第2話 木に登りたい

 いくら抱き締めてもネイビーがなかなか満足せず、結局はスマルトがシアンを奪い取ることになった。彼らもそろそろ仕事を始めなければならず、ネイビーを待っていては仕事の時間が削られる。シアンにとって自分のせいで仕事が妨げられるのが本意でないことは、スマルトはよくわかっているようだ。

 スマルトの執務室は、無駄を省いた質素な部屋だった。事務机と向き合うように配置されたソファ、横長のテーブルが置かれている。スマルトは机から書類の束を手に取ると、ソファに腰を下ろした。それから隣に誘うようにシアンを見遣る。

 シアンは、それより先に言わなければならないことがあった。

「あの……他の人には、言わないでほしいのですが……」

 口の中でもごもごと言うシアンに、スマルトは切れ長の目を少し和らげて続きを促すようにシアンに視線を遣った。

「その……倒れる前の記憶が曖昧で……この屋敷にいる人たちの顔と名前くらいしか覚えていないんです」

 シアンとスマルトは何かと行動をともにすることが多い。スマルトにそれを黙っておくことはできないだろう。

 スマルトはあまり感情を表に出すことをしない。シアンの言葉をどう思ったかはわからないが、そうか、と小さく応えた。

「うちの事業はそう難しいことはない。すぐに覚えられるだろ。勉強もいちから始めるはずだ。どうせまともに授業を受けられていなかっただろうからな」

 心配は要らない、と言うようにスマルトはまた自分の隣にシアンを誘う。ひとつ安堵の息をつくと、シアンはスマルトの左隣に腰を下ろした。スマルトなら受け入れてくれるという確信を初めから持っていたような気がした。

 スマルトは父に似て強面な顔立ちだ。前世であれば竦み上がっていたのではないかと思うが、シアンの心はひとつも怯えていない。なぜなら、この屋敷で最もシアンの溺愛しているのがスマルトだと思っているからだ。スマルトはそれをおくびにも出さないが。

(この強面が冷酷じゃったらしんどいところじゃったのう。幸運に感謝じゃ)

 他の三人は自分が最も愛していると思っているし、スマルトは感情が表に出ない。それを見抜いているのは父と母くらいのものだろう。

 スマルトがシアンと行動をともにすることが多いのは、なんとか公私混同を免れた父の決定だ。アズールとネイビーはシアンがそばにいれば仕事で公私混同するだろうし、ブルーはまだ子どもで勉強に手が付かなくなる。スマルトは溺愛していても常に冷静さを保っているので、共同相手としてはやりやすいだろう。

(それにしても、末妹ブルーではなく四番目の三男を溺愛しとるのは不思議じゃのう。可愛い顔はしとるがの)

 それからしばらく、サルビア家の事業の説明をスマルトから受けた。紡績関連の事業で、先ほどのスマルトの言葉通り、さほど難しい仕事ではないようだ。輸出に関する説明は、いまは必要ないだろうということになる。しばらくは自分の手伝いをしつつ仕事を覚えるように、とスマルトは締めた。

「熱にうかされて理解力が高まったみたいだな」

 静かに聞いていたシアンに、スマルトが薄く笑って言う。

「いつもならもう二、三回は説明しているところだ」

「ああ、そうですね……」

 理解力の高さは頭脳が賢者であるためだ。賢者の魂が入ったことにより、シアンの能力は多少なりとも向上しているだろう。事業には貢献することができるだろうが、それをスマルトに説明するわけにはいかない。

 これまでの転生では、これほどまでに愛してくれる者はいなかった。そのため、中身が別人に変わったとしてもあまり気に留めていなかった。元の心も有しているため、大きく変わるということもない。それでも、シアンを溺愛する彼らにとって、シアンの中に別の人間が生まれてしまったことに変わりはない。

(愛する弟の中身が九十八のじじいに変わってしまったなんてのう……。申し訳ないことじゃ)

 嘘偽りのない愛を全身に浴びることでこんなことを考えるようになるとは、いままでに知らなかったことだ。

「どうした?」

 スマルトが顔を覗き込むので、シアンは考えるのをやめる。

「なんでもありません」

 シアンの中の半分がシアン・サルビアであることは確かだが、これほどの愛を体感したことがなかったため、なんとも罪悪感を覚えることだった。

 それが顔に出ていたのか、スマルトがシアンの頬を優しく撫でる。

「朝食の席でもそうだ。何か、記憶が曖昧なことの他に不安なことがあるんじゃないか?」

「そんなことないですよ」

 シアンが微笑んで見せると、スマルトはどこか不満げなように見えた。

(……若い女子おなごじゃったら恋に落ちるところじゃったのう。ギャップ萌え……じゃったかの?)

 実に三者三様な家族である。死んだように生きて来た賢者の余生にしては、騒がしくも楽しくなりそうだった。

「少し休憩するか」

「はい。少し庭を歩いて来ます」

 そう言ってシアンが立ち上がると、スマルトも当然のように腰を上げる。ドアを開けたシアンは、ちょうどノックしようとしていたらしい男性に前を塞がれて足を止めた。そのスーツの男性は、書類の束を手にしている。

「スマルトくん、ちょうどよかった。次の企画の経費のことで相談があってね」

「ああ、どうぞ」

 スマルトはシアンを押し出しつつ男性を招き入れる。自分とともにいることでスマルトの評価が下がることは本意ではないため、シアンはさっさとその場をあとにした。


 中庭に出てみると、晴れ渡る空と穏やかな風が気持ち良く、適度に手入れの施された立派な庭園が清々しかった。前世の暮らしていたところとは雲泥の差だ。

 庭師の姿はないようだ。あまり機会はなかったが、庭師の仕事を見るのが好きだった。庭師たちがシアンのことをどう思っているかは知らないが、これから思う存分に眺めることができると考えると少し楽しみのような気になる。あの職人業は実に見事なものだ。

 花壇は全体的に見て青色系統の花が多い。そういえば、とシアンは思考を巡らせる。父ゼニスが胸元に着けていた家紋のエンブレムも青い花の模様だった。昔から何かと取り扱って来たのかもしれない。

 サルビア家の子どもは、シアンを除いた四人全員が青い瞳の持ち主だ。それは父譲りのもので、母の瞳は緑色だ。シアンだけがやはり異質のようだ。

(……そうじゃ。若返ったら木に登りたいと思うとったんじゃ)

 前世の願望を思い出し、中庭をぐるりと見回す。さほど高くない木が各所に生えている。庭師のいないいまなら、咎められずに登ることができそうだ。

(この体にどれほど体力があるかわからんがのう)

 適当な木を選び、根本で靴と靴下を脱ぎ捨てる。凹凸に順番に手と足をかけ、一番下の太い枝に乗り上げた。少々息は切れたが、この程度の高さなら問題なく登れるようだ。体勢を整えて腰掛けると、美しい花壇を一望できて実に壮観だった。

(ふむ、若さとは素晴らしい。案外、簡単じゃったのう)

 九十八の年寄りに木に登る体力などもちろんあるはずもなく、いつも揺り椅子に座って眺めているばかりだった。

(思えば、ままならない人生ばかりだったのう……)

 転生を繰り返すあいだの早い段階で“我慢”を覚えてしまい、それはもう習慣のようなものだ。いままでも、そしてこれからもそうやって生きて行くのだと思っていた。それが、あの愛すべき人々の前では必要ないのかもしれない。

(……今度こそ、自分の思うように生きてもいいのかのう……)

 ほんの少しだけ、涙が滲みそうになった。歳を取って緩くなった涙腺も、若さを取り戻したいまなら締まるのだろうか。

「シアン」

 呼びかける声に視線を向けると、呆れたように目を細めながらスマルトが歩み寄って来る。

「何をしているんだ、そんなところで」

「木に登りたかったんです」

「お前にそんな欲求があるとは気付かなかったが、満足したなら降りて来い」

「はい」

 スマルトの手を頼りに枝から降りると、胸中に広がるのは達成感だった。とても清々しい気分で、今度は何に挑戦するか、とそんなことを考えていた。

 靴下を履いていると、また呼ぶ声があった。庭に出て来たアズールが、左足が素足のシアンに不思議そうに首を傾げる。

「何をしていたんだ?」

 そう問いかけたところで、アズールはハッとスマルトを見た。

「スマルト! シアンに危険な遊びをさせていないだろうな!」

「木に登っていただけです」

 シアンがそう言うと、アズールは今度は不可解そうに眉をひそめる。

「どうして木に?」

「ずっと登ってみたいと思っていたのを叶えました」

 アズールは依然として不思議そうな表情のまま、ふうん、と小さく呟くと、シアンと視線を合わせるために腰を屈めた。

「それは良いことだが、できれば危険性の低い望みを叶えてくれないか? 寿命が縮まってしまいそうだ」

「ごめんなさい……」

 しょんぼりと肩を落とすシアンに、アズールは慌てた様子で優しく彼の頭を撫でる。

「怒っているわけじゃないんだ。シアンが怪我をしたら大変だろう?」

 随分と筋金入りの過保護だ、と賢者は考える。子どもは外で伸び伸びと遊ぶものだと思っていたが、貴族となると話は違うらしい。やってみたいことはまだ他にもあるが、危険度の高いものは避けたほうがサルビア家の寿命を縮めずに済むようだ。

「お茶が入ったよー」

 明るい声に振り向くと、ネイビーが手を振っている。シアンを巡って睨み合っていても、兄弟揃ってお茶に呼ぶ辺り、不仲というわけでもなさそうだ。おそらく、シアンがいなければ呼んでまでお茶の席を共にすることはないだろうが。


 広いリビングには、窓際に丸いテーブルを囲んで横長のソファが三つ並んでいる。ネイビーが長兄であるアズールを奥側に促し、ネイビーとスマルトが向き合って腰を下ろした。

「さ、シアン。おいで」

 ネイビーが膝をぽんぽんと叩く。するとアズールが何かに気付いた様子で、あ、と顔をしかめた。

「お前、嵌めたな」

「あら、なんのことかしら、お兄様」

 奥側に座ったアズールの元に行くには、ネイビーかスマルトの前を通って行くことになる。どちらを選んだとしても、アズールの元には辿り着かないだろう。

「シアン」と、アズール。「女の人の細い膝より、安定した膝のほうがいいだろう? おいで」

「あ、体格差を出すのはズルよ」

「いえ……お膝にお邪魔するのは悪いですから……」

 引き気味で退いたシアンは、呆れた様子で頬杖をついていたスマルトにぶつかる。少しバランスを崩したシアンを、スマルトは即座に肩に手を添えて支えた。

「もう! どうしてシアンはスマルト兄様にそんなに懐いているの! スマルト兄様、何かズルをしてるんじゃないでしょうね?」

「お前らに引いているのは見ればわかるだろ」

 そう言いながら、スマルトは流れるようにシアンを隣に座らせる。膝に抱えられたらどうしようかとシアンは思っていた。アズールとネイビーがシアンに引かれるのを利用しているようにも考えられる。

「そうやっていっつもシアンを取るんだから! シアンはお姉様が好きじゃないの?」

「えっと……ほどほどの好きを保っていたいですね」

 正直な感想を漏らしたシアンに、ネイビーは衝撃を受けたように胸元を押さえた。

「シアンにそんなことを言われるなんて……」

「あ、えっと……」

「気にするな」と、スマルト。「相手にしていたら長い」

「シアン、僕は程好い距離感を保っているよ」アズールが言う。「その愛をいま証明して見せようか?」

「愛の証明とか重いんで……」

 またしても正直な気持ちが転がり出たシアンに、アズールも打ちひしがれてしまった。現時点では、スマルトの一人勝ちのようだ。

(うーむ……悪い気はせんが、少々重たいのう……)

 ひと段落ついたところで、見計らっていた様子のマゼンタがお茶を運んで来る。取り合い合戦が落ち着く頃合いを待っていたようだ。

 紅茶を啜ってひと息つくと、ネイビーがおもむろに口を開いた。

「いいこと思いついたわ。シアンのお守りは順番制にしましょう」

(お守りじゃったか……)

「それは良い案かもしれないな」と、アズール。「現状ではあまりに不公平すぎる」

「スマルト兄様も異論はないわね!?」

「父様の許可が下りればな」

「うぐぐ……その余裕の表情、腹立つわ……!」

「あらあら、楽しそうねえ」

 朗らかに微笑みながら、セレストが歩み寄って来る。子どもたち――主にシアン――がどうしているか様子を見に来たようだ。

 セレストは優しい手つきでシアンの頭を撫でる。

「お行儀が良くてお利口さんね」

 くすぐったくて微笑むシアンの頬を撫で、セレストは満足げに去って行く。そのスマートな愛情表現に、アズールの目から鱗が落ちた。

「なるほど……あれが重くない愛の証明か……」

「真似しなくていいですよ」

 苦笑いを浮かべて言うシアンの声は聞こえていないらしい。ネイビーも感銘を受けた様子だ。

「まだまだ研究の余地があるわね……」

 彼らはシアンの気を引こうとするが、無理強いするようなことはない。その独占欲には確かに愛情が乗っているようだ。少々どころではない重たい愛が、この冷たく凝り固まった胸中を解かす日が来るのだろうか。賢者はそんなことを考えた。



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