届かなかった背中
朝吹
届かなかった背中 前篇
樹木の影が消えて、白い平野になった。凍り付いた河の上に出たのだ。視界には雪が降っている。ひらひらと舞い散る繊細な結晶。真白い月が風に削られてその破片が空から降っている。星の河を歩いているようにグレーテルには想われた。
猟犬の唸り声と聴こえるものは、背後の森から吹き付ける風の音だ。
わたしはここよ。
グレーテルは降りしきる雪の中、もう一歩踏み出した。そこで力尽きた。
赤い血潮も唇も、兄のヘンゼルと同じ色をした眸も、凍えて固まり始めた。
暖炉の幻をグレーテルはみた。それは次第に春風になった。花咲く森、祭りの焚火。異国の太陽。
吹雪がグレーテルの外套を引き剥がしていった。
ヘンゼルとグレーテルの兄妹が死んだ。ヘンゼルは森の中、グレーテルの遺体は凍河の上で、それぞれ見つかった。
崖の下に落ちた兄は転落死、妹は凍死だった。
グレーテルの外套は風に吹き飛ばされており、発見された遺体は完全に凍り付いていたという。
「寒波の戻りで吹雪になった夜でしたから、道に迷ったのでしょうね」
きつねの襟巻に首を埋めるようにして、馬上のヨシアスは洟をすすった。
「妹を探しに家を出た兄のヘンゼルも運悪く森の中で足場を失くした。現地に赴くまでもない。カッセルに戻りましょう、リウドルフさま」
少年従者ヨシアスの馬と轡を並べたリウドルフは、革手袋をはめた手で手綱を握り、顔を前に向けたままだった。
「ヨシアス。冬の夜に邑の外にわざわざ出て行くどのような用事があったというのだ」
「じゃあ自殺だ」
若いのに寒がりのヨシアスは途を引き返したい様子を隠そうともしなかった。晴れているとはいえ、早春の道はまだぬかるむほどではない。馬上にいても足許は冷える。
「若い娘にありがちな気鬱が理由の自死。それでどうでしょう、リウドルフさま」
「当て推量だそれは」
十歳年下の少年従者ヨシアスをいなして、リウドルフはヨシアスの注意を前方に向けさせた。雪の下から土が覗く街道は先が分かれており、踏み固められた道の片方に馬と騎手の影がある。寒さをしのぐために街道脇に引っ込み、騎手は岩蔭で焚火にあたっている。
「ほら、邑からの迎えだ。自警団の者だろう」
「たとえ相手が賢伯の覚えめでたいリウドルフさまであっても、ああいう邑の自警団は、よそ者の介入を酷く嫌うんですよね」
広野を流れる吹き曝しの風が細かい雪を巻き上げる。ヨシアスは襟巻きにもう一度、首を埋めた。
カウフンゲンの森に囲まれた小さな邑だった。ヘンゼルとグレーテルの兄弟は両親の死後、二人きりで邑はずれの家に暮らしていた。邑の人たちはみんなグレーテルを避けていたということだ。グレーテルが悪いのではない。歳の離れた兄のヘンゼルが異常なほど嫉妬深かったからだ。
ヘンゼルは、妹に近づく男は相手が誰であろうと噛みついて回った。そんな時、グレーテルは一つに束ねた金糸のような長い髪を揺らし、細く白い首を傾けて、「ヘンゼル兄さん、やめて」と小声で訴えるのだ。
「ギュンターとは、もうすぐ子どもが生まれる牝馬の話をしていただけよ」
「あの野郎はお前に笑顔を向けていたじゃないか」
グレーテルに流し眼をくれたというだけで、ヘンゼルは立ち寄っただけの旅人を馬で追いかけ回して邑から追い出したこともあるそうだ。
そんな話を道すがら、トマスと名乗る自警団の若者はリウドルフに語ってきかせた。トマスは片目に包帯を巻いていた。
「その怪我はどうしたのです」
無遠慮にヨシアスが訊くとトマスは、「同じ自警団にいるわたしの兄も、崖下でヘンゼルを見つけたギュンターも、邑の他の者も、同じ目に遭ってます」と応えた。
「グレーテルが餌付けしていた猫がいたのですが、兄妹が姿を消してから、誰彼問わず襲い掛かってくるのです。リウドルフさま、まずは邑長の家でご休憩を」
リウドルフは道順を訊いた。
「手前にその者の家があるのならば、先にそちらに立ち寄りたい」
従者ヨシアスと自警団のトマスを連れて、リウドルフは遺体の第一発見者ギュンターに逢いに行った。
ギュンターはちょうど庭に出て、春の種まきに使う農具を表に並べているところだった。青空から吹く風はまだ冷たいが、陽ざしは日なたの雪を溶かしている。ギュンターも猫にやられたものか手の甲に包帯を巻いていた。
そりゃあんな綺麗な娘っこだもの、男はみんなグレーテルに惚れてたさ。
ギュンターはリウドルフの質問にぺらぺらと答えた。
「けれど、手も握ったことはねえよ。なにせあの兄が厄介で」
横に広がった低い鼻をひくつかせたギュンターは、リウドルフの背後にいる自警団のトマスにも同意を求めるように声を大きくした。
「だからよ、あの兄妹は実は夫婦として暮らしているんじゃねえかって、そんな話も出るほどだったのさ」
「神に背いていたと、そう云うのか」
「いや、そこまでは」
リウドルフの問いかけに、慌ててギュンターは媚びるような薄笑いを浮かべて、「そんなわけないさ、さすがにそれは」と誤魔化した。
「新しい
トマスが農具に眼を留めた。木ではなく鉄製の鍬だった。
ギュンターは鍬の持ち手をさすった。
「前のはおやじの代からの物で、錆びて欠けて駄目になっちまったんだよ」
「あの夜、お前はこの家に居たのだな」
「夜半は吹雪だ。何処にも出かけたりしねえです」
ぼそりとギュンター付け加えた。
「その前にはちょっくら居酒屋で呑んでいましたが」
「ギュンターを容疑者に加えます」軽蔑を浮かべた眼差しでヨシアスがリウドルフに囁いた。
邑長の家は漆喰と煉瓦を組み合わせた典型的な木組みの家で、傾斜のきつい大きな屋根を持つ三階建てだった。邑にいる間はこの家に滞在することになる。
馬を預けたリウドルフは席を温める間もなく、「陽が高いうちに現場へ」と新しい馬を借り受け、ヨシアスを伴ってすぐに出かけてしまった。その際、
「貴方も猫にやられたのですか」
町長の頬の傷を一瞥してリウドルフは出て行った。
リウドルフを送り出した邑長は妻に肩をすくめてみせたが、妻のマルティナは女中を差配してカッセルからやって来た若い客人をもてなす準備に大忙しで、夫君を見てもいなかった。
「ここが兄妹の暮らした家です」
トマスが案内してくれた邑外れの家は何の変哲もない民家だった。庭と井戸を持ち、こじんまりとしていた。
申し訳程度にノックをしてから、彼らは家の中に入った。
「猫は」
「いませんね。餌をくれる人がいなくなったので邑を出て行ったのでしょう」
「近親相姦が本当なら、駈け落ちでもしようとしたんじゃないですか」
ギュンターの話を真に受けたヨシアスが決めつけた。いや、とリウドルフはそれを否定した。兄妹の家の中は、雑然としたままだ。覚悟の出奔ならば少しは荷を持ち出して、片付けて行くものだ。
それに、ヘンゼルとグレーテルの遺体は森と河、それぞれ別の離れた場所で見つかっている。
「グレーテルの室は片付いているのです」
自警団のトマスは娘の室内を二人に見せた。小綺麗にきちんとしていた。グレーテルが覚悟の家出をし、兄のヘンゼルがそれを追いかけたとみるのが妥当だろう。
「こちらが彼らの遺体を埋葬した墓です」
日没が近かった。空に流れる雲が色濃い。トマスが指し示した墓所の一角には、まだ真新しい十字架が二つ並んで建っていた。
》中篇
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