんは元気だった。何やら楽しげにニックと話しながら前を進む。
「いつになったら着くんだよ」
安曇が苛立たしげに呟く。
そう言いながらも、安曇の手にしたビデオカメラは回り続けていた。美月さんに、現場に到着する過程でもビデオカメラを回し続けるように指示されたのだ。
「スケイルマンを見つけたとしてもよ、それだけじゃおもしろくないわ。その過程も撮って、発見者の苦労も見せなきゃ」
そう言われればそうかもしれないと、録画に賛成した僕らだったが、ずっとカメラを回し続けるのは楽じゃない。
美月さん曰く、人気の出る動画は、素人臭いほうがいいらしい。カメラがぶれていたり、関係ない僕ら同士の冗談も入っていたほうがいいという。
「重要なのは、リアルさなの。視聴者にすれば、身近な大学生の冒険ってところに意味があるんだから」
美月さんは言ったものだ。それはそうかもしれないが……。
「おい、峡、カメラ、代われよ」
僕はしぶしぶカメラを受け取った。ついさっきまで、僕が回していたのだ。安曇は代わったばかりだ。今度は首藤がやればいい。
と、首藤は立ち止まって、スマホに顔を埋めていた。また、女の子にメールを送っているらしい。
首藤は女の子に人気がある。安曇によれば、大学内に、仲良くしている女の子が何人もいるらしい。今、特に親しいのは、商学部にいる真由という名の美人で、友人たちの羨望を集めている。かくいう僕も、嫉妬を感じている。童顔なのに、体はメリハリのある真由のちぐはぐな魅力に抗える男はそういないだろう。
なあと、もう一度呼びかけると、首藤はうるせえよと呟いて、ようやくスマホをポケットにしまった。
なんだよと言い返そうとしたら、呟きはメールの相手に向けたものだったらしい。早く帰ってきてよと、真由は何度もメールを送ってきているらしいから。
「悪い、なんだった?」
首藤は顔を上げて、僕と安曇に駆け寄って来る。
「だから、今度はおまえがカメラを」
そう言いかけたとき、前方で声が上がった。
美月さんの声だ。
「おい、あそこ」
安曇が声を上げた。
安曇の視線の先に、見覚えのある崖が見えてきた。ユーチューブで見た崖と同じだ。その崖の下で、美月さんとニックが何やら騒いでいる。
全身にアドレナリンが湧き始めた。
「おい!」
首藤が叫んで、僕たち三人はいっせいに走り出した。
崖の下へ行ってみると、石ころだらけの海岸は途絶え、大きな黒い岩が重なり合っていた。まるで巨人が運んだとしか思えない巨岩だらけだ。
「早く、早く!」
美月さんが僕たちを呼んだ。
首藤が間近にあった岩に飛び移り、僕と安曇も続いた。
足元は滑りやすかった。日本の沿岸にある岩のように苔はなく、つるつるとして、磨いた花崗岩の上を歩くようだ。三人、息を詰めて、岩を登ったり下りたり。
徐々に、三人の間に距離ができた。やっぱりガタイのいい首藤が先へ進む。次に安曇、そして僕。
「ここよ!」
美月さんが叫んで、岩の陰から手を振った。何かを見つけたのだ。焦った。早くしないとチャンスを逃してしまう。
「撮って! 早く!」
ニックはどうしたんだ? 見回したが、ニックの姿が見当たらない。何やってるんだ。ちゃんと撮影しなきゃだめじゃないか。
気持ちは焦るばかり。安曇が足を踏み出して、滑りそうになった。驚いて振り返ると、安曇は苦々しい表情で体勢を整えている。戻って安曇の手を引っ張った。
「足首を挫いたかも」
と、気弱に呟く。
早く来いと首藤に怒鳴られて、次の岩に飛び移ろうとしたとき、引っ張っていた安曇の腕が動かなかった。
「もうちょっと頑張れよ」
苛立って振り向くと、安曇が空いたほうの手で口元を塞ぎ、目を見張っている。見ている先は、左手の岩の間だった。妙に人工的な、言ってみれば、ブロックの塊をいくつもくっつけてまた壊したような二つの小山の間だった。
「おい、なんだよ」
安曇の肩を叩いて言うと、安曇は目を見張ったまま言った。
「いたよ」
「何が」
「何がって、スケイルマンだよ」
ヒエッと喉から、自分の声とは思えない叫び声が出て、僕は安曇を振り切って、小山の間へ向かった。
「ワアアァ」
何かが飛び出してきた。僕は足を滑らせて、水の中へ落ちてしまった。
飛び出してきたのは、人間だった。
間違いない。
人間の体をしている。
島の男だろう。
真っ黒な肌に、大きな目。痩せた体に迷彩柄のTシャツを着ている。そのTシャツの肩の部分が破れ、緑色の海藻をまとったみたいに見える。そのせいで、安曇はUMAと見間違えたのだ。
「威かすなよ」
水の中から這い上がって、僕は安曇に怒鳴った。おかげで、びしょ濡れだ。
「×△××!」
飛び出してきた男が叫んだが、男の英語は島の訛りが強すぎて、何を言っているのかわからない。
と、男の後ろから、二つの顔が覗いた。少年と女だ。少年はおそらく十歳前。怯えた目でこちらを見ている。そしてその少年の手を握っているのは若い女だった。褐色の肌と腰まである長い髪。汚れた感じの白っぽい布切れを纏っている。ムームーというのだろうか。すっぽりと痩せた体を包んでいる。
木の棒のような黒い足だった。足元は少年と同じく、裸足だ。
年齢はいくつぐらいなのだろう。驚いて小さな目を瞬きしている顔は、少女のようにも見える。
素朴な表情に安堵を覚えて、僕は微笑んで見せた。すると女も微笑み返す。白い歯が覗き、清潔感というよりもワイルドな印象を与えた。
首藤がハローと言った。女は何も返さなかったが、笑顔は大きくなる。
その途端に、パン!と音がして、女がよろめいた。迷彩柄Tシャツの男が、彼女の頬を引っぱたいたのだ。
僕たちはびっくりして、声も出ない。
「×□△×!」
男が叫んで、少年が女の後ろに逃げ隠れた。
あっけに取られている僕たちを、男が振り返る。
「おまえたちは、観光客か?」
今度は男の言った意味が理解できた。
そうだと頷くと、男は少し表情を和らげて、ここへ何をしに来たと、居丈高な表情で訊いてきた。
「だからなんだっていうの? ここは立ち入り禁止区域なわけ?」
美月さんがやって来て、男の前に立った。相変わらず威勢がいい。
男が、口元を妙に卑屈に歪めて笑う。
「ここは神聖な場所だ。島の人間でも近寄らない。まして、外から来た者が来るところじゃない」
そのとき、どこへ行っていたのか、ニックが岩の間から姿を現した。
ここはまかせてくれ。そんな表情を美月さんに送る。
美月さんが頷くと、ニックは男に現地語でしゃべり始めた。
話はすぐに終わった。男の顔に笑みが浮かぶ。
ニックが美月さんを振り返った。
男はスケイルマンの情報を持っているという。事と次第によっては、情報を明かしてやってもいい、と言っているらしい。
「事と次第ってなんだよ」
首藤がニックに訊いた。
「君たちが信頼の置ける人物かどうかってことだ」
美月さんが前へ進み出た。
「わたしたち、本気でスケイルマンを探してるの。もし、情報があるなら」
さすがだ。もう男を味方につけようとしている。そう思ったとき、安曇が割って入った。
「僕らはメアリーさんの家に泊まっている。情報を持って、是非訪ねてもらいたい」
新しい情報は、美月さんにリーダーシップを取られたくないのだ。瞬間、僕たちの間に、気まずい雰囲気が流れたが、美月さんが、
「そうね、それがいいわ。だけど、わたしにも噛ませてね」
と折れたことで話がついた。
そのとき額にぽつりと雫を感じた。とうとう雨が降り出したのだ。
ふいに辺りが光った。
「わっ、なんだ?」
自分でも情けない声を上げてしまったと思う。少年がクククッと笑った。
「稲妻だ」
首藤が水平線のほうを指さした。天体ショーのような派手さで、稲妻が光っている。
瞬く間に、雨が勢いよく降り始めた。少年が女の服の端を引っ張った。帰ろうという合図だ。男が女の手を引っ張り歩き出した。まとわりつく子犬のように、二人の後を少年が追いかけていく。
僕たちもゆっくりはしていられなかった。美月さんの号令で、機材にビニールをかけ、
入れられる物はそれぞれのリュックサックに分けた。
「急ぐわよ!」
足元に水が来ていた。潮が動き出しているのかもしれない。
ニックを先頭に、僕たちは走り出した。
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