第5話 変質ティーチャー

 シアンには寝室とは別に私室があるという贅沢な環境であるが、さらに勉強部屋が用意された。なんでも新しい家庭教師をシアンの私室に通したくないのだとか。勝手に部屋を漁ったりする者ではないようだが、私室はプライベートな空間。勉強とは分けたいとのことだ。

 これはシアンだけの特別というわけではなく、サルビア侯爵邸はかなり広い。基本的に寝室と執務室は分けられている。執務室を私室として使っている者もいるが、希望すればそれとは別に私室を用意してもらえるらしい。自分のための部屋が三室もあるとは、なんとも贅沢なものだ、と賢者は思った。


 勉強部屋には質素な机と教本を置くための棚が設置されている。窓際に置かれたソファは、合間の休憩に使うようだ。

 コンコンコン、と軽快にドアがノックされる。どうぞ、とシアンが応えると、明るい金色の長髪の細身の男性が満面の笑みで室内に足を踏み入れた。

「シアンちゃ〜ん! お久しぶりね〜!」

 この両手を広げてシアンに向かう男性こそ、カージナル・オペラモーヴだ。ウェーブのかかった金髪を揺らしながらシアンに歩み寄ったカージナルは、あら、とスマルトに視線を遣った。

「いたの、スマルト。シアンちゃんのそばには必ずアンタがいるのねえ」

 スマルトは冷ややかな表情をしている。こういったやり取りは普段からあるようだ。

「シアンちゃん。あなたの家庭教師になれて光栄よ。今日からアタシがみっちり教えてあげるからね」

「はい。よろしくお願いします」

「うふふ……まだまだ伸びしろがあるから楽しみだわ……」

 恍惚の表情を浮かべるカージナルは夢心地だ。

(なるほどのう。シアンの能力が伸びることに喜びを覚える性質の人間のようじゃな)

 家族からの愛とはまた種類の違う愛だ。シアン自身にも関心はあるだろうが、シアンの能力に強い興味があるらしい。それはシアンがある程度の能力の持ち主であるということだろう。それがカージナルの授業でどこまで伸びるか、確かに楽しみではある、と賢者も心の中で同意した。

「さっそく始めましょ。初めは基礎中の基礎だから退屈かもしれないけど、基礎ができなければ応用はできない。しっかり学んでいきましょ」

「はい」

 カージナルは大量の教材を持参していた。シアンのために厳選した物のようで、棚に入れておいて、とスマルトに押し付ける。シアンの前に教本を開いたカージナルは非常に楽しそうだった。

「魔法学の基本からいきましょ。これを勉強しておけば、お母様のお手伝いをすることもできるようになるわ」

 母セレストは侯爵家の事業の傍ら、魔法学の研究をしている。魔法を科学として捉えた学問だ。それを学ぶことで魔法力の強化も見込める。賢者が元居た世界には存在しなかった学問で、これを学ぶことが何よりも楽しみだった。

 カージナルの授業は明解で的確だった。それに加えて面白い。シアンの頭は教われば教わっただけ吸収するようで、母と肩を並べる日もそう遠くないだろう、と確信を持つには充分だ。優秀な魔法学研究員になることも不可能ではないだろう。

「さて、今日はこれくらいにしましょ」

 カージナルの声で手を止める。時計を見遣ると、もう十一時半だった。そろそろ昼食の時間になる。カージナルの授業が面白くて時間を忘れていた。

「ありがとうございました」

「ええ。シアンちゃんったら、吸収力が凄まじくて教えていてとっても楽しいわ! 一年後にはどれほど賢くなっているのかしら……」

 カージナルが、はふん、と恍惚の溜め息をつくので、シアンは思わず苦笑する。賢者の知恵も加わったいま、シアンの伸びしろは元来より格段に広がっていることだろう。

「もう少し大きくなったら、王立魔道学院に入るといいかもしれないわね」

「王立魔道学院……」

 その名の通り魔法学校だろう。王立であるということは、シアンが苦しめられたと思われる魔法学校とは格が違うと考えられる。

「王立魔道学院は完全な実力主義。実力次第で偏見の目を滅殺することができるはずよ」

 それは楽しそうだ、と賢者は反射的に思った。実力を身につければそれだけ悪意を捻じ伏せることができる。それがシアン・サルビアにとって最善のように思えた。

「それまでにシアンちゃんに実力を身につけさせるのはアタシの役目……。ああ、人生の楽しみが増えたわ……!」

(また人生の楽しみを提供してしもたわい……。じゃが、わしにとっても楽しみじゃのう)


 カージナルを見送ってダイニングに向かうと、同時に斜交いのドアを開けたネイビーが一目散にシアンのもとに歩み寄った。そのままシアンを抱き上げるので、この細腕の見かけによらず力持ちだ、というのが賢者の感想だ。

「シアン! カージナルに変なことをされなかった?」

「ずっとスマルト兄様がいたので大丈夫ですよ」

「スマルト兄様に嫌がらせをされたりしてない? ああ、私がついてあげたい……」

 そういえば、と賢者は考える。第三子である姉ネイビーと第四子のシアンは随分と歳が離れているように思える。おそらく、アズールとスマルトは成人している。ネイビーもそれに近い年齢のはずだ。十代半ばほどと思われるネイビーに対し、シアンはもうすぐ七歳。

(セレスト母様は成人した息子がおるには若いようじゃし、後妻なのかもしれんのう。歳がいってからの弟じゃったら、そら可愛いじゃろうの。ブルーはお兄ちゃんっ子なんじゃな)

 かといって、他の四人が不仲というわけでもないのだろう。もし不仲であればシアンが屋敷で過ごしづらくなる。可愛がっているシアンを預けているという点で、一定の信用を互いに懐いているだろう。そもそも、あの父母の教育で兄弟が不仲になるとも思えない。典型的な「喧嘩するほど仲が良い」兄弟なのだろう。

「シアン! 見て!」

 駆け寄って来たブルーが、一枚の紙を掲げた。絵が描いてあるようで、それを見るにはネイビーに降ろしてもらう必要がある。ネイビーがそれを妨げるようなことはもちろんなく、無事に床に降りたシアンはそれを受け取った。ブルーが描いたと思われる、魚が自由に泳ぎ回る絵だった。

「わあ、上手だね。色使いがとっても綺麗。僕は好きだな」

「ほんと!?」

 ブルーの表情がパッと明るくなる。シアンの後ろから覗き込んだネイビーが、ふむ、と顎に手を当てた。

「確かに、どんどん上手になってるわ。このままいけば芸術家になるのも夢じゃないわね」

「ふふん。シアンに褒めてもらえれば国で一番の芸術家にだってなれるわ」

 それは本当にその通りだろう、とシアンは考える。しかしそれはおそらくブルーだけのことではなく、兄姉もシアンが褒め称えれば父の事業をさらに発展させることができるだろう。ひいては家のためになるなら、惜しみなく賞賛しようとシアンは思っている。



   *  *  *



 和やかな昼食のあと、シアンはスマルトの執務室で仕事の手伝いに取り掛かった。スマルトはシアンの能力を完璧に把握し、問題なくこなせる仕事をシアンに任せる。難しいことは何もなく、少なからず事業に貢献することができるだろう。

 ややあって、コンコンコン、と軽快なノックが聞こえた。どうぞ、とスマルトが応えると、ドアを開けるなり明るい声が飛び込んで来る。

「やだあ〜シアンちゃんがいるなんて、アタシってばとってもラッキ〜」

 それはカージナルだった。昼前に見送ったはずの彼に、シアンは首を傾げる。それに気付いて、カージナルは手にしていた書類の束をシアンに見せた。

「アタシもサルビア家の事業に携わっているの。スマルトに相談に来たのよ」

「それと並行して家庭教師もできるなんて、有能なお方なのですね」

 薄く微笑んで言ったシアンに、はう、とカージナルは胸元を押さえた。

「なに……この気持ち……。これが、母性……?」

「さっさと本題に入れ。こっちは忙しいんだ」

「んもう、せっかちなんだから!」

 不満げな表情になりながらも、カージナルはスマルトの向かいに腰を下ろす。自分が聞いても差し支えないようだ、とシアンもその書類を覗き込んだ。

 カージナルの問いかけにスマルトが答え、確認事項を話し合う。授業のときと打って変わって、カージナルは真面目な表情だ。経理のところでシアンが口を挟むと、カージナルは感心して書類に赤ペンでメモをした。シアンが気付いたのはそれくらいで、あとはまだシアンにとって範囲外だった。

 話し合いが終わると、カージナルは恍惚の表情で手のひらを合わせた。

「七歳にして家業の手伝いだなんて、本当に神童だわ……。能力値を“鑑定”したい……」

 鑑定は賢者にとって少々都合が悪い。能力値を鑑定されれば、シアンの中に賢者がいることが明るみに出てしまう。鑑定を拒否するのは簡単だが、鑑定の拒否は鑑定主には明白だ。なんとしても積極的に回避したいところだ。

「爵位のある貴族の鑑定はできないことをお前も知ってるだろ」

「わかってるわよ! シアンちゃんがうっかり口を滑らせないか試しただけ!」

(諮りよった……危うかったのう)

 鑑定と爵位のある家の関係は知らなかったが、それに助けられることとなった。カージナルがシアンの拒否を受け入れなかったり無理やり鑑定しようとしたりする人間だとは思わないが、それを知らなければうっかり頷いてしまうときがあったかもしれない。シアンの頭にその仕組みが入っていないことを、スマルトは鋭く見抜いたのだろう。その洞察力はさすがと言える。

「じゃ、アタシは帰るわね。見送りは不要よ。また会いましょうね〜」

「はい。お疲れ様です」

 カージナルがシアンにウインクを飛ばして去って行くと、ひとつ息をついたスマルトが気を取り直すように立ち上がる。机の引き出しから箱を取り出し、シアンの前で開いて見せた。

「万が一のために、これを身に着けておけ」

 それは小さな水晶のペンダントだった。スマルトはそれをシアンの首に回す。留め具をかけ、ブラウスの下にしまった。

「これは?」

「鑑定を阻害する魔道具だ。確かにお前は七歳にしては能力が高い。興味を持たれることもあるだろう。あいつがそんな阿保なことをすることはないが、勝手に鑑定する輩が出て来るかもしれない」

 鑑定の魔法は対象に直接に触れなくとも発動することができる。すれ違い様に仕掛けて来る者もあるかもしれない。賢者であれば咄嗟でも弾くことができるだろうが、未然に防げるならそれに越したことはないだろう。

 シアンは確かに、賢者が転生する前から家業の手伝いをしていたらしい。元々の能力が高いのであれば、賢者の魂が宿ったことによる能力向上も幾分か誤魔化すことはできるだろう。

 シアンの能力を知りたいが、自分でいまの能力を見ても賢者を含んだ能力値が出るのみ。自身による鑑定にはあまり意味がないだろう。

「兄様は僕の能力値を見たことはありますか?」

「ああ。覚えていないなら記録があるぞ」

「見たいです」

 賢者が生まれる前のシアンの能力値を把握できれば、向上した部分を含め上がり幅を計算することもできる。能力値の把握は急務とも言えるだろう。


 スマルトはシアンを書籍庫に案内した。その奥の保管庫に、サルビア家の三ヶ月前の計測の記録が隠されている。スマルトによると計測は三ヶ月ごとで、そろそろ次の鑑定が行われるだろうとのことだ。シアン・サルビアの能力値を把握すれば、賢者の転生により上がった数値を改竄し隠蔽することもできる。不自然に上昇した能力があれば、そうすることで誤魔化すことができるはずだ。

 シアン・サルビアの能力値は、確かに七歳にしては高めと言える。優秀な血筋であれば可能な数値であるが、ブルーの計測結果は平均的のように思えた。

(アルビノという特性、高い能力値……。確かに、シアン・サルビアは「普通の子」ではないようじゃの)

 一般的な魔法学校であれば、いじめっ子に目をつけられてもおかしくはないかもしれない。家族と血の繋がりがないのではないかとすら思わせるが、それについて追及する必要はないだろう。

 倒れる前の記憶が曖昧というより、抜け落ちているという感覚だ。シアン・サルビアが意図的に閉ざしたとも考えられる。こうしてスマルトの支援を受けられるなら、無理強いする必要はないはずだ。その点はシアン・サルビアに任せたほうが最善のようだ。

「難しい顔で何を考えているんだ?」

 スマルトに問いかけられ、シアンはハッと顔を上げる。少し考えに耽りすぎたようだ。

「ほとんど覚えてませんが、ブルーに比べて数値が高いみたいですね」

「そうだな。カージナルが王立魔道学院を勧めるのは、あながち間違いではない。年齢に見合わない能力を持つ者は、周囲のやっかみを受ける。その点、完全な実力主義の王立魔道学院は安全だ」

 前世の賢者であれば、実力主義の学校でトップクラスに入れると自負している。どれほどシアンに引き継がれているかはまだ知らないが、王立魔道学院への入学がシアンにとって最善に思えた。

「王立魔道学院の卒業資格を持っていれば、文句のつけどころがなくなる。その気になれば、いまからでも入学資格を取れるはずだ。考えてみるのもひとつの手だろうな」

「父様と母様に相談してみます」

「そうだな」

 これまでの人生で様々な学校に通ったが、どれもあまり良い思い出ではない。ただひたすら勉強に打ち込んだ。そのための学校である。

(王立魔道学院……めっちゃくちゃ行きたい!)

 実力主義の学校は素晴らしい。実力で周囲の悪意を黙らせることができるのは、実力ある魔法使いが生きやすくなる要因のひとつとして充分になり得る。シアンにとっても賢者にとっても、王立魔道学院への入学は魅力のあるものだった。

(しかし……なぜゼニス父様とセレスト母様は、シアンを普通の魔法学校に通わせとったのかのう……)

 魔法学校のことはほとんど記憶にないが、シアンの高い能力があれば入学は難しいことではないだろう。王立となると様々な学生が通うことになる。シアンは特性により周囲から悪意を向けられることもあるとすると、練習の場のようなものだったのかもしれない。賢者はそんなことを考えた。


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