第12話 カージナルのハッピータイム
「シアンちゃん! ハッピータイムよ〜!」
勉強部屋に入って来るなり、カージナルが両手を挙げて明るく言った。その表情は楽しそうで、輝いている。
「ハッピータイム?」
首を傾げるシアンとは対照的に、スマルトはうんざりしたような溜め息を落とした。シアンは初めて見る光景だが、スマルトは何度も遭遇しているようだ。
「アタシがご機嫌だと、授業がいつもより良い調子で進むわ。きっと今日なら二倍の速度で進むわよ〜」
「カージナルさんが不機嫌のときがあるんですか?」
「基本的にはないわね。アタシはいつでもハッピータイムよ〜」
機嫌が良いのはいいことだ。そばにいる者が不機嫌なときはこちらも気分が落ち込む。賢者はそれをよく知っていた。それが教師となれば尚更だ。機嫌の悪い教師に教わるのは集中力が削がれる。とは言え、どんな人でも機嫌は良いに越したことはない。
「くだらないことを言っていないでさっさと授業を始めろ。こっちは忙しいんだ」
「んもう、釣れない男!」
剣呑な視線を向けるスマルトに頬を膨らませたあと、カージナルは気を取り直して教本を開いた。機嫌が良いからと言って延々と無駄話をするような性質ではないようだ。
(自分の上機嫌に名称をつけるとはのう……。ま、ご機嫌なことに気付いてほしいなんて言うより、上機嫌宣言してもらったほうが気が楽じゃがのう)
この日の授業は、なんとなくいつもよりやりやすかったような気がしないでもなかった。
「シアンちゃんは何歳くらいで王立魔道学院入学を目指す予定?」
教本を閉じると、カージナルが思い出したように問いかけた。
「十歳くらいで想定してます」
「あと三年ね。ブルーちゃんの成績では同時入学は少し難しいかもしれないわね〜」
「ブルーの成績も把握してらっしゃるんですか?」
「もちろん。シアンちゃんと通いたいから同じペースで授業してって頼みに来たのよ。彼女は彼女で熱心だわ」
その姿は容易に想像できる。シアンはその気になれば来年の入学も不可能ではないとアズールは言っていた。しかし、ブルーがそれを目指すのは無理があるだろう。そうであれば、シアンが勉強の速度の上がり幅を狭める必要がある。ブルーはそれがよくわかっているようだ。
「だからってシアンちゃんのペースを落とすことはしないわ。アタシは容赦ないわよ〜」
そのほうがブルーもやる気になるはずだ、とシアンも思う。シアンに追いつくためにと思って勉強をしていれば、成績も急速に上がるだろう。シアンの授業のペースを上げることで、ブルーのモチベーションの向上に繋がるはずだ。
カージナルがご機嫌なままで去って行くと、シアンはスマルトを見上げた。
「カージナルさんのハッピータイムはよくあることなんですか?」
「よくわからない上機嫌はよくある。不機嫌なところは見たことがないな。頭の中はいつでもハッピータイムなんじゃないか」
これまでもカージナルは上機嫌に思えたが、わざわざ宣言するということはいつもより機嫌が良かったのだろう。シアンにはその微妙な変化を見極めることはできなかったが。
ダイニングに入った瞬間、見計らっていたかのようにネイビーがシアンを抱き上げた。仕事で疲れている様子で、いつもよりシアンを抱き締める腕の力が強い。シアンを抱き締めることで鍛えられた筋力の存在を感じた。
「今日はカージナルのハッピータイムだったみたいね。ご機嫌だったわ」
おかしそうにしながらネイビーが言うので、シアンは首を傾げる。
「カージナルさんのハッピータイムのことはみんなが知ってるんですか?」
「ええ。よくわからないけど上機嫌のときがあるの。ハッピータイムよ〜ってよく言ってるわ」
確かに大きな声での宣言だったため、他の部屋にも聞こえていたことだろう。もしかしたら、屋敷中に響き渡ったのかもしれない。
「上機嫌な理由は特にお話しされませんでしたが……」
「カージナルは基本的に仕事をしに来ているだけだから、自分のプライベートな話はあまりしないわ。訊いたら話すだろうけど」
確かに、カージナルは授業も前も後も世間話などせず、仕事のために屋敷を訪れ、仕事が終わったらさっさと帰って行く。プライベートな話に踏み込まれたくないというわけではなさそうだが、世間話は時間の無駄だと思うような性質の完全な仕事人間なのかもしれない。
「聞いてくれないの、なんて理不尽な怒り方をする人ではないわ。上機嫌でも不機嫌でも放っておいて大丈よ」
「そうですか……」
カージナルの扱いは相変わらずだが、そこまで把握しているということは関心がないということでもないのだろう。付かず離れずの関係、といった雰囲気を感じた。
* * *
仕事に慣れたシアンの手際がよくなると、自然とスマルトの手伝いをすることが増えた。そうして効率良く仕事をこなすことができるようになれば、もっと事業に貢献できるようになるはずだ。
マゼンタが持って来たハーブ水で休憩をしているとき、シアンはふと思い立って言った。
「カージナルさんはどんな人なんですか?」
「あいつ自身については俺たちもよく知らない。昔からの付き合いではあるが、家同士の特性上、あいつはプライベートな話をしない」
そのネイビーと同じ意見は、兄弟の中の共通認識のようだ。
「オペラモーヴ家はサルビア家の“影”であり、事業で父様の補佐をする一族でもある。父様の現在の補佐はカージナルの父親で、父様の出した依頼を遂行するのはカージナルだ」
ともすればサルビア侯爵より忙しいのではないだろうか、とシアンは考える。カージナルは事業のことでスマルトに相談しに来たときがあり、その傍ら隠密での働きもしている。諜報活動のようなものだろう。昔から表でも裏でもサルビア侯爵家を支え、カージナルの父親もそうなのであれば、オペラモーヴ家は相当に忙しい家柄のようだ。
「僕たちの授業の他にも家のために仕事をしているんですね」
「そうだな。仕事だけの関係というわけではないが、基本的に仕事のやり取りしかしない」
「公私混同しない性質の方なんですね」
「そうだろうな。互いに関心がないわけでも不仲なわけでもないが、プライベートな話をしたくないのではなく、仕事にストイックなんだろう。お前が訊けば喜んで話すだろうがな」
「じゃあ、次にハッピータイムが訪れたらお話を聞いてみます」
「わざわざ付き合う必要もないぞ?」
「何か面白いお話が聞けるかもしれませんから」
上機嫌を「ハッピータイム」と名付けること自体がシアンにとって面白いことだが、毎日のように忙しくしているカージナルがどんなことで上機嫌になるのかが気になる。この屋敷の外での話なら、きっとシアンにとって面白い話となるだろう。
* * *
翌日の午前。シアンとブルーがピアノホールで講師を待っていると、部屋の外からスキップのような足音が聞こえて来た。間もなくピアノホールのドアが勢いよく開け放たれる。
「シアンちゃん、ブルーちゃん、ハッピータイムしてる〜?」
カージナルが満面の笑みでピアノホールに入って来た。その表情はキラキラと輝いており、とてもご機嫌であることは明らかだ。
「こんにちは。何か良いことがあったんですか?」
シアンが問いかけると、きゃっ、とカージナルは頬を両手で挟む。
「聞いてくれるのぉ〜!? 実は、うちの庭園で育てている花が今朝、開花したの〜! と〜っても綺麗なのよ〜!」
シアンが思っていたより随分と乙女チックな上機嫌だった。些細なことでも気分が上がるのは素晴らしいことだ。
「花を育ててらっしゃるんですね」
「ええ。中庭の一角に自分の庭園を持つのが、乙女のた・し・な・み! ブルーちゃんもやってみるといいわ」
忙しくしていても花を愛でる時間を持つとは見上げたものである、と賢者は思った。ストレス発散の瞬間でもあるのかもしれない。
「心が穏やかになるわよ〜。ちょっとした暇潰しね。花を愛でることでレディとしての気品を育てることができるわ」
ウインクしながら言うカージナルに、うーん、とブルーは唇を尖らせた。
「毎日ちゃんと水あげできるかな……」
「自分の庭園を作ってもらえば意識が変わるわ。何かを育てるという経験は大事よ。花が大きくなったら大きくなっただけ、経験値として身につくわ」
自分のハッピータイムからブルーの情操教育に繋げるとは、と賢者は感心していた。何事も教育で、その隙を見逃さない能力に長けているのだろう。教育者に向いているようだ。
「さ、今日もハッピーレッスンを始めるわよ〜。アタシは厳しいわよ〜」
ハッピータイム中のレッスンは、ご機嫌なカージナルの褒め言葉が楽しげに行き交い、明るいリズムを刻む手拍子は気分を上げ、確かにいつもより楽しい気がした。
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