食猪肉の詩
記憶を頼りに臨皐亭へやってくると、ちょうど東坡居士先生が出てくるところだった。先生は拱手してお辞儀をすると、俺を建物の中へ案内してくれた。
臨皐亭は長江のほとりの建物だ。どこかの寺の持ち物だったと思うが、よくは知らない。僧房ほど大きくはないけれど、十数人程度なら十分暮らせるほどの大きさはある。実際、建物の中には何人かの気配があった。青い瓦で葺かれた屋根が、黄砂で濁った空よりも青かった。
通された部屋は
「バラ肉ふたつ五十銭です」
先生は返事をしない。代わりに
「あの、五十銭です」
俺は急に不安になってきた。先生はお金がないらしい。踏み倒されたらどうしようか。
「君、少し時間はあるかな」
ようやく先生が、俺に背を向けたまま声を出した。
「それよりあの、五十銭……」
「もしよければ、味見をしてもらえないだろうか」
赤が灯った竈に薪を放り込みつつ、先生は言った。
「古い友人が来るのでね、手料理でもてなそうと思っているのだが。美味くできたかみてほしい」
俺は耳を疑った。
「え? でもこれ豚肉ですよ?」
豚肉は安物だ。高くてせいぜい数十銭。しかも固くて臭みがきつい。そんなものを出されて嬉しいのは、食うにも困っている貧民くらいだろう。平民でも、おもてなしの膳には柔らかい羊肉を出すはずだ。
反応に困っていると、先生は俺を振り返り得意げに笑った。
「まあ、見ているといい」
先生は豚肉の塊たちを水に沈めた。しばらくして湯が煮えると、一気に竈の火を小さくする。
「そんな火じゃ生煮えになりますよ」
「これで、いいんだよ」
鍋を覗くと、煙の色の湯の中で、白い細かなかすが踊っている。先生はそれをすくい取りながら、時折水を足していた。
しばらくしてかすが出なくなると、先生は鍋に大きな蓋を乗せて、俺の方を振り向いた。
「君は、豚肉は美味しくないと思っているかな」
「え」
急に訊かれて、答えに詰まる。
俺は豚肉売りだ。自分の売り物を悪く言うなんて、できればしたくない。でも――
口ごもる俺の前で、先生は急に、歌うように言葉を吟じ始めた。
黄州好猪肉 黄州の豚肉はいいものだ
價賤等糞土 値段は安くて土くれ並
富者不肯喫 だが金持ちは食べようとせず
貧者不解煮 貧乏人は煮ることを知らない
慢著火 少著水 さあ火にかけよう 水は少しでいい
火候足時他自美 ほどよく煮えればもう美味しい
毎日起来打一碗 毎日起きたら必ず一椀
飽得自家君莫管 誰にも何も言わせはしないさ
あっけにとられて、俺は先生を見た。
すごい詩だった。平仄も韻も整っていて、音がきれいで、それでいて言葉が活きて弾けている。でも中身は豚肉。
詩ってもっと、歴史とか季節の花々とか……立派で風流なものを詠むはずじゃないんだろうか。
「数日前に詠んだ、豚肉の詩だよ」
こともなげに先生は言う。
「豚肉で詩、ですか……」
「この間はなずなも詠んだよ」
なずなって、あの畑に生えてくるぺんぺん草……?
「黄州の豚肉は最高だよ。なずなも、若芽を湯がくと歯ごたえと甘味が出る」
先生は鍋の蓋を開けて、白いかすを少しすくい取った。漏れ出た湯気に混じって、香ばしい肉の匂いが一気に広がる。
そう、肉の匂い。夕飯時にはあちこちの家から漂ってくる、よく知っている匂い。
でも、はじめて嗅ぐ匂いだった。
湯気に混ざった肉の匂いは、濃いけれどとてもまろやかで、つんと鼻を刺す焼肉の匂いとは全然違っていた。まるで、旨味が湯気に溶け出てきたみたいだ。
思わずお腹が鳴る。先生は小さく笑った。
「焦ってはだめだぞ。最低でも
えぇ、と叫ぶ俺の背を、先生の手が強く叩く。
「腹が空けば空くほど、料理は美味しくなるぞ」
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