届かなかった背中 後篇
捕らえた自警団の者いわく、「集合地点でぐずぐず滞在していやがった」という植民請負人は口ひげをたくわえた美男で、よい声を持ち、口説も巧みそうだった。彼は頑強に兄妹の死についての関与を否定した。
「もちろん、わたしは彼を誘いました。彼というのは兄ヘンゼルです」
遠方から連れ戻されてきた男は、不満そうに応えた。植民請負人は各地の邑で若者に声をかけ、指定した集合場所に全員を集めてから出立する。
「開拓地は数年の間免税になること、入植者には種と家畜が無償で与えられること、家と菜園の所有および、井戸をはじめとした共有地の利用権も約束される旨を説明して、ヘンゼルを説得しようとしました。しかし生まれ育った邑を離れる気はないと彼に断られたのです。グレーテルも同じ日に亡くなったのですか。なんということだ」
「兄妹が死んだのはお前が邑を出て行ってすぐのことだ。お前と何かあったに決まっている」
トマスの兄が追及すると、男はむっとした顔をして傲岸に顎をそらした。
「遍歴の職人や芸人に疑いの眼が向くことは承知ですが、わたしの身許は確かです。どうぞお調べください」
植民請負人は自信ありげだった。それもそのはず、彼が招く開拓地とは司教の所有地であり、彼は司教に命じられて移住の勧誘に回っている公式の使者だった。幾ら土地を開墾してもそこで働く農民がいなければ税収は上がらない。土地を持っている貴族たちは積極的に農村を巡り、即戦力になりそうな年齢の男たちを破格の待遇で誘致していた。
「グレーテルとお前が密かに立ち話をしているところを見た者がいるぞ」
「いかにも」
男はそれを認めた。グレーテルは男に懇願したのだと云う。
「この邑から連れて行って欲しいとあの娘は云いました。行く先は植民地ではありません。しかし方向が同じだったので、途中まで同行させて欲しいとグレーテルはわたしに頼んだのです」
「なぜお前に」
「他に頼める者がいなかったからでは」
男は空き巣となった家の中を見廻した。
「暴君の兄から逃げ出したかったのでしょう。奉公に出ることも反対されていたそうです」
植民請負人から聴き出せることはそこまでだった。
グレーテルは何処に行こうとしていたのだろう。
リウドルフとヨシアスの眼の前には凍り付いた河がある。青白い平野に見えた。春が過ぎて初夏になるまで、河からは氷が消えない。グレーテルの遺体が見つからなければ、次第に雪解け水に沈んで流れ去っていたはずだ。
「この河を渡り、南へ向かおうとしたのでしょうか」
「道に迷ったのでなければな」
星灯りの夜、束縛の強い兄から逃れた娘が凍り付いた蒼い河を渡っていく。夜空は晴れて月が出ていたが、雪は降っていた。次第に風が強くなる。天候は一変し、やがて吹雪が全てを隠す。グレーテルは歩いていく。命尽きるまで。
リウドルフの脳裏で女の後ろ姿が姉リツィアのものと重なった。
グレーテル、何処に行ったのだ。
グレーテル。
妹を追いかけて外に走り出したヘンゼルは、妹の行方が掴めないまま、森の中で崖から落ちて死んだ。
「動機は金だよ、リウドルフ」
語学や算術を教えるだけでなく、イタリア人の教師は、大理石宮殿の一室でリウドルフに云ったものだ。金、その次に情欲。いつも人間の浅ましき欲望が罪を犯すのだ。
盗んでも誰にもばれぬ金貨が眼の前にあるとして、人間はどうすると想う、リウドルフ。誰にもばれないとしたら。
「その者の行いは神さまがご存じです」
少年リウドルフはそつなく教師に応えた。望まれる態度でいることがリウドルフの処世術だった。今は力をつけて牙を磨く時。
「神。神とは何だね、リウドルフ」
巻き毛をしたイタリア人の教師は問いかけた。
「ここは教会ではない。君の答えで構わない」
「神の教えとは地上における秩序の形態です。先生」
「それは獣には必要のないものだ」
イタリア人の教師は石板に四つ足の獣の絵を描いた。
獣に神の概念は必要ない。そして人間も獣なのだよ、リウドルフ。
支度金。
春から奉公に上がる予定だった屋敷から、支度金として前払いされていた給金をグレーテルは持っていた。その金は何処にある。
トマスが応えた。
「遺体の傍からも、家の中からも、金袋は見つかっていません」
グレーテルがそれを使うとしたら、まずは新しい衣裳だ。
調べてみると巡回商人から一着分の毛織物をグレーテルは買い求めていた。邑で仕立てを請け負う寡婦がグレーテルから布を預かり縫い上げていたことからそれが判明した。貧しい女に仕事を回すのは何処の邑でも同じだ。
その薄灰色の衣を着てグレーテルは死んでいた。やはり覚悟の上での家出だ。若い女の死体は尼僧のように見えたことだろう。
「残りの金は何処だ」
ヨシアスが口を出した。
「最近になって羽振りのいい者が、こういう時には怪しいんだけど」
トマスが叫んだ。
「ギュンターだ」
ギュンターはとくに抵抗することもなく、グレーテルの財布を出してきた。
「これは拾ったんだ。家の前に落ちていた。本当だ」
「お前の家の前か。いつ拾ったのだ」
「あの日だよ。森の崖下で死んでいるヘンゼルを見つけて、家に誰もいないことが分かって、皆でグレーテルの捜索に出た時さ。この財布は落ちていたんだ。誰のものかなんて知らねえよ。拾っただけさ」
「ギュンター、なぜ財布を届け出ないのだ」
邑長と神父はかんかんに怒った。
「新しい鍬までこの金で買ったとあっては、盗人だぞ。この金袋を奪う目的でヘンゼルを殺したのか」
「違いますよ、誓って本当だ。誰の財布なのか知らなかったんだ」
懸命にギュンターは訴えたが、盗みの罪を問われ、教会の前で日の出から日暮れまで一週間のあいだ晒し刑になることが決まった。
「ヘンゼルの遺体は傷だらけでしたが、崖から転落したせいです。小男のギュンターにヘンゼルは殺せません」
財布の中にはグレーテルの衣代とギュンターの買い求めた農具代を差し引いた硬貨が残ったままになっていた。
財布の口を金具つきの紐で締め、リウドルフは革財布の外側を見ていた。金でなければ動機は。
トマスがリウドルフに近寄ってきて訊いた。
「どうしますか。最近邑に立ち寄った中で目立つ者といえば、植民請負人の前に、駐屯十字軍に勧誘する新兵徴募官の騎士が半年前にいましたが」
「トマス」
リウドルフの手が伸びてトマスの眼帯を取り去った。ヨシアスが息を呑んだ。トマスの片目の周囲はまだらに色が変わっていた。猫の爪痕ではなかった。それは殴打の痕だった。
見送りは此処まででいいよ、グレーテル。
新兵徴募官の騎士がグレーテルに挨拶を送る。崖の上からグレーテルはいつまでも邑を去る青年騎士の後ろ姿を見詰めていた。馬影を見送る娘のその姿を、樹木の影に隠れてトマスは見ていた。
グレーテルの奉公先が決まった或る日、仕立て上がった衣を寡婦から受け取って家に戻る途中のグレーテルをトマスは待ち伏せた。トマスはグレーテルに囁いた。
あの新兵徴募官が近くまで戻っている。騎士は君を連れて行くために邑の外で待っているそうだ。ぼくが君を彼の許に案内する。夜を待ち、家の外に出ておいで。ヘンゼルに見つからないようにね。
「グレーテル」
グレーテルは無我夢中で男の顔を硬貨の入った財布で殴った。トマスから逃れ出たグレーテルは雪に覆われた野を逃げ惑った。トマスがグレーテルを追いかけて呼ぶ声が風に怖ろしく木霊する。グレーテル。
「グレーテル、待ってくれ」
わたしはトマスに騙されたの?
それとも彼は本当に近くまで来ているの?
もしそうなら、わたしはここよ。
森を抜けてグレーテルは走った。河に出た。
分かってる。この先には誰もいない。あの人は云ったもの。守備隊兵を集めながら港に向かい、船でコンスタンティノープルに赴く。異郷に骨を埋めるつもりだから、もう二度と逢えないと。
でもわたしはこの河を渡る。
わたしが男だったら一緒に行けたのにとあの時、彼に云った。今そうするわ。どうしてもっと前からこうしなかったのかしら。あの人がそれを教えてくれた。神の庭でもう一度逢えるとわたしに云った。
翼を生やすことが出来るのならば魔女にもなろう。「お前を奉公などに行かせるものか」あの日から始まった夜ごとの兄の厭わしい抱擁から逃れるためならば何でもしよう。
グレーテル。
風が唸る。追って来るのはトマスかしらヘンゼルかしら。どちらでもいい。この魂はあの人を追いかけて聖地に行くの。あの声から離れるのよ、遠く遠く。
遠く、とおく。
吹雪の中でグレーテルを見失ったトマスは落ちていたグレーテルの財布を拾い、邑に戻る途中で、「その顔の怪我はなんだ。グレーテルはどうした。さてはお前が妹を」とヘンゼルに掴みかかられ、揉み合ううちにヘンゼルを森の中で殺害。財布をギュンターの家の前に棄てた。トマスの足跡はその晩の雪がすべて覆い隠した。
財布には僅かに血痕がついていた。他の者は軽傷なのに一人だけ眼帯を外さないトマスの様子から、リウドルフはトマスを疑ったのだ。
「猫です、リウドルフさま」
邑を出る時、一匹の猫がリウドルフたちの馬の後を附いて来た。
「連れて帰るつもりか、ヨシアス」
「お赦しいただけるのであれば。引っ掻きませんし、温かい」
馬鞍の上に抱き上げた猫を、ヨシアスは外套の内側に入れた。
カッセルに戻ると、屋敷には姉から手紙が届いていた。
リウドルフはリツィアからの手紙を一瞥し、長机の上に放置しておいた。まずは留守中の仕事の片付けだ。養子とはいえ、リウドルフはあの男が持っている鉱山および、所有財産の管理を一任されていた。
深夜になってから自室に戻り、ようやく手紙を読む気になった。だいたいにおいて、よいことしか姉は書いてこない。大貴族が姉の願いに応えて資金を出してくれ、貧しい女性のための施療院を開くことになった等。それが弟の心を切り裂くことを姉は知らないのだ。資金なら弟に頼んでくれれば、すぐに出したものを。
女性らしい筆記の中に、決して明かされることなく隠されてきた想いの数々。
姉にとってリウドルフはいつまで経っても、身売りをして魔女になってでも護らなければならない、幼い弟だった。
眼を閉じて。
眼を閉じて外に出ていらっしゃい、リウドルフ。
その『客』の姿をリウドルフは見たことが無い。姉に与えられた郊外の屋敷に男が訪れると、リツィアはリウドルフの眼に手をあてて反対側を向かせ、裏口から追い出した。後ろ手に扉を閉める姉の背中。
不自由のない暮らし。全てが姉の犠牲によるもの。高価な肌着、召使、筆記具すらも。
短い手紙を読んでしまうまでリウドルフは、まばたきもしなかった。老いた乳母のために奔走した弟に礼を述べる愛情あふれる姉からの手紙。リウドルフが成人してからは一度も逢っていない。
逢わないと決めていた。
パドヴァの大学に戻るイタリア人の教師が最期にリウドルフに教えた。
「リウドルフ。お前と姉は血が繋がっていないのだよ。あの人もお前も農民一揆の焼き討ちの犠牲者だった。幼かったお前は姉の後ろを附いて歩くばかりで何も覚えてはいないだろう。二人きりで廃墟を彷徨っていたその時から、お前はあの人にとって唯一の弟になったのだ。あの人はお前を生かす為だけに生きている」
愛を告げるには遅すぎ、二人とも大きくなり過ぎた。
窓の外には季節はずれの粉雪が降り始めていた。
[了]
届かなかった背中 朝吹 @asabuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます