届かなかった背中 中篇


 姉のリツィアが外で雪を見ている。

 刺繍で飾られた沓で雪の白さを踏み、天界から流れ落ちる無音の律動リズムを姉は飽きずに眺めている。

 空はすべて灰色なのに、どこか遠くの高いところから、沢山の氷の花がいつまでも降ってくる。

 怖ろしい魔女にもわたしはなりましょう。この世でもっとも侮蔑される女にも。

 冷え切った姉の肩に、髪に、飾りのように雪が降り積もる。氷の像と化してしまいそうだった。

 姉さん。

 リウドルフは姉の外套を手にして庭に出た。



 身分を問わず冬の衣類は着たきりだ。その代わり肌に直接触れる下着の類をこまめに洗濯して清潔を保つ。外に干せない悪天候の日でも水気を絞って暖炉の近くに干せば、薄手の肌着ならばすぐに乾いてしまう。

「駄目、駄目、それは俺の役目なんだから」

「お渡しなさいよ。私たちがちゃんと洗って乾かして、ほころびがあれば丁寧に繕って、あんたのものと一緒に返してあげるから」

 盥にそそがれる湯の音。

「リウドルフさまの肌着はブルッヘ製の高級品なんだ。煮え立った湯に投げ込まれて縮められたりでもしたらかなわない。どうせ洗濯にかこつけてリウドルフさまとお近づきになろうって魂胆だろう」

「なによ、いやらしいわね」

「いやらしいのは、どっちだよ」

 裏庭でヨシアスが女中たちと騒がしく喧嘩をしている。「高級な下着」とヨシアスが連呼するのが聴こえるたびに、邑長の妻マルティナのリウドルフを見詰める眸がきらきらと耀いている。ブルッヘ製の下着ですって、まあ。

「それではやはり、大理石宮殿でお育ちになったというお噂は本当」

「違います」

 リウドルフはマルティナに最後まで云わせなかった。政務を執り行う大理石宮殿では外国から教師を招いて頻繁に講義が行われていた。それを聴講しに通ってはいたが、住んではいない。大理石宮殿の別館で、リウドルフはイタリア人の教師から個人授業を受けていたのだ。

「売女の弟」

 それが少年時代のリウドルフに付けられた綽名だった。

 美貌の姉の弟は、花の女神のような姉とは違い冷淡な顔立ちではあったがこちらも十分にひと眼を惹いた。風貌から貴種流離譚風の物語までが勝手に加味されて、その結果、リウドルフはやたらと不良たちから揶揄われ、売られた喧嘩を片っ端から買いながら育ったのだ。

 喧嘩が好きだったわけではない。ただ彼らが「売女の弟」と呼ぶことだけは、リツィアの為にも我慢ならなかった。

 姉は売女ではないが、十五歳の時から貴族の隠された愛人だった。そして五歳年下のリウドルフは貴族の養子となっていた。大理石宮殿で教育を受けることが出来たのもそのお蔭だ。姉を犠牲にしたことで授けられた恩恵。

 噂好きのマルティナや無駄にうろつく女中たちに閉口しながら、リウドルフは固い麺麭を肉汁に浸してようやく呑み込んだ。卓上はヨシアスが口やかましく指示したお蔭で貴族の食事の体裁がいちおう整っており、指を洗う水盤が用意されている。本来ならばその水には薔薇やローズマリーで芳香をつけるのだが、そこにあるのは、ただの水だった。

「ところでリウドルフさまが何故こちらまで」

「死んだグレーテルがこの春、奉公に上がる予定であった屋敷とは懇意なのです」

「ということは、支度金がわりにあの娘に前払いされた給金の回収に」

「違います」

 説明するのも面倒だ。農民一揆で焼き払われた町の孤児だったリツィアとリウドルフは、子どもを欲しがっていた親切な商人に引き取られたが、数年後、積荷を満載した船が北海で沈み、経済的に傾いたところで養父が、次いで養母が流行病で亡くなった。養父母は幼くして亡くした実子の代わりにリツィアとリウドルフを可愛がって育ててくれた。

 立て続けに起こった不幸により、ふたたび露頭に迷いかけた姉弟に手を差し伸べたのは、以前から姉の容貌に眼をつけていた貴族の男だった。

「この娘は一級品だ。隅々まで素晴らしい」

 姉は引き取られた貴族の家からさらにもっと上の大貴族に差し出された。リウドルフの方はその聡明さを認められて、そのままその貴族の養子となった。リウドルフが父と呼ぶのは最初の義父のことであり、リツィアを提供して、その見返りに鉱山の利権を得た貴族のことは一度も「父上」と呼んだことがない。

「リウドルフさま。お見掛けするたびに、ご立派になられて」

「どうしたのだ」

 養父母の家で仕えてくれた乳母と偶然、街中で再会した。乳母といっても亡き義母が実家から連れてきた元は養母の乳母だった女である。老いた乳母は気落ちしており、リウドルフが励まして話をきくと、乳母の姪の産んだ兄妹が相次いで不審死を遂げたという。乳母もその邑の出身なのだ。

「姪夫妻もすでに亡く、他に身内もいないわたしにとっては彼らが唯一の血縁だったのです。兄妹の葬儀に行きたかったのですが、この足腰ではとても」

 いったい何があったのかと嘆く乳母に、気が付いたらリウドルフは請け合っていた。わたしがお前の代わりにその邑に行って事情を調べてこよう。

「本当でございますか、リウドルフさま」

 乳母は涙を流して歓んだ。貴族に引き取られていくリツィアとリウドルフの身を案じて、最後までお供したいと頑張ってくれた忠義者の乳母だ。リウドルフにとっては養父母と暮らした記憶の中にいつもいる女だった。乳母の今の働き口の旅籠では、時折、姉からの使いが小遣いを届けに来るという。

 ヘンゼルとグレーテル。

 乳母から詳細をきくとリウドルフはすぐにその邑の邑長に手紙を送り、従者ヨシアスを伴って旅立ったのだった。

 

 洗濯問題に決着がついたとみえて裏庭が静かになった。と想っていると、ヨシアスが濡れた手をしたまま居間に飛び込んできた。

「自警団が探していた男が見つかったようです。邑に戻ってきます」

 トマスも邑長の家にやって来た。トマスを除く他の自警団員は、最近まで邑に滞在していた植民請負人を怪しんで、兄妹の死に関わる重要参考人として追いかけていたのだ。

「わたしの兄が捕まえました。兄妹の家に連行します」

「行きましょう、リウドルフさま」

 リウドルフが仕度を済ませる僅かの間に、ヨシアスは中断していた洗濯を干すところまで済ませて素早く戻ってきた。



》後篇

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