第15話 初めてのケンカ記念日

 昼食を終えると、土曜の午後は自由時間となる。ダイニングに入るなり万歳をして「終わったー!」と表情を輝かせたブルーの気持ちもシアンにはよくわかった。仕事は楽しいが、休暇となると気分が上がるのは確かである。

 昼食後、アズールがシアンを呼び止めた。

「明日の午後、依頼を受けに行かないか?」

 明日は日曜日。午前中は父の宣言通りに能力値の計測が行われるが、午後は先週と同じように談話室で過ごすと思っていた。

「依頼ですか?」

「うん。この国の各所に迷宮があるのは知っているよね」

「はい」

 この世界には「冒険者」が存在している。各地で魔獣が暮らしており、害がある物から害がない物まで生態系が成り立っている。その魔獣が生息している地区が「迷宮」と呼ばれている。迷宮では薬や魔道具に必要な素材を採取することもでき、魔獣の討伐や素材の採取を冒険者に依頼する仕組みが「冒険者ギルド」だ。その依頼を受けることで生計を立てている者はこの世界にも存在しているようだ。魔獣を討伐することで能力値の向上にも繋がる。貴族が受ける機会はないと賢者は思っていた。

「魔獣討伐の依頼があるんだ。下位級の魔獣だから、そう苦労することもないはずだよ」

「依頼はよく受けられるんですか?」

「たまにだね。せっかく能力値を計測するんだし、実力を試しに行こう」

 それは楽しそうだ、とシアンは考える。賢者は最後に依頼を受けたのは何年も前の話になるし、シアンは一度も受けたことがない。アズールに同行していれば危険な目に遭うことはそうそうないと考えると、純粋に冒険を楽しむことができるかもしれない。

「他にどなたか行かれるんですか?」

「僕とシアンとスマルトで受付しておいたよ」

 アズールは爽やかに言う。しかしシアンはその言葉に引っ掛からずを得なかった。

「……勝手に?」

「え」

 アズールの表情が固まるのは、シアンが剣呑な視線を向けたからだ。

 賢者は行動を制限されることが嫌いだ。意見を聞かれずに決められることが最も嫌いだ。賢者のこれまでの経験とシアンの不安な気持ちが、シアンの視線を冷たいものへと変えた。

 そんなシアンに、アズールは慌てて言う。

「行くのは『冒険者の迷宮』だ。初級中の初級。迷宮デビューに使うような場所だ」

「…………」

「僕たちなら擦り傷すら負わない。危険度は限りなく低い。シアンの能力値なら申し分ないよ」

 言えば言うほど不機嫌な顔になるシアンに、アズールの焦りはさらに高まる。傍らで眺めるスマルトも呆れた表情だった。

「なぜ行くかどうか先に聞いてくれなかったんですか?」

「え、いや……シアンなら行くと言うかと思って……」

 シアンが小さく落とした溜め息は、アズールにとって極め付けだった。

「人のことを勝手に決める人は嫌いです」

 吐き出すようにそう言って、狼狽えるアズールに背を向けてダイニングを飛び出す。追いかけようとしたアズールをネイビーが呼び止める声が聞こえた。

 気分を落ち着けようと、中庭の花壇のあいだに挟まるように体を丸める。シアンのあとを追って来たスマルトは、彼のそばで腰を屈めた。

「お前が怒るなんて珍しいな」

「自分のことを勝手に決められたら僕だって怒るのは当然です」

「そうだな。行きたくないなら俺が断っておく」

「行きたくないわけではないんです。先に聞いてもらえれば素直に行きました」

「ああ、そうだな。アズールもこれでわかっただろ。次からはちゃんと聞きに来るはずだ」

 機嫌を取るようにスマルトが優しくシアンの背中を叩く。シアンが不貞腐れることは滅多にないため、スマルトもどう機嫌を取ればいいか掴みあぐねている様子だった。

「スマルト様。少々よろしいでしょうか」

 廊下の大窓からアガットが呼ぶ。スマルトはシアンにここから動かないよう言いつけて去って行った。

 ひとつ息をつき顔を上げると、この世界で目を覚ました日に登った木が目に入った。気持ちを落ち着けようと、木の根本に向かう。いまなら周りに庭師がいないため、シアンが登っていても咎められることはないだろう。

 枝に腰掛けて中庭を見下ろすと、素足をさらう風が心地良く、少しだけ気分が平常心を取り戻したような気がした。

(年甲斐もなく不機嫌になってしまったわい)

 これまでの経験によるものであることはわかっている。勝手に決めつけられて断れず、不利益を被って来た記憶が過剰反応を起こしているのだ。

 前世の記憶を持っていることを、便利だと思ったこともあるし、煩わしいと思ったこともある。魂は引き継がれるたびに研磨され、能力値を底上げして格段に伸ばすことができる。得もあれば損もある。だが、これまでの記憶によって現在の幸福を噛み締めることができるのも確かだ。シアンの場合、賢者の魂を得たことで能力値を上げ、自由度の幅を広げることができるかもしれない。シアンの中に賢者の魂があることでシアンが賢者の辛い過去を見ることにもなるが、賢者はその経験によってシアンを守ることができる。シアンにとってどちらがいいのかはいまだ判然としないが、拒絶はされていないようだ。

「シアン」

 呼びかける声に視線を下に向ける。相変わらず焦燥を湛えた表情でアズールが歩み寄って来た。

「僕が悪かったよ。謝るから、そこから降りて来てくれ」

 シアンが腰掛ける位置はアズールの頭より少し高いが、いまここから落ちてもアズールが受け止めてくれるだろう。わざと落ちて驚かせようかと一瞬だけ考えたが、アズールの心臓が止まりそうだ。やめておいがほうがいいだろう。

「勝手に決めて悪かったよ。次からはちゃんと聞きに行く」

「……約束してくれますか?」

「ああ、約束するよ」

 やれやれ許してやるか、とわざと偉そうな口調で考えながら、アズールの手を頼りに木から降りる。シアンの手が木から離れると、アズールは彼の体をいつもより強く抱き締めた。

「お前を怒らせたのは初めてだ。どうしたらいいかわからないものだな」

 シアンは元々あまり怒らない性質のようだ、と賢者は考える。それは概ね想像通りだが、怒りたくても怒ることができなかったのだとすれば虚しいことだ。

「でも、安心したよ。お前はいつも辛そうな顔をしているのに何も話してくれなかったからな。そうやって嫌なことを言ってくれたほうが安心する」

 感情を表に出すことは、正しいときもあれば間違いのときもある。それがシアンにとってどういうものだったのかはわからないが、成否以前の話だったと賢者は思わざるを得ない。

(抑制せざるを得なかったのなら、不憫じゃのう……)

 シアンが靴を履き直しているあいだにスマルトが戻って来て、三人はシアンの私室に向かった。目的の「冒険者の迷宮」について説明を受けるためだ。


 お茶を持って来たアガットに尋ねると、ネイビーとブルーはふたりでブルーの私室でのんびりしているらしい。シアンと過ごせないことで不貞腐れてシアンとアズールの仲直りの機会を奪うようなことはないようだ。

 ソファに腰を下ろしたシアンとスマルトの前に、アズールが「冒険者の迷宮」の地図を広げた。

「冒険者の迷宮は全部で八階層まであるが、依頼は大抵、三階層まで行けば済む。特に仕掛けや罠もなく、初級中の初級だな」

 構造も単純なもので、八階層がただ階段で繋がっているだけだ。よほどのことがない限り迷うこともないだろう。

「生息しているのは、ポケットラット、ギミックバット、グリーンウォンバットの三種類だけだ」

(低級の中でも最下位の御三家じゃな)

 ポケットラットはその名の通り、体の小さなネズミだ。象牙色の毛が可愛らしさを感じられ、魔獣の中でも無害な存在であるため、ペットとして飼育している者もいるのだとか。ギミックバットは大きな蝙蝠で、尻尾を切ってから体を斬らないと倒すことができない。グリーンウォンバットはポケットラットの次に可愛いとされている魔獣で、愛好家は世界各国にいるのだとか。

「個々は無力と言ってもいいほどだが、繁殖力が高くてね。間引かないと増えすぎて危険なんだ。だから今回は、この三種類を討伐するのが依頼だ。魔獣が増えすぎると迷宮デビューの危険度が増すからね」

(無害な魔獣が生息しとるということは、天敵もいないということ……。それは確かに増えるじゃろうのう)

 定期的に人間が間引きに入らなければ、最下位迷宮として足を踏み入れた冒険者が数に押されて危険に晒されるということだ。

「素材は何か採れるのですか?」

「簡単な薬に使う薬草なんかは採取できるよ。必要な物がここで採れるなら、積極的に利用したいね」

 迷宮デビューのためだけの迷宮ではなく、利用価値は他にもあるようだ、と賢者は考える。迷宮の多くは管理者がいないため何もかもが野放しになっているが、冒険者の迷宮はその利用価値のためにこうして依頼を出すことで管理をしているようだ。

「ギミックバットとグリーンウォンバットは僕とスマルトで請け負うから、シアンはポケットラットを討伐してほしい。魔法の良い練習にもなるよ」

「わかりました」

 ポケットラットは確か、と賢者は記憶の中の魔獣図鑑を検索する。ポケットラットは体が小さく動きが素早いため、剣戟で捉えることはできず魔法で倒すのが主流だ。熟練度が上がれば短剣一本で倒すこともできるが、シアンには夢のまた夢だろう。魔法での戦闘がシアンにとって最適だ。

「素材採取はしないから、とにかく指定の数だけ討伐すればいい。シアンの迷宮デビューになるから、能力値の向上も期待できると思うよ」

 迷宮デビューの功績はシアンは特に必要ないだろうが、最初の一回目だけ得られる経験値は期待できる。「冒険者の迷宮」はそういった点で重宝されるようだ。

「計測の前に行って能力値を底上げしたりしないんですか?」

「計測の目的は飽くまでフラットな状態の能力値を測ることだ。その前に後付けの経験値を得ると、正確に計測できないからね」

(経験値が能力に馴染んで数値に反映されるまで少々時間がかかるからのう)

「装備品は屋敷にある物でいい。あとでマゼンタに指示しておくよ」

「はい」

 依頼としては単純明快で簡単なものだ。わざわざこの三人で受ける難易度ではないように思うが、シアンの経験値を積むにはちょうどいい。依頼を遂行することでシアンの自信にも繋がるかもしれない。アズールはそれを期待しているのだろう。

(経験値を積むなら小さいことからコツコツと、じゃな)

 そのとき、どんどんどん、と乱暴にドアがノックされた。

「いつまで話し合いしてるの?」ブルーの声だった。「今日は盤上遊戯で遊ぶ約束でしょ!」

「すぐ行くよ」

 シアンがそう応えると、アズールは地図を畳む。必要な情報は充分に得ることができたはずだ。

「少し楽しみになって来ました」

 そう言って微笑むシアンに、アズールもどこか安堵したように微笑む。

「僕たちがいれば危険はほとんどないし、楽しむつもりでいるといいよ」

「はい」





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