第46話 歌(1)
沙羅はバスに揺られながら、濡れたビニール傘がコートに触れないように足元を見た。傘の先端には小さな水たまりが出来ている。沙羅は目の前の空席に視線を移し、それから窓の外を眺めた。バスは教会の前を通り過ぎ、父親の命日に歌った『Listen』が沙羅の頭に流れた。あの日の京子の表情を想い出し、沙羅は唇を噛んだ。
帰ったら、これからのことをちゃんと話さなきゃ。
窓の外を眺めながら、今朝の翔太の言葉がぐるぐると沙羅の頭を巡る。
学費を払ってくれても応援してくれないよりは、全額は払ってもらえなくても応援してもらいたいの。
そう翔太に言おうとして、沙羅は言葉を飲み込んだのだ。翔太を傷つけてしまうような気がしたから。お金で手に入るものとお金で手に入らないもの。どこからどこまでがお金で手に入るのか沙羅には曖昧であったが、両親からの無償の愛だけはそうではないことは分かる。
才能は?
沙羅は自分に問いかける。本来、才能はお金では手に入らないはずだ。しかし、才能は目に見えないから厄介なのである。本来、より才能がある者が立つ場所にお金や性等を取引して立つ人間がいるのだから。そして才能を食い物にする人々も。
沙羅は翔太やありす、亮や英玲奈のことを考えた。それから、マイケルジャクソンやホイットニーヒューストンの人生や彼らの最期も。
自分の実力を試してみたい。でも、私、不幸にはなりたくない。聴く人を幸せにしたいし、自分も歌うことで幸せになりたい。それがどんなに小さなステージだったとしても。
自宅最寄りのバス停で降りて、沙羅は傘を開いた。ビニールを
見慣れた古いアパートに近づくと、沙羅はアパートの駐車場で思わず立ち止まった。『Feeling Good』のメロディーが流れてきたのだ。
ママだ。ママが弾いている。
二階の窓を眺めながら、沙羅は胸がぎゅうっと押しつぶされるように感じた。「ピアノバー ヴューカレ」に行って以来、京子がジャズを弾き始めたのは知っていた。その音色は奈緒美の軽快で胸が弾むような演奏とは違い、優しく物悲しいものであったが、どこか激しさを感じさせた。
私、やっぱりこの曲、歌いたい。今度の実技試験はこの曲にしよう。
演奏が終わり、沙羅がイベントで歌い損ねた後悔と決意を噛みしめながら歩き出すと、京子は別の曲を奏で始めた。
雨の中、道端で遊ぶ子どもや話し込む人がいなかったせいであろうか。抑えた音量でも京子のピアノはよく聴こえた。
この曲、私が小さい頃、ママが子守歌代わりに歌ってくれた曲。
京子は前奏を弾き終えると、細い声で歌い始めた。それは小さな声であったが、沙羅には耳元で歌われているようによく聴こえた。『黄昏のビギン』。この曲のオリジナルは水原弘だが、それを1991年にちあきなおみがカバーしたものが京子のお気に入りだった。
沙羅は再び駐車場に立ち尽くしながら、京子の繰り広げる歌の世界へと入っていった。歌の中の男女が出会ったのは、こんな雨の日だったのだろうか。雨など気にせず歩き続ける二人。それは自分と翔太であり、京子とルイスなのだ。
京子の歌声は技術的には上手とは言い難かったが、沙羅の胸を震わせた。夕暮れの中、二人がキスをするシーンが胸に浮かび上がる。沙羅は歩き出し、静かに外階段を上り、そっと玄関を開けた。京子は沙羅の帰宅に気づいていないのか、次の曲へと移った。
沙羅はドアの開け放されたリビングの前で立ち止まり、その曲に聴き入った。『黄昏のビギン』リリースの四か月後にちあきなおみが発表した『紅い花』。沙羅は初めて聴いた曲だったが、京子の哀愁を帯びた声に引き込まれた。
翌年の1992年、ちあきなおみは夫の
暗闇の中で朧げに光る昔の想い出。愛しい人。後悔と懐かしさを持て余しながら酒を飲む女性。歌の中のその女性に京子は自分を重ねているのだろう。沙羅は身じろぎもせずに歌を聴き終えると、咳ばらいをしてリビングへと入った。
「沙羅」
京子は振り返ると、驚いた顔で沙羅を見つめた。
「ただいま。ママの歌、久しぶりに聴いた」
沙羅はごまかすように京子から視線を外すと、鞄を床に置いた。
「いやねぇ。聴かれてるって知らなかったから。帰ってきてたなら、早く言ってちょうだい」
ピアノチェアから立ち上がると、京子は恥ずかしさを隠すように沙羅の前を通り過ぎ、台所へと向かった。
「ちあきなおみでしょ? 小さい頃、ママが歌ってたの想い出しちゃった」
沙羅はダイニングテーブルに座りながら、コーヒーを淹れる京子を見て微笑んだ。
「あら。覚えていたのね。ママが小さい頃にテレビで観て、あの雰囲気と歌のうまさにびっくりしたの。なんていうのかしら、陶酔しながら歌うんじゃなくて憑依しながら歌う感じなのね。歌の世界に」
「憑依?」
「そう。その歌の主人公になり切るのね。歌がうまいってこういうことなのねって思ったのよ。私は歌のことはよく分からないから上手に説明できないけれど。奈緒美さんの演奏聴いてから、私もジャズピアノを練習してるでしょ。そういえば、ちあきなおみが『朝日のあたる家』を歌ってたなって思い出したの」
「なに、その曲?」
「『The House of the Rising Sun 』っていうアメリカの古いフォークソングがあるの。いろいろなバージョンがあるけれど、ニューオーリンズの娼館で娼婦の女性が自分の半生を悔いる歌なの。それを日本では浅川マキやちあきなおみが歌ったのね。それが『朝日のあたる家』よ。ちあきなおみのは迫力がすごいから、今度沙羅も聴いてみて。私が小さいときにね、テレビで観て怖くて泣きそうになったくらいよ」
ふふふと笑いながら京子はコーヒーカップを両手に持ち、ダイニングテーブルの方に歩み寄った。
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