第6話 いじめっ子といじめられっ子
ふと目を開くと、辺り一面が黒で覆われた空間に立っていた。自分の体は足元まで見えるため、暗闇ではないようだ。息苦しさを感じるようなことはなく、魔力が漂っているわけでもない。何もかもが“無“の世界のようだ。
(はてさて……ここはどこかのう)
年老いて重くなった足取りで歩き出す。ここに棒立ちしていてもなんの情報も集まらなさそうだ。
しばらく何もない空間が続いたあと、不意に向こう側に仄明かるい光が見えた。どうにかこうにか足を動かして歩み寄ると、それがこちらに背を向けた少年だと気付く。賢者にはそれがシアン・サルビアだとすぐにわかった。シアンは座り込んで泣いている。
「シアン、こんなところにおったんじゃな」
賢者が優しく肩に触れると、シアンは涙に濡れた顔で振り向いた。不安そうな表情だ。
「おじいさんはだれ……?」
しゃくり上げながらシアンが問う。賢者は彼のそばに膝をついた。中途半端に腰を屈めているのが辛くてシアンの隣に座ることにした。
「わしは……。はて、わしの名前はなんじゃったかのう……」
「おぼえてないの?」
「うむ……長年、誰も名前で呼ばなかったからのう……。あと、年じゃし」
弟子や賢者の知恵を頼って来た者はみな「賢者様」と呼んだ。友人が死んで数年も経つと、経年によって名前を忘れるのは致し方ないことだ。
「ま、そんなことはどうでもよい。いまはお前さんの一部でしかないからのう」
残念ながらハンカチなどという上質な物は持っておらず、ローブの袖でシアンの頬を拭ってやる。揺れる瞳が紅玉のようで実に美しかった。
「わしが怖いかの?」
「ううん……」
「うむ。わしに任せておくとよい。ともに素晴らしい余生を過ごそう」
返事代わりに、シアンは賢者の肩に腕を回した。溶けるように意識が混ざり合ったあと、賢者も静かに眠りに落ちた。
* * *
ベッドの上に体を起こすと、シアンは大きく伸びをした。老人が朝早くに目が覚めてしまうのはどの世界でも共通認識で、賢者も例に漏れずであった。思う存分に眠るというのはとても心地が良い。素晴らしい目覚めだ。
(ふむ……シアンにとってわしは名前も知らないじじい。不安になることもあるじゃろうの)
こうして面と向かって会うことができれば、シアンの本当の望みを知ることができるだろう。そうすれば、シアンにとってもより良い人生になるはずだ。賢者は、自分だけが幸福に包まれようとは思っていない。シアンがいてこそのシアン・サルビアだ。シアンの心を蔑ろにはできない。再びシアンと言葉を交わせる日を願うばかりだ。
朝食はいつも通りシアンを溺愛するための席のようだった。父ゼニスはシアンを抱き締めてからでないと出勤できない様子で、シアンはやはり胃に放り込んだ物が逆流しそうになった。それで父が仕事に精が出るなら安い物だろう。
シアンは今日もスマルトの執務室での仕事だ。基本的には書類上での仕事で、動かす必要があるのは頭だけであるため大した労力はかからない。肉体労働でなかったことは僥倖だ。
「兄様は現場でお仕事することはありますか?」
休憩のとき、シアンはふと問いかけた。昨日はアズールが現場に行ったようだが、基本的に屋敷外で仕事をするのはゼニスだけのように思う。
「あるぞ。その場合は、お前を連れて行くことはできないがな」
そもそも七歳であることに加え、特性によって悪意がもたらされるかもしれない。仕事の妨げになる可能性があるため、シアンが同行することは避けたほうが賢明だろう。
「だから父様はお前を自分の補佐にしようと考えている。王立魔道学院の卒業資格を取り、父様の補佐になれば、お前の人生の自由度は上がるだろうな」
王立魔道学院について、賢者は充分と思えるまで情報を集めることにしている。シアンが魔法学校で迫害を受けていたとすれば、学校に対する恐怖心があるかもしれない。彼が怖がらずに済む世界を構築するため、確かな情報が必要になるだろう。
「そうなっても、兄様たちをお仕事をすることはできますか?」
「そうだな。お前がそう望むなら」
ネイビーが十代半ばほどと考えると、シアンが父の補佐となることも少なくとも数年後のことになるだろう。そのときのサルビア家がどうなっているかはわからないが、スマルトたちが有能であることは変わらないはずだ。高い能力を持つ彼らが屋敷で書類整理の仕事だけというのは、賢者にとっては少々惜しいような気がした。
ノックの音に、どうぞ、とスマルトが応える。執務室に顔を覗かせたのはアズールだった。
「ちょっといいか?」
「ああ」
「シアンは少し休憩して来るといい」
つまり自分は外していたほうがよさそうだ、とシアンは素直に頷いて執務室をあとにする。踏み込んだ仕事となると、ただの手伝いでしかないシアンに見せることで不都合が生まれる可能性もある。彼らの意図を汲むことに損はないだろう。
中庭にはふたりの庭師の姿があった。花壇の手入れをする髭の男と、木の剪定をする若い男は、シアンに気付くと帽子を上げて挨拶をする。これは良い機会を得た、とシアンは彼らの仕事を眺めることにした。
そのあいだ、胸元に手を当ててシアンの心との対話を試みた。夢でなくとも言葉を交わすことができるのではないかと考えたが、シアンの声は聞こえなかった。引きこもっているのかもしれない。
「やあ、シアン」
聞き慣れない声が耳に届いたとき、ピリ、と肌が痺れた。それまで黙っていたシアンの心が怯えたように感じられた。
声のほうを振り向くと、紺色の短髪の少年が歩み寄って来る。にこやかに微笑んでいるが、その瞳に宿った悪意に賢者が気付かないはずがなかった。
「元気になったようで安心したよ」
「どうも。どこの家の人かな」
シアンの問いかけに、少年はきょとんと目を丸くしたあと、はは、と渇いた声で笑う。
「僕を忘れたのか? まあいい。学校を辞めたらしいね。成績が良かったのにもったいない」
例の魔法学校の同級生らしい、と賢者は考える。顔も名前も記憶にないが、少年の動向にふたりの庭師の空気も張り詰めていた。いざというときは手にしたスコップで応戦するのかもしれない。
「よかったらうちで勉強会に参加しないか?」
親密さを表現するように肩に触れた手を、シアンは即座に払い落とした。
「気安く触らないでもらえるかな」
剣呑な視線を向けるシアンに対し、少年は驚いた様子で言葉を失っている。
この少年はいま、シアンに“何か”を仕掛けようとしていた。それは攻撃にも似たような魔力だったが、実に稚拙な術式であった。それでも、子どもが子どもに仕掛けるには充分な効力があるものだろう。これは明確な害意である。おそらく、この少年はシアンが倒れる原因のうちのひとり。悪質ないじめっ子ということだ。
「チリアン、何をしに来たんだ」
中庭に出て来たスマルトが冷ややかに言う。チリアンと呼ばれた少年は、気を取り直した様子で肩をすくめた。
「シアンが心配で見舞いに来たんです」
「シアンは見ての通りだ。心配は要らない」
「そのようですね」
気取った様子で辞儀をして、少年は彼らに背を向ける。屋敷の中に通されたということは、ある程度の地位を持つ貴族の家の子どもなのだろう。突き返すことで家同士の関係に不都合が生まれるのかもしれない。
「彼はどのような人ですか?」
「彼はチリアン・オーキッド。お前の幼馴染みで、父親が父様の事業の部下だ。何かとお前を
(気にかけていた、か……。庇護欲ではなく、加虐心のようじゃがの)
シアンはおそらく、跳ね除けることができなかったのだろう。あの不安げに泣くシアンの表情が思い浮かんだ。
「僕には彼のような“友人”が他にもいるのですか?」
「そうだな。お前は彼らの勧めで街の魔法学校に入学した。父と母は王立魔道学院を勧めたが、自信がなかったようだな」
その自信をつけるための魔法学校だったのだろう、とシアンは考える。そうやって唆されたのかもしれない。
「彼らがそういった
先ほどのチリアン・オーキッドの表情から察するに、隠すことが得意な少年なのだろう。彼のような生徒を教師は「善良」と判断する。特に、シアンのような「問題児」を気にかけているとなれば尚更だろう。
「貴族は秘め事を好む。オペラモーヴ家の情報網がなければ、いまも気付いていなかっただろうな」
予想していなかった家名に、シアンは兄を見上げた。スマルトはシアンと視線を合わせるように腰を屈める。
「サルビア家の者なら誰でも知っていることだが、オペラモーヴ家の特性は“隠密”だ。昔からサルビア家の“影”として成り立って来た。そうでなければあの父と母がカージナルのような変質者をお前の家庭教師に雇ったりはしなかっただろうな」
シアンはようやく合点がいった。散々「変質者」と罵っておきながら大事なシアンの家庭教師に雇い、それにも関わらず相変わらず「変質者」と称している。昔から家同士で築いて来た信頼関係があるのだ。おそらくカージナルもサルビア家から「変質者」と言われていることを承知しているのだろう。
「あいつは変質者で間違いないが、信用してもいい。お前の友人と名乗る者とは大違いだ」
カージナルはとにかくシアンの能力に興味を惹かれており、害意は一切も感じられない。先ほどの少年から明白だったのは、まさに害意。現在でもシアンを見下し、支配しようとしている。
「僕の友人は彼のような人ばかりなんでしょうか」
「対等な友人もいたようだが、お前は学校のことを話したがらなかったからな。学校を辞めたことで縁は切れたと思っていても問題はないだろ」
記憶にないことを申し訳ないと思っても意味はないだろう。どこかで会ったとしても覚えていないのだ。
「サルビア家にとって、彼らと繋がりを保つ必要はありますか?」
「あるわけないだろ。お前に危害を加えたことで訴えてもいいくらいだ」
スマルトはいつもの冷静な表情だが、その言葉に怒りが込められていることは明白だった。オペラモーヴ家の調査結果がどんなものだったかは判然としないが、きっとこの先、オーキッド家は無事では済まない。そう思わせるには充分な気迫だった。
「いずれ思い知らせてやる必要があるだろうな」
「う、えっと……どうか穏便に……」
「領主の息子に危害を加えて穏便に済むわけがないだろ」
シアンがそれを誰かに打ち明けることはできない、と確信を持っていたのだろう。倒れる直前、シアンに何があったかシアンは教えてくれないが、倒れるほどの攻撃を受けたのか、それとも賢者の転生によって倒れたのか、それは判然としない。オペラモーヴ家の情報によって、スマルトたちは何か確証を持っているのかもしれないが、シアンが訊かなければ話すことはないだろう。
「でも、証拠がないということになりませんか?」
「サルビア家は『蒼の記憶』という遺伝子を持っている。心身にかけられた魔法を記録しておく身体機能だ。身分と立場を守るための血筋だな」
もしチリアン・オーキッド率いる“シアンの友人”が攻撃性を持って魔法を仕掛けたのであれば、シアンの体にその記録がしっかり残っているということだ。子どもには知り得ない情報かもしれない。
「……あれ? ってことは……」
「お前が寝ているあいだに検査はしたぞ」
「ええ……」
「その記録から魔法と術者を特定し、オペラモーヴ家の集めた情報を合わせれば、訴えるのは簡単だろうな」
(かっ、過激……!)
少々戦慄いてから、それもそうか、と考え直す。魔法を受けて昏倒したのであれば立派な攻撃だ。爵位のある家は何かと狙われる。血筋の系譜に連なる自衛本能のようなものだろう。
(しかし、検査のタイミングによっては、わしの魂がシアンに入り込んだこともバレてしまうんじゃなかろうかの……)
賢者にとって、自分の魂がシアンに入ったことで家族がシアンに失望することが最も避けたいことだ。シアンがもう自分たちの知っているシアンでないと気付けば、家族はシアンに対する関心を失ってしまうかもしれない。サルビア家にとって、賢者はまったく赤の他人のじじいだ。特に徹底的に隠そうとしているわけではないためすでに気付かれている可能性もあるし、シアンであることに変わりはないと受け入れられる可能性も考えられる。どう判断するかを考えるのは、なんにしてもまだ時期尚早のように思えた。
「どうした?」
物思いに耽っていたシアンを、スマルトが覗き込む。深く考え込んでしまうのはいつもの癖だ。
「この屋敷にいれば安全だ。お前を脅かすものは何もない」
「はい。いずれ本格的に魔法を学ぶ必要がありそうですね」
「その辺りはカージナルに任せておけばいいだろ」
「信用してるんですね」
「人間性以外はな」
スマルトが顔をしかめるので、シアンは小さく笑う。カージナルがどんな人間であるかいまはまだ判断できないが、家同士の信頼関係がある以上、カージナルがシアンを裏切るようなことはないだろう。その確信だけあれば充分のように賢者には感じられた。
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