第3話 仲良し七人家族

 サルビア家の夕食は、必ず全員が揃ってから始められる。母セレストと五人兄弟は屋敷で仕事をしているため、父ゼニスの帰りを待つことになる。余程のことがなければゼニスの帰宅が遅くなることはないようだ。

 そんな空き時間。スマルトがリビングのテーブルにこの国の地図を広げた。

「ここがサルビア侯爵領だ」

 そう言って、スマルトは国の領土の一角に赤色のペンで円を描いた。賢者が思っていたより領地は広く、これほどの領地を治め事業を経営するだけの手腕があるとすれば、ゼニスは賢者がこれまで出会って来た有能な者たちの中でもトップクラスと言えるだろう。

「サルビア領の街は五つ。ユニタリア、ギフトレート、エルサイド、ラレ、そしてこの街サルビニアだ」

 これまで爵位を持つ貴族と関わったことは何度もあるが、賢者の知恵を頼って来た者は領地経営を「大変だ」と口を揃えた。手を貸してくれないかと頼まれたこともあるが、絶対に無理、と断り続けた。それがこうして、巡り巡って経営者側の家に生まれるとは、運命というものは実に奇妙である。

「領地経営に関わらないなら覚えなくても構わないだろうが、一応、頭には入れておけ」

「はい。ありがとうございます」

「ここにいたのか」

 かけられた声に振り向くと、アズールが軽々とシアンを抱き上げた。それから目を細めてスマルトを見る頃には、彼はさっさと地図を片付け終えている。賢者の魂が芽生える以前のシアンなら、地図を広げての講義は必要ないからだ。

「またシアンを独り占めにしていたな。シアンに懐かれているからって思い上がるなよ」

 スマルトが面倒そうに頬杖をつくと、アズールは表情を一転し優しく微笑んでシアンの頬を撫でる。

「シアン。こんな無愛想なやつより、僕と一緒に仕事をしよう」

 随分と執念深い兄だ、とシアンは苦笑いを浮かべた。シアン・サルビアがスマルトの手伝いを始めてどれほど経ったかはわからないが、いまだにこうして誘って来るということはまだ日が浅いのだろう。

「どうせスマルトのことだから厳しくするに決まってる。……まあ、父様の判断が間違いだとは言わないが……」

 よもや「めちゃくちゃ溺愛されてます」とは言えないだろう。シアンがスマルトに懐いていることが明白なら、きっとアズールもそれをわかっているだろうが。

「シアンは良い子だから、きっとスマルトが嫌でも言えないんだ。父様に直談判しなくては……」

「それだったら、私のほうが適任よ」

 いつからそこにいたのか、ネイビーがシアンを奪い取った。

「優しいお姉様のほうがいいわよね?」

「みんなズルいわ!」

 同じくいつからそこにいたのか、ブルーが足元から不満の声を上げる。

「あたしはお仕事をしてないんだから不公平だわ! ね、シアン! 一緒に勉強しましょ? そしたらあたし、きっと全部の試験で満点を取れるわ!」

 彼らの様子を見るに、シアンは誰とともに仕事をしたいかという希望を提示していないようだ。シアンが誰がいいか選べば、おそらく父はそれを受け入れるだろう。この先も仕事の手伝いをするのなら、自分の共同相手に最適だと思う者と組ませたほうがシアンのためになるはずだ。そのため、彼らはこうして躍起になっているのだろう。

「ただいまー」

 父ゼニスがリビングに入って来るので、おかえりなさい、と五人は声を合わせた。ゼニスは満足げに頷きつつ、あっという間にネイビーの手からシアンを奪い取った。

「シアン、良い子で待っていたか?」

 さすがに父の腕で抱き締められると、肺が圧迫されて思わず唸り声を上げる。実に力強い愛である。

「はあ……仕事の疲れが浄化されるようだ……。天使よりも天使なのではないだろうか……」

 彼らはシアンの意思を尊重する代わりに、シアンの話を聞かない。シアンが困りつつ笑って流すのが毎度のことだ。

「父様」アズールが言う。「シアンをスマルトではなく僕と仕事をするようにしてください」

「それなら私が!」と、ネイビー。「気難しいスマルト兄様とでは気苦労でシアンに負荷がかかります!」

「それよりあたしと勉強!」ブルーが背伸びをする。「シアンと勉強すれば、いまよりもっと成績が良くなるわ!」

「またその話か」

 ゼニスは呆れて溜め息を落とし、シアンの姿勢を整えながら言った。

「シアンがいることで、アズールとネイビーは仕事に私情を挟む。ブルーとシアンとでは勉強する内容が違う。シアンが習う部分はブルーにはまだ早い。いつもそう言っているだろう」

 三人は言い返すことができずに黙り込む。三人とも自覚があるということだろう。

「それに、シアンは将来、私の補佐となる。多少は厳しくしておくに越したことはないだろう」

「職権濫用です!」と、ネイビー。「シアンは父様の決定に反対できないんですから!」

 その言葉に、ゼニスはシアンの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「シアン、私とともに仕事をするのは嫌か?」

「うう……えっと……」

「それくらいになさい」

 溜め息混じりの声に六人が振り向くと、呆れて目を細めながらセレストが歩み寄って来る。

「シアンが困っているでしょう。シアンはまだ七歳なのだから、将来のことを決めるのは時期尚早よ」

 セレストはシアンに関することで最も客観的な視点を持っているらしい。そう考えたあと、賢者は首を捻った。

(七歳……それにしては体が小さいのう。食事量は充分じゃったと思うが……)

「それに」セレストが続ける。「母様と一緒に魔法学研究を極めてもいいのよ?」

(前言撤回しとくぞい)

「人のこと言えないじゃない!」

 不満げに声を上げるネイビーを、セレストは肩をすくめて流す。

「シアンがもう少し大きくなれば自分で決められるでしょう。とにかく、夕食にしましょう。せっかくのお料理が冷めてしまうわ」

 彼らは頭の切り替えが早い。先に歩き出したセレストに続いて、ダイニングへと向かうと、いつもの位置に着席した。シアンより幼いブルーでも大人しく席に着く辺り、彼らはいつまでも騒ぐ子どものような人々ではないようだ。

 夕食会は和やかに始まる。食事中は、お喋り好きのネイビーとブルーが話題提供することが多かった。そのほとんどがシアンに振られたが、倒れる前の記憶がないシアンでも応えられる内容だった。

 話がひと段落したとき、セレストが思い出したように口を開く。

「シアン。カージナルを覚えてる?」

 名前からして男性のようだが、いまのシアンに心当たりはなかった。

「えっと……」

「覚えていなくても問題はないわ」セレストは笑う。「彼に家庭教師を頼んでおいたわ。オペラモーヴ家とは昔馴染みなの」

「あいつに!?」アズールが声を上げた。「あんなスカしたやつにシアンを任せるなんて……!」

「もちろん手放しというわけにはいかないわ。いいわね、スマルト?」

 セレストの問いかけにスマルトが小さく頷くと、今度はネイビーが声を上げた。

「またスマルト兄様!? 私だって監視くらいできます!」

「僕のほうが適任です! 僕はあいつをよく知っています!」

「あなたたちの監視ではカージナルを抑制できないわ」

 監視が必要な家庭教師とは、と賢者は考える。家庭教師を頼んだのにシアンが覚えている必要がないとは。その扱いもさることながら、カージナルという男性はひと癖も二癖もある人物の予感がした。

 セレストが大きく溜め息を落とす。

「いいこと? あなたたちの甘い監視でカージナルがシアンに好き勝手するか、スマルトの厳しい監視でカージナルを抑制するか、どちらがシアンのためになるかしら?」

 アズールとネイビーが、ぐっと言葉に詰まる。セレストの溺愛には「母の愛」が含まれている。おそらく兄たちの愛がそれに勝ることはないのだろう。母の愛は何よりも強い。

(幼い少年に欲情する性的嗜好の者もおるらしいが……そういった性質の者じゃったら困るのう)

 これまで身近にそういう者がいなかったため詳細は知らないが、アズールたちの愛とはまた別物なのだろう。それならおそらく、スマルトがいれば問題ないように思えた。

「母様! あたしもシアンと一緒に勉強させて! そうしたらもっと頑張れるから!」

「あなたはいまでも充分に頑張っているわ」

 優しく微笑むセレストに、ブルーは不満げに唇を尖らせる。

「あなたにシアンと同じ勉強をさせたら、二年分も抜けることになるわ。あなたはまだ基礎を学んでいるのだから、しっかり勉強なさい」

 厳しい人だ、とシアンは心の中で呟く。だが、言っていることは理に適っている。シアンのために理不尽なことを言ってアズールたちを黙らせているわけでもない。だからこそ、彼らは言い返すことができないのだ。

「そうだわ」と、セレスト。「シアン、何かやりたいことはある?」

「ん、えっと……何か楽器を習いたいです」

「もちろんいいわ」

 そう答える準備をしていたかのように、セレストはあっさりと頷く。シアンがやりたいと思うことを阻害するつもりはないようだ。

「なんの楽器がいいの?」

「できればピアノがいいのですが……」

「もちろんいいわ」

 サルビア侯爵邸にはピアノホールがある。他の四人がピアノを弾くことはないようで、どこか寂しそうにしていた。

 賢者はこれまで、転生のたびに新しい楽器に触れて来た。大抵は独学でひとりで楽しむために演奏していたが、せっかく講師を雇える環境なら、ずっと弾いてみたいと思っていたピアノに触れる良い機会だ。

「素晴らしいわ。これからの人生に、シアンの演奏という楽しみが増えた……。シアンのおかげでどんどん寿命が延びている気がするわ」

(大袈裟……とは言えん雰囲気じゃの)

 楽しみにしてくれるのはいいことだが、少々プレッシャーのようにも感じられた。その分、上を目指そうという気にもなるのかもしれない。

「それならあたしも習いたいわ!」

 懇願するように言うブルーに、セレストは優しく微笑んだ。

「ええ、いいわよ」

「ほんと!?」

「ええ。どちらにせよ楽器をやらせようと思っていたの。良い機会だわ」

 無邪気に喜ぶブルーの正面で、アズールとネイビーが少々悔しそうな表情をしていた。彼らはすでに習得しているか、もしくは練習に割く時間がないだろう。シアンともう少し年齢が近ければ、同じ時間を共有できたかもしれない。

(まだお若いと見えるが、しっかりした母君じゃのう。厳しくもあり、優しくもあり、甘くもあり……。手本のような母親じゃ)

 その母の元に生まれ落ちたことはシアンにとって幸運であり、賢者にとって僥倖であった。これまで散々な人生を歩んで来たが、最後の最期で運が味方をしてくれたようだ。この体と心でどれほど生き続けられるかいまはまだわからないが、これまでで最も良い人生となるだろう。最高の余生なのかもしれない。そう考えながら、賢者は少しだけ胸の奥が熱くなった。



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