Karte.28 TIME AXIS
あのあと、私は一晩中泣いた。何もしないという無自覚を、また別の変性意識が行動化させ、ふと頬滴る雫が日常を見せてはくれなかった。いつもなら帰ってから当たり前のようにやっていた家事などに全く手がつかなかった。無意識に生きろと警鐘を鳴らすかのように冷蔵庫にあった覚えてもいない水分を摂取したのだけは記憶にある。
テーブルの隅で落ちそうで落ちないでいる絶妙に揺れたペットボトルには、ビタミネウォーターと記されていた。私は必死に生きようとしている……ただそんなことを考えていたわけでもないほどに無意識だったのだろう。
背けた反発で前に進もうとする意地悪な生存本能。
スマホが鳴る。日常は止まらない。
「もしもし……」
虚ろ目のまま誰からの着信かも視認することもなく電話に出た。
「実花、俺だ」
「我生……私……」
縋るべき兄の顔が頭を過ぎって、また感情を落とし込むよりも先に涙が零れた。
「真実のことは必ず何とかする。黒岩博士にも相談した」
「ありがとう。明日から精神科医としてしっかりしなきゃね」
頬伝う涙を手のひらで持ち上げるように拭い去った。
「いくつか確認したいことがある。真実の衣類のポケットからイーヴィルと書かれた薬が見つかった……聞いたことないのだが一体何の薬だ?」
「投薬しているのは聞いていないわ。それにイーヴィルって、EVILかしら?そんな薬あるの?」
「怪しいな……成分を調べようとしたんだが、使い切っていた」
「警察には知らせたの?」
「伝えていない」
「伝えるの?」
「それを相談したくて……最近何か変わった出来事は無かったか?」
私は思考を張り巡らせて、即座に浮かんだのはやはりあの不可解な出来事だった。
――――――――――――
「ヒャアッハッハッハ!!
「真実? また公演の練習? にしては……」
「いいぞヘヴン! アモンを味方に付けた俺は今、最高に幸せだ! ヒャアッハッハッハ!!」
「こ、こわい……何か違う……」
「真実!?」
「大丈夫……?」
「ハッハッハ! 演技の練習に力が入りすぎた」
「なんだ……すごい声と音がしたから心配した」
――――――――――――
私はその数日前の出来事を話した。
「数日前に演技なのか分からない取り憑かれたような声で叫んでいたのよ。そしたら急に大きな音がして急いで扉を開けたら、椅子から転げ落ちて笑ってたのよね」
「そんな出来事があったのか……これがその台本か。アモンー因果らせん構造ー」
「そう! それよ!」
我生は真実の私物から台本を見つけ、速読をしたのかパラパラと捲る音が聞こえたと思ったらすぐさま返答をした。
「妙だな……」
「何が?」
私が透かさず聞き返すと、我生は不思議そうな声で答えた。
「アモンという登場人物は出てくるが、ヘヴンなんて人物は出てこない……本当に台本の練習だったのか?」
「考えられることとすれば?」
疑念を胸に、恐らく私の想像よりも遥か上を行くであろう我生に返答を委ねた。
「何か疾患による幻覚……或いはイーヴィルが薬物であると仮定した副作用」
「後者は想像したくないわ……調べる術は無いの?」
「錠剤が残っていないとなると成分分析は難しい」
「そうよね」
「明日また色々と調べておくから待ってるぞ! 今の真実を救うのは俺だ! これからの患者をお前は救っていけ」
「うん……ありがとう」
このとき私は覚悟を決めた。今の私に出来ることは、精神疾患で悩んでいる多くの患者を救うことだ。
それは精神科医として患者と向き合うと決めたとき私が感じた底意地の生存本能。
次の日――――――――――――
精神科医として、他の病院からの紹介で流れてきた患者の診察をしていた。一通りなんとか落ち着いてきたあたりだった。
「実花、入るぞ」
我生が様子を見に来てくれた。きっと伝えたい新情報もあるのだろう。
「我生……仕事を始めたら感情も落ち着いたわ。むしろ私が落ちてちゃいけない仕事だしね」
「それもそうだな。自己ケアもしっかりな」
「ありがとう。あれから何か進展はあった?」
私が一番気にしているのはそこである。やはり一段落終えた後にふと過ってしまう感情は無視出来ない。
「黒岩博士が辿り着いた一人の人物……顔を明かさない精神科医ジョーカーが関わっている可能性が高い」
「ジョーカー!? 何その胡散臭い精神科医」
「まあ、普通に聞いたらそう思うだろう。だが業界内ではちょっと有名でな。オンライン診断のみで的確な診断をすることで支持されているらしい」
「シロかクロか解らない謎多き人物ね」
お互い見たもの以外は信じない体質なので、どちらも疑いの目で見ているような顔付きで見つめ合い、我生が別の切り口でさらに話し始めた。
「日本の精神科の闇……聞いたことあるか?」
「ええ。目指す身として調べたわ」
「なら話は早い。俺が精神科をこの病院に設立した理由のひとつにもなっているんだが、あえて精神科の入院病棟は設けていない」
イタリア全土では精神科病院を解体し、地域の精神保健センターへ全面転換を図ることを決めて精神保健法まで制定している。だが現在においても日本は病床数は増え続け、入院により拘束したり投薬による治療を迷い
もせず処方する医師がいるという実態だ。
「私もそれを知って、無闇に投薬しないという方針でやるつもりでいるし、入院患者を減らしていきたいと思っている」
「だがここ最近さらに入院患者が増え続けているんだ。中には一度治ったと言って悪化するケースも見られる」
その話にぞっとする。しかし私にはわからない事もあった。
「それが今回の話とどう直結するの?」
「理由のひとつであり、推論でもあるのだが……この映像を見てもらいたい」
そう言って我生はタブレット端末を机に立てて黒岩博士からメールで送られてきた映像を再生した。
定点カメラで黒革のソファーが映り込み画面に歩み寄ってきた黒岩博士がそこに座って話し始めた。
『我生くん、実花くん、直接お話する時間が無くて申し訳ないね。調べたことを君たちに伝えておこうと思ってね。今回の真実くんの件についてだ』
颯爽と話を始める黒岩博士に映像とは言えど間をしっかり置かれているように感じ、私は自然と頷きながら話を聞く。
『このことは医療業界内の極秘情報なのだが、HAS《ハス》システムという実験用AIを我々黒岩チームが試験的に導入しているのだよ。かくれんぼを意味するHide And Seekの頭文字から取っているんだが、精神疾患は自覚なしに症状を患っている人もいるだろ? つまりそういった人たちをAIによって判定して精神科で診察してもらい、早期発見や重症化のリスクを減らす目的だ。それによってかなりの成果は出ていたんだ』
黒岩博士は成果は出ていたと過去形で話した。その全貌こそが今回の騒動の始まりなのだと思う。
『しかし、どこからかその極秘情報がリークして模倣する人間が現れたようだ……それが今回君たちも気にかけているジョーカーという存在だよ。どうやらそのジョーカーが我々の技術を盗み、精神患者を増やすという真逆のことをしているようだ』
真実がそれによって動かされているということが繋がった。「何のために? 一体誰が?」という疑問も同時に浮かぶ。
『恐らく……医療従事者の誰かが我々とは反対に利益のためだけに投薬や入院を強要して患者を利用しようとしているのだろう』
「ひどいわ……患者をなんだと思ってるの?」
「全くだ。まだ続きがあるぞ」
黒岩博士の顔が、画面越しで見ているこちらにも少しだけ重苦しい表情であることが感じられた。そしてこの何とも言えない間が物語っている。
『今回の件をProject.Sとジョーカーは命名しているようだが、Sの意味はおそらくスラサクス教会のSでは無いかと思っている。分かっているのはここまでだ。そして君たちにプレゼントを用意したから使ってくれ! また情報が分かり次第連絡するよ。それでは』
そう言って映像は切れた。
「黒岩博士の言っていることが本当に正しければ真実は利用されたってこと? ジョーカーによって投薬され、人助けだと勘違いして患者を増やす手伝いをしていたってことになるわね」
「まあ、素直に考えるとそういうことになるな。ただ裏がありそうだ」
「信じられない! 許せない!」
それ以上のことは時間が経っても分からなかった。ほとんど情報は出てこなかったのだ。
そしてその日、私たち宛に黒岩博士からプレゼントと言う名目で荷物が届いた。
「何かしら?」
箱を開けると私宛には大きな箱と我生宛には小さな箱。
「ノートパソコン?」
「俺はスマホか」
中には手紙が添えられていた。
『実花くん、おめでとう。精神科医としてこれからも頑張ってくれたまえ。そして我生くん、連絡用としてこちらのスマホを渡しておく。今後の連絡手段はそのスマホに連絡する。君たちにも協力してもらうことになるかもしれない。真実くんの件を含め、解決へと導くことを願っているよ』という内容だった。
これが私たちの過去に起きた出来事であり、解決には至っていない出来事で、今現在直面している話とも重なるであろう出来事。
ヴィラン 久良運 安寿 @mephistopheles_401
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