第11話 水を得た魚

 賢者にとってはいつも通りの朝だったが、シアンの心はとても緊張していた。今日の午後、いつも通りでないことが待っているからだ。

「今日は王宮でのお茶会ですね」

 シアンの髪を丁寧に整えながらマゼンタが言った。そう言われると、シアンの心の緊張が賢者にまで伝染して来るようだった。

 午前中はいつも通りに仕事をして、昼過ぎから母セレストとともに王宮へ向かう。待っているのはシャルトルーズ王妃とクロム王太子とのお茶会だ。内向的とならざるを得なかったシアンが緊張しないはずはない。

(身分が上の者とのお茶会はにこにこして話を聞いておればそうそう失敗せんから大丈夫じゃよ)

 シアンの心に語りかけつつ、手早く身支度を整えて寝室を出る。ダイニングに向かう途中で、セレストが彼を呼んだ。おはようの挨拶をしてシアンを抱き上げたセレストは、あら、と優しく微笑む。

「もしかして、もう緊張しているの?」

 シアンの緊張が顔に出ていたらしい。小さく頷くシアンに、セレストは笑みを深めた。

「王宮は初めてだものね。でも、王宮に行くのは午後よ。緊張を解くために、午前中は仕事でないことをしていてもいいわ」

「じゃあ、僕と遊ぼうか」

 いつからそこにいたのか、アズールが明るい笑みで言う。

「ん、えっと……いつも通り仕事をしたいです」

「そうね。いつもと同じように過ごしていれば緊張が解けるかもしれないわね」

 いつも通りに過ごしたとしてもシアンの心は緊張したままかもしれないが、賢者が平常心を保っていればそれで落ち着くこともあるかもしれない。

 朝食後、ゼニスがシアンを抱き上げるパワフルハグもいつも通りだった。

「いきなり王族とのお茶会なんて緊張するだろうな」

「そうですね……」

「親戚の家に行くくらいの気概で構わないさ」

 明るく笑うゼニスに、それはいかがなものか、とセレストに視線を遣ると、セレストも微笑んで見せる。

「そうね」

(それだけ親密ということじゃが……王族が親戚感覚とは……。ま、王室とサルビア家の信頼関係の為せること、じゃな)


 いつも通りにスマルトの執務室で仕事をしていると、シアンの心も幾分か和らいでいるようだった。それでも時計を見遣ると心臓が高鳴る。このままではいずれ心臓が止まるのではないか、と賢者はそんなことを考えていた。スマルトはそれに気付いていただろうが、気に留めないふりをしているのがありがたかった。

 昼食のあと、他所行き用の服装に着替えると、マゼンタはいつもより丁寧に髪を整えた。前髪に重点を置いているのは、シアンが瞳のことを気にしているためだろう。仕上げに襟が金縁になったブラウンのジャケットを羽織る。いつも屋敷ではブラウスで過ごしているため、勝手の違う服装だった。


 王宮へは馬車で向かう。シアンの緊張はついに最高潮に昇り詰め、賢者でも宥めることができなかった。硬い表情のシアンの頬を撫で、セレストは優しく微笑む。

「緊張するのは仕方ないけれど、気負う必要はないわ。緊張が必要ないのはすぐわかるもの」

「そんなに仲がいいのですか?」

「ええ。私も初めは姉が王妃になったことで線引きをしていたけれど、すぐに不要になったわ。王妃になったとしても、姉が姉であることに変わりはないもの。私たちの関係は変わらないわ」

 確かに、とシアンは考える。もしネイビーかブルーが王室に入ったとしても、シアンとの関係は変わらないだろう。王宮を抜け出して会いに来る可能性だってあり得る。

「何より、姉が王族と貴族という身分差によって関係が変わるのを嫌がったの。姉が変わらない関係を求めるなら、私にそれを拒む理由はないわ」

「素敵なご関係ですね」

 ネイビーとブルーもきっと同じことを言うはずだ。シアンの態度が線引きのために変わったとしたら、とても心苦しく思うことだろう。もしそうなったとしても、ネイビーとブルーが普遍の関係性を望むなら、積極的に拒む理由はシアンにもない。


 馬車が王宮に到着すると、女官と数人の侍女が出迎えた。

「お待ちしておりました」女官が恭しく辞儀をする。「サルビア侯爵夫人、シアン様。ようこそお越しくださいました」

「久しぶりね、スプルース。元気そうでなによりよ」

「恐れ入ります。どうぞ、王妃殿下がお待ちです」

 王妃付き女官のスプルースの案内を受け、シアンとセレストは王宮内に足を踏み入れる。王宮と言うと贅を尽くした豪華絢爛な印象が賢者にはあった。壁紙や絨毯は上質な物だが、シャンデリアは小ぶりで、花台には美しくも質素な花が飾られている。王宮を派手に演出することで国家の権威を表現するようなことが必要ないのだろう。ただ、廊下の窓から見える庭園は見事な造形だった。

 シャルトルーズ王妃とクロム王太子は中庭のテラスで待っていた。セレストがスカートを摘むのに合わせ、シアンも辞儀をする。

「王妃殿下、本日はお招きありがとうございます。王太子殿下もご機嫌麗しゅう」

「サルビア侯爵夫人、シアン、よく来てくれましたね」

 シアンは一瞬、シャルトルーズ王妃の眉がぴくりと震えた気がした。それは、シアンを見た瞬間である。

 シャルトルーズ王妃が軽く手を挙げると、スプルース女官とお茶の用意をした侍女たちが王宮内へと戻って行く。辺りに他の者の気配はなく、人払いを手配していたようだ。

「……シアンちゃん」

(シアンちゃん?)

 このときを待っていた、というようにシャルトルーズが緑色の瞳を輝かせた。このための人払いである。

「ちょっと抱き締めてもいいかしら……?」

 その明るい表情はセレストの微笑みとよく似ている。初めて会ったシアンに深い情愛を湛えた口元も。気品に溢れながらも、わくわくと手を広げて待っている。女性をこれ以上に待たせるものではないと近寄ると、シャルトルーズはサルビア家の者にも負けず劣らずの力強さでシアンを抱き締めた。

「ああ、セレストの言う通り、本当に可愛いわ! セレストったらひたすら自慢するくせになかなか会わせてくれなかったんだもの」

「お目通り叶い光栄です」

「あらあら、そんな堅苦しい挨拶は不要よ。正式なお茶会というわけでもなし、のんびり過ごしてちょうだい」

「はい」

 シアンを解放したシャルトルーズは、大人しく控えていた気の強そうな少年の肩に手を置く。

「私の息子のクロムよ。人見知りで目付きが悪いから怖く見えるけど、見えるだけだから安心して」

 シャルトルーズの強面形無しな言葉に少年――クロム王太子は剣呑な視線を母に投げた。情報によると八歳らしいが、むきになって否定するような子どもではないようだ。

 柔和なシャルトルーズとは対照的な雰囲気だが、シアンに対する偏見の視線は感じられない。人見知りというより、警戒に近い表情ではある。賢者には、王妃に仇を為す存在でないかどうかと見極めているように思えた。シャルトルーズの妹であるセレストには何度も会ったことがあるようで、その分は警戒も緩いだろうが。

 体格として、シアンはクロムを見上げる形になる。シアンは七歳にしては体が小さく、対してクロムは八歳にしては身長が高いようだ。

「どうぞ、座って。たくさんお話を聞かせてちょうだい」

 シャルトルーズとクロムはテーブルの斜交いに腰を下ろし、セレストに促されてシアンはシャルトルーズの正面の椅子に着いた。そのままセレストがティーカップに紅茶を注ぐので、周囲には本当に誰もいないようだ。

「シアンちゃんはサルビア家の事業の手伝いをしているそうね」と、シャルトルーズ。「優秀なようで羨ましいわ」

「ありがとうございます」

 にこやかに微笑んで見せたシアンに、あらあら、とシャルトルーズは頬に手を当てる。

「素直なのね。この子ったら、年々捻くれていくのよ」

 ぼやくように言ったシャルトルーズがそのままテーブルに肘をつくと、クロムがその肘をはたいた。行儀が悪い、ということだろう。

「んもう、細かいんだから」

 確かにセレストとシャルトルーズは対照的の性格のようだ、と賢者は考える。そのぽやんとした雰囲気が、クロムの毅然とした態度に繋がるのだろう。

「姉様がぼんやりしているからよ」と、セレスト。「悪意のある人間にうっかり騙されそうだもの」

「やだわ、セレストまで。でも、そういうところは夫似だわ」

 賢者は年鑑でセラドン国王の肖像画も確認した。クロムは国王似であることに間違いはないが、不機嫌そうな表情をしているためより雰囲気が尖って見える。弟たちの面倒見が良いしっかり者の長男、といった雰囲気も感じられる。

「シアン、せっかく王宮に来たのだし、少し庭園を見せてもらったらどう?」

「あら、それならお供なさい、クロム。迷ったら大変だわ」

 シアンとクロムはそれぞれ頷き、席を立つ。先に歩き出したのはクロムで、案内してくれるようだ。王宮の庭園は確かにサルビア侯爵邸の中庭より広く、花壇が入り組んだ迷路のようで迷ってしまいそうだ。シアンがそれに甘えることになんの問題もないだろう。

 クロムは一言も発しないが、シアンも気にせず花を眺める。よく見るためにシアンが立ち止まると、それに合わせてクロムも足を止めた。

(設備さえ整っておれば、侯爵邸の中庭の植物でも製薬ができそうじゃがのー)

「おい」

 ぼんやり考えながら花に伸びていたシアンの無防備な手を、クロムが掴むことで厳しく制する。

「それに触るな」

 つっけんどんに言うクロムの言葉に花へ視線を戻すと、よく見ると茎や葉に棘がある。小さく細かい棘であるが、子どもの手で触れては擦り傷でも負っていたかもしれない。

「ありがとうございます。棘があったんですね」

「それはアザミだ。怪我をする前に覚えておけ」

「はい。植物にお詳しいんですね」

「母上の影響だな。母上は実家にいる頃から自分の庭園を持っていたらしい」

 サルビア侯爵邸の中庭の一角が侍女たちの趣味の庭園であるように、シャルトルーズ王妃もベルディグリ公爵邸の庭に自分の庭園を持っていたのだろう。

「いまでもこの庭園の一部は母上の庭園だ」

「良いご趣味ですね。僕は無趣味なので羨ましいです」

「お前も一日中、仕事と勉強をしているらしいな。勤勉だと母上が褒めていたよ」

「それは光栄です。お前“も”ということは、殿下もそうなのですね」

 シアンの問いかけに幾分か表情を和らげたクロムは、そうだな、と肩をすくめる。

「毎日毎日、うんざりするよ。退屈じゃないか?」

「殿下の剣術の稽古は僕にはできないので、少し羨ましいです」

 剣術の稽古が厳しいものであると経験はしているが、体を動かして汗をかくのが清々しいことも知っている。シアンの体は小さくて肉体労働向きではない。

「お前には魔法の訓練があるだろ。俺には魔法力がないから羨ましいくらいだ」

 おや、と賢者は心の中で呟く。ベルディグリ公爵家は古くからの魔法一族。その長女シャルトルーズの子であるクロムも、その魔法の力を受け継いでいてもおかしくない。とは言え、血筋というだけであって能力は必ずしも受け継がれるとは限らない。

「剣術も魔法も一長一短で、得て不得手がありますからね」

「だが、対魔法戦となると剣術は不利だ。単純な剣術に比べて、魔法は種類が多すぎる」

「魔法も単純ですよ」

「そうか?」

「魔法には大きく分けて五つの種類があります」

 教義を始めるように左手を開くシアンに、クロムは興味を惹かれたようだった。

「大きく、マナ、空間、能力、攻撃、防御、に分かれます。マナというのは、大気のエネルギーを消費して使用する魔法です。空間はアイテムボックスなどの空間に干渉する魔法です。能力は『鑑定』や『耐性付与』『耐性無効化』などの魔法です。攻撃は攻撃魔法、防御は防御魔法。相手が使おうとしている魔法の種類を特定できれば対処することができます」

 これはどこの世界でも共通であることを賢者は実証済みだ。それぞれの種類にはそれぞれの対処法がある。それさえ把握してしまえば対魔法戦でも無敗を誇ることができるだろう。自分がそれに対応する術を身につけているかどうかは賭けである。

「種類というと」と、クロム。「炎や水や雷なんかは?」

「そちらの属性にはあまり意味はありません。特定の物体に対して有効というだけで、対人ではあまり効果はありません」

「俺は魔法力を持っていないが、魔法の特定をすることはできるのか?」

「感知系のスキルを身につければ容易なことです。魔力検知のスキルは魔法力がなくても習得できるはずです」

 懐かしい、と賢者は思った。剣術を主力とする弟子には魔法に対応するための方法を教え、魔法を主力とする弟子には検知を掻い潜る方法を教えた。この五つの種類を頭に入れておくことで、戦術の幅は大きく変わる。その知識を持つ者同士の戦いとなると、応用力も必要になってくる。自分に合う戦術を身につけることが肝要だ。

「参考にさせてもらうよ。それにしても、やけに詳しいな」

「魔法は魔法学に基づいていますから。その実、解析してしまえば無力のようなものです」

 魔法使いである賢者がそう断言するのも妙な話だ。だからこそ、ということもあるが、剣も魔法も使いようだ。

「それは魔法使いの共通認識なのか?」

「どうでしょう。魔法学に明るくない魔法使いは知らないかもしれませんね」

 それを教授することで目から鱗が落ちた弟子は数え切れない。

「そういえば、叔母様は魔法学研究員だったな。親の影響力は強いな」

 そこへ、タイミングを見計らったようにセレストがシアンを呼んだ。

「そろそろお暇しましょう」

「はい。失礼します、殿下」

「ああ。また話を聞かせてくれ」

「はい」

 思いがけず魔法学の授業となってしまったが、どうやらクロムは気に入ったようだった。正確な知識は正しく使える者のもとへ行くべきだと賢者は考えている。おそらくクロムは正しく使える者となるだろう。そうであれば、知識を伝授することに躊躇する必要はないはずだ。


 馬車に乗り込み王宮を離れてしばらく、セレストが優しく微笑んで言った。

「楽しめたかしら」

「はい。有意義な時間を過ごせました」

「よかったわ。クロム殿下は魔法に苦手意識をお持ちでいらっしゃるの」

 賢者もなんとなくそれには気付いていた。ベルディグリ家の血筋でありながら魔法の力を受け継いでいないことに負い目を感じているようだった。

「あなたは魔法学に詳しいし素直な性格だから、クロム殿下のお力になれるのではないかと思うの」

「お力に……」

「魔法学の発展とともに魔法の解析が進んでいくと、魔法はいまよりさらに発達するわ。次期国王であらせられるクロム殿下が魔法を敬遠していては、対魔法となったときに不利になる。口うるさい教育係より、年齢の近いあなたのほうが話を聞くつもりになられるはずよ」

「それで僕を連れて来たんですね」

「親しい叔母の息子となれば警戒心も薄くて済むでしょうしね。まあ八割方、私があなたを自慢したかっただけよ」

 セレストは爽やかに微笑む。ついでということはないだろうが、そう感じさせるほどの晴れやかな笑みだった。

「クロム殿下のお力になって差し上げて」

「はい、もちろんです」

 次期国王に力添えすると考えると責任が重く感じられるが、国の重要人物に助言をしたのは初めてではない。むしろ何度もある。悪人だと判断した場合は知恵を閉ざしたが、そうでなければ惜しみなく教授する。知識は自分の中に蓄積するものではなく、何かに役立てるための道具だ。賢者には、次期国王を導くための気概はある。自分の知恵が何かの役に立つなら本望だ。能力を遺憾なく発揮する機会を得たと言っても過言ではないだろう。久々に賢者の血が騒ぐような気分だった。




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