第48話 旅立ち

 その日、沙羅は明け方に目を覚まし、再び目を閉じたが、眠ることはできなかった。まぶたに浮かぶのは一昨日、空港で会った翔太の姿だ。沙羅との別れを惜しむその顔には、隠しきれない瞳の輝きがあった。

 沙羅は込み上げる寂しさに襲われながら、その瞳を見つめ、微笑んだ。

「週末の大会、がんばって」

 翔太は目を細めて頷いた。


 たとえこの大会で結果を残せなかったとしても、翔くんはきっとまたニューヨークへ行く。

 翔太から立ち上る熱気や緊張感が、沙羅には視えるようだった。

「翔くん、家族には言ったの? ニューヨーク行くこと」

 翔太は黙って首を横に振る。

「そっか」

「沙羅も明後日、がんばれよ」

 優しい眼差しでそう言うと、翔太はスーツケースの取っ手を掴んだ。踵を返し、保安検査の中へと入っていくその背中が見えなくなるまで、沙羅はその場で見送っていた。



 沙羅はベッドから抜け出ると、手早く準備を済ませ、家を出た。凍てつくような寒さがコートの隙間から入り込み、沙羅の昂ぶる感情を宥める。

 バスと電車を乗り継ぎ、予定よりも早く原宿に着いた沙羅は、ゆっくりと歩き出した。朝の原宿は、沙羅の知っている街とはまるで違う。サラリーマンや制服姿の学生が忙しげに行き来している。


 沙羅は灰色の街に吸い込まれ、明治通りを新宿の方へと向かった。

 実技試験で歌う『Feeling Goodフィーリング・グッド』の歌詞を何度も胸の中でなぞる。

 大丈夫、大丈夫。オープンイベントであんなにたくさんの観衆の前で歌えたんだもの。

 沙羅は自分を鼓舞しながら、歩みを進める。通りの先には雲一つない青空が広がっている。

 だけど、もしまた頭が真っ白になってしまったら?

 そんな不安がふと頭をもたげ、深呼吸を一つする。

 それでも、もう一度歌いたい。あの時、見せられなかった歌の世界を見てもらいたいから。


 専門学校の敷地に足を踏み入れたのは、試験開始より一時間も早かった。沙羅は扉の中へは入らずに、小さな園庭のベンチに腰を下ろし、左右を見渡した。咳ばらいを一つし、発声練習を始める。最初は控えめだったその声は、次第に声量が増していった。

 地面からの冷気で沙羅の脚は震えていたが、音は良く響いた。冷えた空間に亀裂を入れ、地面を震わすような低い声だ。沙羅は『Feeling Goodフィーリング・グッド』を歌い始めた。


 ここは、1960年代のイギリス。

 沙羅は英玲奈から聞いたミュージカル『ドーランの叫び、観客の匂い』の世界へと入っていった。この物語は二人の白人男性が主人公だ。階級社会の上層に属するSirサーと下層のCockyコッキーCockyコッキーは仕事においても恋愛においても、Sirサーに陥れられ、嘲られる。同じ白人であるにもかかわらず、その断崖を登る度に蹴落とされるのだ。Cockyコッキーは怨念を抱きながらも、心を殺し、諦めていく。

 そんなある日、更に過酷な扱いを受けていた黒人男性がゲームで二人に勝つ。『Feeling Goodフィーリング・グッド』は、その黒人男性が歌った解放の歌なのだ。Cockyコッキーはその姿に心を打たれ、Sirサーに立ち向かうようになる。


 沙羅は、空を見上げた。澄んだ青空に、実際にはいないはずの鳥が視える。

 脚を震わせながらも、上半身は春のように温かい。吹く風にまだ来ぬ春を感じる。

 冬から解き放たれ、自由を得た鳥はどこへ向かうのか。

 あの鳥は黒人男性であり、Cockyコッキーであり、私であり、あなたなのだ。


 沙羅が歌の世界から現実へと戻った時、背後から拍手が聞こえた。振り返った沙羅の目に眼鏡の中年男性が映った。その男性は煙草を咥えながら、しばらく拍手を続け、スタンド灰皿に吸い殻を投げ入れた。

「ああ、君、そうか……あの時の」

「あの時?」

「ほら、『シャウト』のオープンイベントで歌った子だ」

 沙羅の記憶の片隅に『シャウト』のバーカウンターが浮かび上がる。藤沢とありすが話していた男性二人組の一人と、この男性の姿が合致した。

「私はこの学校でディレクターをしている者だ。他にもいろいろやっているがね。あの日、君の歌を聴いて声をかけようと思ったが、すぐに帰ってしまっただろう。こんなところで会えるとはねぇ」

 その男性は、沙羅の方へと歩み寄った。


「見事な『Feeling Goodフィーリング・グッド』だったよ。あの日、あそこで歌った子のは、ちっとばかし明るすぎたからな。ほら、疲れ切っている時に、蛍光灯の下に放り出されたらどうかい? 癒されないだろう?」

 沙羅は男の勢いに押されながらも、頷いた。

「君の歌には闇がある。闇があるから光が見える。だから、聴く者の胸に光が灯るんだ」

 男は顎の無精ひげを撫でながら、沙羅を見つめた。

「君、この学校には四年コースもあるって知っているかい? 三年次からはアメリカのバークリー音楽大学で学べるコースだ。もちろん、二年次で向こうでの試験に受かったらのハナシだが」

「知ってますけれど、高額過ぎて……」

 二年コースだってやっとなのだとは口にしなかったが、沙羅は恥ずかしそうに答えた。


「よし、分かった。私が特待生に君を推そう。試験の時に『Feeling Goodフィーリング・グッド』と『(You Make Me Feel Like) A Natural Womanナチュラルウーマン』を他の審査員の前で歌うんだ。きっと大丈夫だから」

 少年のように目を輝かせる中年男性を沙羅は少しの間、ぼんやりと眺めていた。じわりじわりと喜びが沸き上がる。

「なんだか信じられなくて」

「『 A Natural Womanナチュラルウーマン』は、私がもう一回聴きたいんだ」

 男性は破顔すると、片手を挙げ、扉の中へと消えていった。


 沙羅の脚は震えていたが、それが寒さによるものか興奮によるものか自身にも分からなかった。胸の中で『 A Natural Womanナチュラルウーマン』の歌詞を反芻する。あの時、Aretha Franklinアレサ・フランクリンにとっての『You』は神だったという。私にとっての『You』は。


 私の暗闇を照らす、光。

 それは、歌だ。


 沙羅が見上げた空には一筋の飛行機雲が、東の空へとまっすぐに続いていた。







(了)



 






  

 


 

 


 


 


 



 


 


 

 

 

 



 

 

 

 

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R&Bを胸に忍ばせて 葵 春香 @haruka_p

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