第45話 雨(3)
薄明りの中、沙羅は上半身に刺すような冷えを感じ、目を覚ました。掛布団は腰から下だけに掛かり、その半分を隣の翔太が抱え込むようにして沙羅に背を向けて眠っている。沙羅は裸の上半身を起こし、布団の周りに脱ぎ捨ててあった部屋着をかき集め、袖を通した。沙羅が以前、持ち込んだそのスウェットをどうやら自宅に持ち帰らずに済みそうで、沙羅は安堵していた。
ローテーブルの上には酎ハイの空き缶や封が開けられたスナック菓子が散乱している。沙羅はぼんやりとそれらを眺めながら、昨夜の翔太の不安げな表情を思い出していた。手首に微かな痛みを感じ、沙羅は袖を捲ってそこについた赤い跡を見た。ふいに翔太の激しさが思い出され、沙羅は交互に手首を
濃紺の遮光カーテンを少しだけ開けると、レースカーテン越しに凍てつくような冷気が忍び寄る。夜が白み始め、昨夜の雨が雪になり、みぞれへと変化したことが見て取れた。日曜の朝らしく、行き交う人は少ないが、目の前の道を人が通るとジャリジャリと音が立った。
「こっち来いよ。寒いだろ?」
沙羅が振り返ると、翔太が横になったまま沙羅のスペース分の掛布団を右手で開けている。
「起きたんだ」
「いなくなったかと思ってビビった」
「ふうん。別れたかったんだから、ラッキーなんじゃないの?」
「沙羅」
「なに?」
「けっこう根に持つタイプ?」
沙羅はふふっと口の中で笑った。
「どうかなぁ。遮光カーテン開けるよ?」
シャーっと音を立てながらカーテンが両脇に滑ると、灰色の朝が部屋の奥へと滑り込んだ。
「あ、開けちゃうんだ。いや、別に俺は気にしないけどさ、電気つけなきゃ見えないし」
翔太は右手を掛布団から外すと、沙羅を手招きした。
「ねぇ。翔くんも仕事だし、私も午後からバイトだから帰って着替えよっかな。だから、そろそろ起きよ?」
「分かってる。だけど、最後にぎゅってしたいだけ」
甘えるような翔太の眼差しに「もう」と呟くと、沙羅は翔太に近寄り布団に足を入れた。その瞬間、翔太は沙羅の上半身を布団に引きずり込んで、自分の脚の間に沙羅の脚を挟み込んだ。
「足の先、冷てぇ」
「だって、翔くんがいつもみたいに掛布団、抱き枕みたいにしちゃうから。寒かったんだもん」
「ごめん」
二人はしばらく見つめ合い、笑いあった。それから、翔太は優しい瞳で沙羅を見つめながら髪を撫でた。
「沙羅、ごめん。いろいろ。でも、嬉しかった、沙羅の気持ち。人に頼ったり弱みを見せたり……そういうの、俺もうずっとしてなかったから。沙羅にはしてもいいんだって思ったら、少し楽になった。だけど、また不安になったら我慢しないで言って。頼りないかもしれないけどさ、俺にできることはする」
沙羅は黙ったまま頷いた。翔太の体温が自分の足の冷たさを溶かし、体の芯から温まるようだった。こうしていると、翔太と自分の体や自我までもが一つになるような感覚がした。
翔くんが夢を叶えたらそれは自分のことのように嬉しい。たとえ、自分の夢が叶わなくても……。ううん、やっぱり夢は叶えたい。でも、翔くんみたいに大きな夢が叶わなくても小さな夢だとしても叶ったら嬉しい。私も頑張らなきゃ。
沙羅はいつしか心地よいまどろみの中で眠りに落ちていた。
時間にしてわずか十五分位だったろうか。沙羅は深い睡眠を体感し、目を開けた。翔太は何やら思案顔であったが、沙羅が目を覚ましたことに気づくと口を開いた。
「沙羅、昨日も言ったけどさ、奨学金のこと、今日にでもお母さんと話し合って申し込んだ方がいいと思う」
沙羅は目を擦りながら、顔を曇らせた。
「うん。でも、翔くんが言ってくれた返済なしのは、私、高校の時の成績があまり良くないから……」
「そっちじゃなくて、世帯収入の方な。母子家庭の」
「だけど……お母さん、お金は貯めてるみたい。だから、そんなこと言ったらプライドを傷つけそうだし、だったら全額払うって言うと思う」
「なんだ。全額払ってくれるなら、心配いらねぇじゃん」
「そうだけど、そのお金は私に動物看護師の専門学校に入って欲しくて貯めたお金だから」
沙羅は覚醒した頭の中で思いを巡らし、上体を起こした。翔太も布団の上で胡坐をかく。
「私、前はとにかく音楽専門学校に行くことだけ考えてた。でも、ありすちゃんに会って、ほら、昨日私の代わりに歌ってくれた子ね、ちょっと考えが変わった。この道で食べていけるかどうかは分からないから、他の道も考えとくのは大事だなって。だから、お母さんが貯めてくれたお金は使わないでおいて、この道じゃ厳しいってなった時に使おうと思ったの。その時は、動物看護師を目指そうと思う。動物好きだし、やりがいはあると思うし」
沙羅の真剣な表情に翔太は黙って頷いた。
「高校の時のバイト代とこの一年のバイト代を合わせたら、後はお母さんに少し出してもらえれば、奨学金でなんとかなると思う。卒業したら返済しなきゃだけど。もちろん、バイトは続けるし。あ、でも夜の仕事は時給高くてもしないよ。翔くんが言ったみたいに、生活リズムが崩れてレッスンとの両立が難しくなりそうだし」
翔太は沙羅の話を聞き終えると、目を細めて沙羅を見つめた。
「分かった。頑張れよ。応援してるから」
沙羅は微笑みながら大きく頷くと、気合いを入れるかのように立ち上がった。
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