豚肉の仙人

 永劫えいごうに続くように思えた煮込みが、終わった。

 俺の前に、染み一つない白磁の皿がある。上に、切り分けられた豚肉がひとかけら乗っている。


「食べてみるといい」


 おそるおそる箸でつまみ、口に運ぶ。……いや、味に不安はない。逆に美味しすぎたらどうしよう、と、空きっ腹を抱えつつ俺はおびえていた。

 だが。

 この豚肉の味は、俺の恐れを超えていた。

 実のところ、ちゃんと味わえたわけじゃない。口に入れた肉は、あっというまにほどけてなくなってしまった。肉がある、と思った瞬間ほろりと崩れて、後味だけを残して消えた。

 だのに、後味がありえないくらいに濃い。

 湯気に漂っていた肉の旨味が、花が咲くように口いっぱいに広がって離れてくれない。いや、離れてほしいわけじゃないんだけど。なんだこれ。

 あっけにとられて先生の方を向くと、満面の笑みが俺を見ていた。美味しかったかい、と無言で訊ねながら。


「おいしかったです、信じられないくらい!」


 先生は満足そうに頷いた。


「これは、私たちだけの美味だ」


 先生は、どこか遠くを見つめながら笑った。いつもの、仙人のような目だった。


東京開封府とうけいかいほうふには数千の酒楼があり、百万の民がいるが、誰もこの美味を知らない。豚肉の旨味も、なずなの甘味も……この、無窮むきゅうなる天地の恵みを」


 言う先生の姿が、俺はそのとき、たしかに神仙に見えた。




 俺は、夢見心地のまま家に戻った。先生は、豚肉の煮込み方を他人に教えてもいいと言った。天地の恵みは無限なのだから、と。

 媽媽おふくろに話をすると、媽媽は飛び上がって驚いた。


「臨皐亭に住んでいらっしゃるの、あんた、どなただか知らないのかい」


 媽媽の話によると、あそこに住んでいるのは、都から追放されてきたとても偉いお役人様なのだという。文章も絵も書もできる天才だけど、政治批判の詩を書いた罪で、この黄州に流されてきたのだと。

 うろたえる媽媽を見ながら、俺は先生の言葉を思い出していた。


「これは、私たちだけの美味だ」


 先生は都の連中を恨んでいたんだろうか。恨んでいたから、見下そうとしたんだろうか。

 でも俺には、どうしてもそうは思えなかった。

 仙人のような目が見つめていたのは、もっと遠いどこかだったように思う。

 ひとしきり媽媽のお小言が終わったところで、俺は切り出した。


「豚肉、ひとかたまり貸してくれないか」


 わかってる。これは、銭に換えるための大事な商売道具だ。

 だが、それでも。先生に貰ったものを、俺はどうしても誰かに分けたかった。

 豚肉は美味い。

 俺たちは、もっと胸を張っていい。

 黄州は田舎かもしれない。けれど豚肉は美味しい。俺たちは美味いものを作っている。

 しぶしぶ渡された豚バラ肉を大鍋に入れ、水を注いで竈に乗せる。


「さあ火にかけよう 水は少しでいい……」


 歌いながら俺は、竈に火を入れた。


【了】

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豚肉の仙人 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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