第44話 雨(2)
二人は長津田駅で降り、互いに押し黙ったまま歩き出した。降りしきる雨が、沙羅のフェイクファーの白いコートを濡らしていく。翔太はダウンコートのフードを被りながら、横目で沙羅の表情を窺った。沙羅の横顔はカールされた髪で隠され、翔太からはよく見えない。
翔太は小さくため息をついた。
「沙羅さ、俺んちこっから二十分かかるじゃん? 俺はフードあるけど、沙羅は濡れちゃうからさ、あそこのコンビニ行かねぇ?」
「いい。大丈夫。濡れたいし」
翔太の方を見ずに、沙羅は固い声で答えた。
「いや。俺んち、今何もないから。俺、腹空いてるし、なんか買うわ。明日の朝のメシも買いたいし」
翔太も前を向いたまま自分に話すようにそう言うと、コンビニの方へと足早に歩き出した。沙羅は翔太の背中を眺めながら、心の中でため息をつく。翔太はコンビニへと入っていき、沙羅も渋々その後を追ったが、店内へは入らずに店先で雨宿りをしていた。
針のような雨が上から幾筋も落ちてきては、駐車中の車や地面に跳ね返る。
水はいいなぁ。蒸発してまた落ちてきて、何度も繰り返せる。私、次は人間じゃなくて水になりたい。肌の色もお金も才能も関係なくて、川になったり海になったり、生き物を助けたりできるし。感情なんてめんどくさいだけ。
かじかんだ手を握りしめながら、沙羅は雨を見続けていた。
その手にカフェラテの缶が当てられ、沙羅は翔太が隣りに立っていることに気づいた。
「ん。飲んで」
沙羅は渡された温かい缶を両手で包んだ。翔太は砂糖のたっぷり入った缶コーヒーを開けながら、ぎこちなく笑った。その左腕にはコンビニの袋とビニール傘が掛かっている。沙羅はそれを見つめ、深呼吸を一つした。
「翔くん。嫌いにはなってなくても、私のこと、前ほど好きじゃないんでしょ?」
翔太は缶から口を離し、俯いている沙羅の横顔を見た。
「だから、そうじゃなくて」
「じゃあ、いいじゃん。別れなくて」
きっぱりとした口調でそう言うと、沙羅は翔太の方に首を傾けた。その口調に反して、沙羅の瞳は揺れている。翔太は缶コーヒーを一口飲んだ。
「一昨日、沙羅が『置いて行かれた気がする』みたいな事、言ってただろ? あの後、俺もけっこう考えた。そう思わせちまった俺も悪かったなって。だけど、仕事もイベントもダンスの練習も、どれも減らせないんだ。正直言うと、減らすのが怖い。こんなチャンスなんか、もう来ないかもしれねぇし」
翔太はいつになく真剣な眼差しで沙羅を見つめ返した。
「今日もイベントで遅くなってほんと、ごめんな。沙羅のこと、応援してるんだ。今日、沙羅のステージ見てて、すげぇなって思った。なんかうまく言えねぇけど、泣きそうになった。沙羅のあんな笑顔も、見るの久しぶりだったし……俺は沙羅になんもできてねぇのにな」
沙羅から視線を外すと、翔太はごめんと呟いた。
沙羅は黙ったままプルタブに指をかけると、ゆっくりと開けた。駐車場から車が発進するのを眺めながら、沙羅は口に広がる甘ったるい液体を飲み込み、吐息をついた。
「あの曲は、翔くんのおかげで歌えたの。有名な曲だから歌詞は知ってたし、家で歌ったりもしてたけど。練習してないし、上手に歌えてないって分かってる。でも、あの曲名を聞いた時、翔くんのことが浮かんだ。歌いたいって思ったの」
沙羅は顔を上げて翔太を見ると、目に力を入れた。
「あの時、私、あの曲の主人公になってた。自分の気持ちに気づいたの。翔くん、あのね、私も後悔したくない。まだ私のこと好きな気持ちが強いなら、諦めたくない。二人で頑張ってみて、それでもだめだったら、別れよ?」
「けど……それでだめだったら、沙羅がもっと傷ついたり嫌な想いしたりするかもしれねぇよ? こんな風じゃなくて、なんつーか、二度と顔も見たくなくなるようなさ」
「いいよ。私、その方がいい」
翔太の言葉に被せるようにそう言うと、沙羅は一気にカフェラテを飲み干した。
「まだやれることあったんじゃないかなって思うくらいなら、やるだけやってからバイバイしたい。だいたいさ、いい人ぶって別れようとするのズルい。逃げてるだけじゃん」
怒っているのか笑っているのか判別がつかない表情で、沙羅は翔太を見つめた。
「逃げてるっつーか……」
「悪者になりたくないんでしょ?」
翔太は言葉を返せずに、曖昧に笑った。
「別に忙しくて会えないくらいで嫌いになんないし。そんな薄っぺらい女じゃないし。ただ、翔くんが違う世界に行っちゃう感じで不安になっただけ。でも、私、やっぱり翔くんといる時の自分が好きなんだよね。自然でいいんだなって思えるから」
沙羅は翔太の瞳が揺れるのを見て、自分もうっすらと涙を浮かべながら微笑んだ。
「そっか。嬉しい、それは。沙羅って気ぃ強いわりに、あんま自分の気持ち言わないしさ。告ったのは俺だったし。だけど、あと三週間で俺もアメリカ行くし、沙羅も専門の試験だろ? しばらくは会わないようにして、お互い自分のことに集中しよう。な?」
翔太の言葉に沙羅が頷き、二人はしばらく見つめ合った。
「あとさ、専門の学費のことだけど、俺が前にした話、お母さんに言った? 言いにくいのは分かるけどさ、話し合ってみな?」
そう言って沙羅が手にしていた空き缶を取ると、翔太は店内のごみ箱に捨てに行った。沙羅は長い溜息をつくと、駐車場に流れる雨水を眺めた。雨水は小さなゴミを巻き込みながら、排水溝の方へと流れていった。
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