第47話 歌(2)

 京子はコーヒーカップをダイニングテーブルに置くと、沙羅の前に腰を下ろした。沙羅がコーヒーを飲むさまをじっと見つめる。

「ねぇ、本当に砂糖とミルク要らないの?」

「要らない。最近入れてないの、どっちも」

 ふうんと言いながら京子は沙羅を訝しげに眺める。

「なに」

「誰の影響かしらって」

「誰でもないよ」

 沙羅は甘党の翔太を思い浮かべながら「嘘じゃないし」と心の中で呟くと、コーヒーを口に運び、京子を見つめた。

「ママ。ジャズピアノ、楽しい?」


 京子は頷いて口元を緩めた。

「奈緒美さんのジャズを聴いたとき、音楽が体に染み渡ったの。あぁ、私、生演奏に飢えていたのねってしみじみと感じたわ。ずっと忙しさで紛らわせて気づかないふりをしていたのね」

 俯きながらコーヒーを飲み、京子は微笑んだ。

「もうクラシックは弾かないの? ジャズも悪くないけど、この前のノクターン、すごく良かったから」

「クラシックはね、たくさんは弾けないのよ。どうしても想い出してしまうから」

 寂しそうに京子は笑う。

「パパのこと、今でも後悔しているの。どうしてもっと早く病気に気づいてあげられなかったんだろうって。それに、ピアノも。短大卒だとなかなかピアノ教室の先生になるのも難しくてね、試験に何回か落ちて諦めてしまったから」

 京子は沙羅の肩越しに窓の外を見やると、しばらく雨を眺めていた。


「前のお家ではよく弾いてたのよ、パパがベースで伴奏してくれてね」

 沙羅はため息を一つついた。

「ママ。私、専門学校を卒業したらこの家を出ようと思ってる。ママ、まだ若いんだから、他の男の人とデートとかしてみたらどうかな。私がいなくなったら、なんだかちょっと心配」

 京子は目を見開いて沙羅に視線を戻した。

「何を言ってるの。パパより好きになれる人なんていないわ。そんなの失礼でしょう、お相手に」

 控えめだが毅然とした口調でそう言うと、京子は沙羅を見つめ、二人はしばし黙り込んだ。コーヒーの香りが室内に漂い、ベランダに跳ね返る雨音が響いている。


「私のことなら余計なお世話よ。今ね、とっても楽しいの。ジャズは下手だけれど、心が解放されて。パパとデュオを組んだらどんな演奏になるかしらって想像したりしてね」

「そう……それならいいけど」

 京子の顔色を窺いながら、沙羅はほっとしたようにそう呟いた。

「沙羅、奈緒美さんはね、今でこそあのピアノバーで専属ジャズシンガーをされているけれど、むかしはね、毎週のようにパパに電話がかかって来たのよ。『チケット買ってくれない? ジャズバーに来てくれない?』って。歌い手さん同士でチケットを売り買いしたりね、出費も大変そうだったわ。あなた、本当に覚悟があるの?」

 射貫くような眼差しで自分を見る京子に、沙羅は気圧されながらも強く頷いた。


「奈緒美さんも言ってたでしょ? 若いうちにアメリカに行った方がいいって。私も専門たら、お金貯めて行くつもり」

 沙羅のまっすぐな瞳に京子は黙り込み、コーヒーを一口飲んだ。それから静かに席を立つと、掃き出し窓に近づいてしばらく窓の外を眺めていた。

「さっきのちあきなおみの話だけれど、彼女はね、ジャズの他にもフランスのシャンソンやポルトガルのファドも学んだのね。そして、それを日本語で歌ったの。日本人の心に響くように」

 沙羅は体を傾けて、眉間に皺を寄せながら京子の背中を見つめた。

「ママ、何が言いたいの? 私の英語の発音じゃ通用しないってこと?」

 京子は振り返り、小さく頷いた。

「それも、あるわね。あなたがどこで歌いたいかによるけれど、アメリカで歌うのはそんなに簡単じゃないと思うわ」


 二人の間に沈黙が流れ、沙羅は唇を噛んだ。

「そんなの分かってる。ただ、私はどうしても英語でR&Bを歌いたいの。ママには分からないと思う。だってママは日本人だから」

 沙羅は込み上げる想いで視界が滲みそうになったが、唇を強く噛みしめた。

 浅黒い肌に縮れた髪の毛。一般的な日本人とはかけ離れた容姿に、日本語訛りの英語。

 もし、パパが生きていたら英語の発音だってもっと良かったはずだ。

 沙羅は口から溢れそうな感情を押し戻そうと、深呼吸を一つした。

「そう。それが今の沙羅の気持ちなのね」

 沙羅から目を離すと、京子はまた窓に向き直り、天を仰いだ。地上の人間からは雨の生まれるところは見えない。空間から音もなくその姿を現し、まっすぐに落ちて地面を濡らすのだ。


 口に出せば自分は楽になる言葉が母娘おやこの胸に押し寄せたが、二人は長い間、黙り込んでいた。

「よく分かったわ。お金のことは心配しないで。学費ならもう貯めてあるから」

 振り返った京子の目は微かに濡れていたが、その表情は柔らかい。

「ママ。そのことだけど、そのお金、少しだけで大丈夫。あとはバイトで貯めた分と奨学金でなんとかなりそうだから」

「奨学金? 返済が大変でしょう。沙羅、さっき専門学校を出たら一人暮らしがしたいって言ったじゃない。一人暮らしで奨学金の返済もして、アメリカに行くお金も貯めるの? 無理よ、そんなの」

 京子は慌ててダイニングテーブルへ戻ると、また腰を下ろした。


「あとのお金は残しておいて欲しいの。いつか動物看護師の学校に行くかもしれないから」

 沙羅は京子の目を見据えてそう言うと、口角を上げた。

「どういうこと? 保険をかけておくということ?」

「そうとも言えるけれど、ちょっと違う。あのね、私、一生シンガーでいたいの。大きいステージで歌えるならそうしたい。でも、小さいステージでもお客さんの前で歌えるなら歌いたいの、一生」

 京子は何度も瞬きをしたが、沙羅は構わずに話し続けた。

「歌を歌い続けるために、手に職をつけようと思ってる。歌は私の家族で友達なの。離れて生きていくことなんてできない」

 意志のこもった瞳で沙羅は京子を見つめ、二人は黙り込んだ。

「分かった。沙羅がそう言うなら、そうしましょう」

 水仙の蕾が開くように京子は顔を綻ばせ、瞳を潤ませた。謝罪と感謝の言葉がそれぞれの胸に去来したが、口から出ることはなかった。二人は黙ってカップに手を伸ばすと、生ぬるくなったコーヒーを口に運んだ。

 


 

 


 


 


 


 

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