第43話 雨(1)

 全ての演奏が終わった後も、客達は酒場の雰囲気を楽しむかのように飲食を続けていた。

 英玲奈は舞台袖にシンガー達を集めて労いの言葉をかけ、沙羅はぼんやりと英玲奈の顔を見つめていた。初舞台を終えた安堵と開放感が一気に押し寄せ、英玲奈の言葉がふわふわと沙羅の頭を通り過ぎる。

「ありすさんと沙羅さん。あなた達はもう帰っていいわよ。あまり遅いと親御さんも心配するでしょう。特にありすさんは十八歳と言ってもまだ高校生なんだから。もう上がって」

 急に沙羅は現実に引き戻され、ありすの横顔を見つめた。

 同い年って言っていたのに……。高校生だったなんて。


「はい。ちょっと亮先生に挨拶してから帰ります」

 ありすは英玲奈にそう答えると、自分を凝視する沙羅を見つめ返した。

「何? 同い年とは言ったけど、同じ学年とは言ってないでしょ? 亮先生から沙羅ちゃんは早生まれって聞いてたから。私、五月生まれだし。嘘はついてないよ」

 含み笑いをしながらありすは沙羅の肩をポンと叩いた。

「ラッキーだったじゃん。瑤子さんから歌、もらえて。ま、私は業界のヒトと話せたけどね。これから歌の感想を聞きに行くつもり。じゃあね」

 ありすは沙羅の横を通り過ぎながらひらひらと右手を振った。タイトな白いドレスはありすのほっそりとした腰を際立たせ、同性の沙羅でさえも妙な気分にさせられる。沙羅は何も言えないまま黙ってその後ろ姿を見つめていた。



 ライブバーから一歩外に出ると、突き刺すような寒さが沙羅の首筋を襲う。沙羅は身震いをして隣の翔太に寄り添った。以前、ライブバーの隣にあった倉庫は取り壊され、きれいに整地されていた。駐車場とその先の大通りへと続く道を庭園灯が照らしている。沙羅は立ち止まって、かつてロッキーがいた場所を眺めた。

「どうした?」

 翔太はダウンジャケットのチャックを閉めながら、怪訝そうな顔で沙羅を振り返った。

「寂しいなと思って」

 沙羅の顔を見ながら、翔太は「何を」と問い返さずに考え込む様子を見せた。沙羅は翔太のもとに駆け寄り、二人は再び歩き出した。

 隣を歩きながら二人は別のことを考え、それをお互いに何となく気づいていながらも黙って歩き続けていた。さっきまでのざわめきと心地よい音楽が二人の体内に残り、その余韻に浸る一方で、二人の間に沈んだおりがそれによって浮き上がったかのようであった。


「沙羅」

 翔太の低い声に、沙羅はなぜだか身を震わせた。

「すごかった、沙羅のステージ。感動した」

 沙羅はゆっくりと翔太の顔を見て、安堵するように頷いた。

「最初の出番の時、頭、真っ白になっちゃって。恥ずかしかったし、いろんな人に迷惑かけちゃった。でも、あのおかげで腹が据わったって感じ?」

 照れ隠しの笑みを浮かべる沙羅を、翔太は温かい目で見つめ返した。シャッターが降りた商店街は静けさに包まれ、二人が口を開く度に言葉は白い息となって吐き出された。

「ねぇ。寒いから早く帰ろ。今日は友達んちに泊まるって言ってきたから。翔くんちがここから近くて良かった。うち、遠いもん」

 沙羅が翔太の袖を引っ張り急かすようにそう言うと、翔太は頬をこわばらせた。


「沙羅。あのさ……最近ずっと考えてたんだけど、今日沙羅のステージ見てやっぱこのままじゃダメだって思ってさ。俺達、一回距離を置かないか?」

 立ち止まる翔太の袖を掴んだまま、沙羅は黙って翔太の顔を見つめた。

「やだ。絶対やだ」

 絞り出すようにそう言うと、沙羅は一層強く袖を握りしめる。

「なんで? なんで? やだよ、別れたくない」

 翔太の発した言葉が像を結ぶと、沙羅は打ち消すかのように掠れ声で繰り返した。いつしかぽつりぽつりと雨が降り出し、二人の上着とコンクリートを濡らしていった。


「ごめん」

 翔太の目には温かい光が宿っていたが、その奥には決意が潜んでいる。沙羅は掴んでいた翔太の袖を強く揺すった。

「ねぇ、意味が分からない。なんで? 嫌いになったの?」

「そうじゃない。ただ……俺が忙しくなってから何もしてやれないし、申し訳ないなって。でも、正直、今は目の前のチャンスに集中したい。ここで踏ん張んないと一生後悔するから」

 沙羅は目に涙を溜めながら何度も頭を振る。

「私、何も文句言ってないじゃん。勝手に決めないでよ。ねぇ、翔くんち行こうよ」


 袖を引っ張る沙羅を翔太は悲しそうに見つめ、根負けしたようにため息をついた。

「もう遅いから俺んち来てもいいけど、何もしないよ。そういうの、沙羅にはしたくないんだ。俺、昔はそんなことばっかやってたし。相手の気持ちなんかあんま考えてなくて」

 自分の袖を引っ張り、強引に歩き出す沙羅に引きずられるように翔太は歩き出した。

「ねぇ。なんで今日なの? まだ、私のこと好きなら別れなくていいじゃん。私、やだから」

 沙羅は前を向いたまま翔太の袖を掴んだ右手を下にずらし、翔太の手を握りしめた。いつもなら強く握り返してくるその手は力が抜けたままだ。雨脚は強くなり、沙羅は凍てつくような寒さの中、必死に涙を堪えていた。

 

 


 

 

 

 

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